月曜日, 11月 03, 2008

興奮の余韻の中で……日刊スポーツに見るジャーナリストの見識

昨日の天皇賞は確かに歴史に残る名勝負だった。しかし、多くのファンに一抹の疑問を残しそうな状況だったことも確かだ。その疑問とは、実際にテレビ観戦をしていた人々や東京競馬場で観戦していた人々の中には、ダイワスカーレット優勢と見た人々が多かったからだ。実際には、精密な写真判定の基に下された裁定だった訳だが、その裁定の内容を知らない一般の人々には、「ひょっとして、実際はダイワが勝っていたのでは……」という思いが強く残る。そんな疑念を払拭する記事が、今日の日刊スポーツに載っていた。この記事を読み、「そうそう、こういう記事をつくれば、競馬ジャーナリズムが健全化する。さすが日刊スポーツ!」との、強い思いに駆られた。
 その記事には、見開き全面にゴール瞬間の3頭が映し出されている。その右脇には、JRAが公表した判定写真が掲載されており、さらに、それらの写真の中間に位置するところに、岡本記者の写真判定に対する解説記事が載っている。私が注目するのは、この解説記事なのだ。
 ゴール・ライン上、やや上方から撮影された判定写真に写っているダイワスカーレットの体躯、特に後肢とお尻部分は、明らかにウォッカより前に出ており、写真全体から見る雰囲気としては、ダイワ優勢に写る。しかし、前駆部分、特に頭からハナ先にかけては、まったく一線上にあり、どちらが優勢か素人目には分からない。一方、体躯が詰まった感じになっているダイワと比べると、ウォッカの方は身体を伸ばしきっており、全体的に流れた感じに写っている。そして、その訳を見開きにしたゴール写真の映像を基に、読者に分かる形で岡本記者の解説コラムは記述されていた。
 つまり、ゴール直前の2完歩ほどは、鞍上武豊騎手は、手綱をゆるめ、自分の頭をたてがみに埋めて、ウォッカの自由度を確保しようと努めている。一方、ダイワの安藤勝巳騎手は、最後までハミを取らせて、ウォッカ、デープスカイを差そうと取り組んでいる。その結果、ダイワの方は、首を上げ、体躯を収縮フェーズに持ち込もうとする瞬間で、ゴールを切っていたわけだ。その結果が2センチのウォッカ優勢、先着1位を確保したという解説だった。
 ハナを切り、終始先頭でレースを引っ張り、一度はウォッカとデープスカイに差されながらも差し替えしのために盛り返したダイワの粘りと根性は、見事という他ない。そして、最後はウォッカの能力、気性を信じ、「突き抜けろ!」とハミを外し気味に馬を信じた武豊騎手の技量に、ただただ、感銘するばかりだ。裁定後、二人のジョッキーはさわやかな握手を交わしたそうだが、そんな瞬間も観たかったな!
 一夜明け、冷静になると、レース戦略上の興味が幾つか沸いてくる。逃げるダイワスカーレットを斜め後方から2番手で追走したトーセンキャプテンはウォッカと同じ角居厩舎の馬だ。鞍上はペリエ騎手。コーナー通過順を見てみると、長い直線に入る第4コーナーまで、ダイワを追い詰め、追走している。これは、角居厩舎の作戦だったのでは? ピッタリ追走されれば、ダイワも鞍上アンカツさんも、相当に心理的プレッシャーを受けることは想像に難くない。つまり、第4コーナーまで追走し、ダイワを消耗させる作戦だったとしたら、よく考えたと思うのだ。
 そう思える理由がももう一つある。スタート直後、一枠右隣のトーセンキャプテン(ウォッカは14番、トーセンキャプテンは15番)は、ウォッカの動きを邪魔しないようにするするとウォッカを抜いて、ハナを奪おうとするダイワの右後方に上がっていった。この動きをウォッカ武は、平然とやり過ごしているように見えたのだ。あらかじめ考えられていた予定調和へ向かうように。つまり、ダイワを疲弊させるためのラビットとしての役割をトーセンキャプテンが担っていたのではないかという推理だ。
 だとしたら、角居調教師の作戦勝ちとも言えるのではないだろうか。ダイワスカーレットの松田国英調教師は、角居勝彦調教師の師匠であり、この師弟対決も語り継がれるだろう。その松田国英調教師は、「おれもウォッカみたいな馬を調教してみたい」と、独特な言い方で相手を讃えたらしいが、7ヶ月休養明けで大舞台に出走させる手腕と自信からすると、負けたとは思っていないはずだ。
 ファンとしては、ウォッカVSダイワスカーレットの再戦をもう一度見たい。もちろん、その場合も私はウォッカに賭ける。安田記念に引き続き、2度もG1的中に導いてくれたアイドルを、そう簡単には見限れない。それにしても、口取りに現れたウォッカの泰然とした気品ある勇姿には惚れ惚れとするではないか。「本当に、女の子なの?」と思ってしまう。

日曜日, 11月 02, 2008

天皇賞・秋

巷では、3強対決と言われていた。約半年の休養あけから戻ってきた昨年度最優秀牝馬のダイワスカーレット、そして昨年度のダービー馬であり今年の安田記念を制したウォッカ、今年度のダービー馬ディープスカイの3頭だ。結着は、人気通りに、1着ウォッカ、2着ダイワスカーレット、3着ディープスカイだった。しかも、上位4頭までタイム差なしのレコード結着。1着2着3着は、まさに単勝オッズの順位そのままだった。
 このように、世論の予想通りにことが運ぶ事というのはなかなか無いことで、その意味でも驚いている。我が馬券は、馬連と3連単のダブル的中ではあったが、配当が低くて、またもや儲けそびれ。しかし、G1で的中すると実に爽快だ。勝利ジョッキー・インタビューで、武豊が「勝たせてくれたファンの皆さんとウォッカに感謝します」と、やけに神妙だったことが印象的。そうだろうと思うのは、彼にとって、今年のG1は不運続きで、2月のダート重賞フェブラリー・ステークスをヴァーミアンで制して以来となるからだ。また、天皇賞の前哨戦毎日王冠では意表を突いた逃げを打ち、結局スーパーフォーネットにゴール直前で差されてしまい、騎乗作戦に陰口をたたかれていたわけだから、この勝ちはズシリとくるものがあったに違いない。
 しかし、毎日王冠レース直後、軽量室に戻ってくるなり、武は、「大丈夫! まったく心配いらないから!」と厩舎関係者に言ったそうだ。彼はこのときすでに、今日の結末やレースの入り方をイメージ出来ていたのだろう。その意味では、会心の騎乗だったに違いないが、ここまで接戦となり、写真判定に10分以上かかるような僅差の勝負になるとは、予想だにしなかったはずだ。それくらい、今日の一戦はデットヒートと呼ぶにふさわしい好勝負だった。
 ダイワスカーレットの安藤勝巳騎手が事前のインタビューで、今年の3歳馬の参戦(ダービー馬のディープスカイ)について問いかけられて、「古馬と3歳を比較するのは可哀想なんじゃないの」と答えている。我々には分からない世界だが、その通り、今年のダービー馬といえど、最強牝馬世代のお姉さん2頭にはかなわなかったのだから、安藤騎手のジャッジは的確だったのだ。ダイワスカーレットとウォッカの因縁の対決はどこまで続くのだろうか? ファンとしては、有馬記念あたりで、もう一度対決してもらいたいと願うのだが。

日曜日, 10月 12, 2008

新旧天才ジョッキーの闘い 武豊VS三浦皇成

武豊騎手はデビュー当時から天才の呼び名を欲しいままにしてきた。同期の蛯名正義騎手に言わせると、「豊は人間じゃないから!」。それほど、彼の勝ち鞍数は飛び抜けており、毎年100勝以上を積み重ねている。ところが、今年3月に競馬学校を卒業した新人のなかから、武豊を超えるジョッキー、新しい天才とうたわれる新人が出てきた。
 三浦皇成騎手だ。三浦騎手は、中央競馬にデビューしたその日に重賞を勝利し、周囲を驚かせたが、その後も勝ち鞍を積み重ね、先日ついに武豊が持つ新人初年度勝利数69勝に並んでしまった。それだけでなく、新人最多年間騎乗数は、昨日時点で武豊騎手のもつ554鞍を軽々とこえてしまったのだ。昨日は4つもの1着を稼ぎ、新人勝利数でついにタイ記録となったのだ。
 さて、今日は武豊騎手も東京へ遠征し、三浦騎手との直接対決が見られるとあって、新人勝利数更新の記録が生まれるのか、それもタイトル・ホルダーたる武豊騎手との直接対決でものにするのかが、注目されていた。武騎手は、三浦の69勝タイ記録に並んだ件で、「立派なこと。すごいことだと思う」とコメントしていたが、その心中やいかに。凱旋門賞惨敗の余韻か、昨日の京都での武騎手の勝ち鞍は1つだけ。さてさて、今日はどうなるのか、このような観点でレースを眺めていた。
 新聞各紙の予想の印も、三浦びいきを反映してか、皇成の騎乗馬にやたらと○や▲印が並んでおり、「本当かいな??」と思った競馬ファンも多かったのではなかろうか。
 さて、実際の対決はどうだったか? 直接対決したレースの比較してみよう。
    武豊       三浦皇成  (人=人気順位)
1R  1着 /1人   6着 /7人
2R  12着/4人   14着/5人
3R  1着 /1人   5着 /2人
5R  1着 /3人   5着 /5人
6R  1着 /1人   12着/9人
7R  4着 /3人   7着 /1人
10R 5着 /7人   13着/3人
11R 2着 /1人   11着/3人
12R 1着 /5人   4着 /3人
 計8レースの直接対決があり、武騎手は1日に5勝するという離れ業を見せつけ、さらに、直接対決した全レースで掲示板(5着以内)を確保。一方、三浦騎手には勝利はなく、掲示板を確保できたレースは3つだけという結果だった。「天才の先輩」としての面目躍如というべきか、やはり、人業とは思えない凄みを示した。騎乗馬の人気をみても、武騎手の騎乗馬には人気馬が多く、その人気に答えている。一方、三浦騎手の騎乗馬にはかなりの人気馬がいたにもかかわらず、人気順位以下の結果が多い。過剰な三浦期待人気が馬券購入をプッシュしていたことを割り引いて考えても、今日一日限りでみた場合、軍配は明らかに武豊に上がった。
 いずれ、それもそう遠くないうちに、武騎手の新人最多勝記録は三浦騎手が破るはずだ。しかし、その前の嵐のような三浦騎手に対する洗礼はスポーツ・ジャーナル、競馬マスコミの語りぐさになるのでは。こういう競馬観戦もあったのか! を発見した面白い一日だった。
 さて、秋のG1は先週のスプリンターズSは見事ゲット! さい先のよいスタートとなった。この秋はG1に限り、参戦しようと考えている。来週の秋華賞に向けて、今晩から予習(仮説と推理)を始めるとしよう。配当は二の次、的中の二文字を目指して!
 

金曜日, 10月 03, 2008

自然に手を入れると言うことは……

里山が注目されている。人間が手入れをするから里山の生態系が維持され、山林や山の幸がとぎれることなく人々を長年にわたって潤してくれる。しかし、一端手を入れた自然を何かのきっかけで放置すると、自然は人間の恣意性を遙かに上回る猛威を持ってさまざまな植生が繁茂し、自然は自然のバランスを取ろうとする。そうなってしまうと、もう人間は手足も出ないくらいに、草木のジャングルが出現する。このような風情は、人の出入りが無くなった工場跡、人の棲まわなくなった民家の周辺で良く見受けられることだ。
 ここから学ぶことは、一端自然に手を入れたならば、つかず離れずの精神で、あくまで気長に自然とのコミュニケーションを絶やさず、自然と対話をし続けることなのだ。声を出して話しかけることを言っているのではない。例えば、草を刈り、お花を植えたとする。ならば、お花の回りくらいは草取りを欠かさず続けるとか、庭の樹木が繁茂する季節が来たならば、樹木にも夏向きに選定を施し、軽くしてやることとかを言っているのだ。
 我が造園の師匠の渡邊氏によると、昔風の土間の玄関先を持つ農家では、毎日、ほうきで枯れ葉などを集めるほうき掃除をしている。こうして毎日ほうきをかけるだけで、草は生えないそうだ。この精神が日本的な庭園創りの根底にある。インドネシア・バリ島の朝の風情もほうき掃除で落ち葉を集めることだ。
 そう言えば、幼い頃草取りを習慣付けられた記憶が甦ってきた。それは、こんな感じのものだ。小学校から帰って、カバンを家に置き、遊びに行こうとすると、「外へでたら、兎に角、草を10本抜きなさい。抜いた草は石の上に置いておけば枯れ草になり、たき火でもやせる。1回10本でも10回やれば100本。草取りは、たえず飽きないでやるもんだよ」。
 猫のみ騒動で旧宅へ出掛ける機会が増え、こんな感想を持つようになった。そして、世に言うガーデニング・ブームを疑問に思うようになった。管理されすぎのお庭には、何故か、心が響かない理由も見えてきた。その理由の一つには、日本の風土古来の植生を壊していく植栽が多いからかも知れない。外来の草花を多く植えれば、旧来の生態系が変化し、それに伴い、昆虫や野鳥の飛来も変わってしまう。昆虫が媒介した種子や種付け作業がなくなれば、草花は自然消滅していく。人間の趣味を維持し、継続的に楽しもうとガーデニングに励めば励むほど、本来の生態系から解離していくわけだ。これは、とんでもないパラドックスに気がついてしまった。旧宅の生態系をどのように維持するのか。これは相当深刻な、しかし、楽しみな課題になりそうである。

木曜日, 9月 25, 2008

彼岸花 その後の顛末

今すむ伽藍の建物から北へ約400メートル行ったところに、我が生家と昔風の田舎屋敷がある。現在は借家として、福井大学の研究職をしている若いご家族に住んでいただいているのだが、先日、猫のみが大発生し、その駆除騒ぎが勃発。業者さんにのみ退治に出動してもらい、どうにか騒動は終焉に向かっているようだ。そんなこんなで、旧宅へこのところ頻繁に足を運び、そして気がついた。旧宅には、昔から彼岸花が自生していた。今も咲いている。
 名古屋からの帰りのしらさぎの車窓から、大垣を過ぎ、関ヶ原から米原にかけての沿線には、それこそ彼岸花が今を盛りに咲いている。田んぼのあぜ道、河原や堤、さらに農家の庭先など、実に綺麗で、その彼岸花だけを追いかけていても飽きないくらいに美しい。そして、「何故、福井平野から彼岸花が姿を消したのか?」が、頭にもたげてきたのだ。その理由については、先のコラムに書いたとおりなのだが、その理由を聞くにつれ、どうしても私の身近な環境に彼岸花を再生したい気持ちになってきた。
 そこで、東海地方の田舎に住むセミナー生に頼み込んで、近くに自生する彼岸花の球根を取ってきて貰った。園芸に造詣のある彼女のおばあちゃんがその役を買って出てくれた。月曜日のセミナーのとき、彼女のおばあちゃんが採取してきてくれた球根を貰い、本当に嬉しくなってしまった。
 そして、今朝、もらった球根を伽藍の敷地内に移植した。夕方、その移植した彼岸花を見たところ、一輪だけ花までついた状態のものが、移植する前はしなびていたのに、もう精気を取り戻して、シャンとしているではないか! 自然に自生する彼岸花の強さに痺れている。来年のこの季節がいまから待ち遠しい。

金曜日, 9月 19, 2008

悲しき福井の彼岸花 ガーデニング・ショップで聞いた嫌なお話

NHKのハイビジョン・スペシャルで放映された愛知県半田市は矢勝川の堤を覆い尽くす約百万本の彼岸花。一人の老人の地道な努力が、やがて地域の人々の自然発生的な環境保護運動となり、ないよりも約2キロに渡って咲き乱れる彼岸花の堤に近郷の人々だけでなく、全国からその景観を見に来るという。その彼岸花の福井バージョンは、あまりにも寂しく、悲しい話だ。
 福井でも私の子供の頃は、あぜ道や九頭竜河の堤防には自生している彼岸花を見ることが出来た。これは、かすかに記憶に残っており、上記のドキュメンタリーを見ながら、さて、福井ではあまり見かけなくなったが、どうしたのだろうと疑問に思った。割れて垂れ下がるような朱色の花と同じく細く割れている緑の葉。何故か、心に引っかかったのだ。よく考えると、旧宅の敷地のなかに、一株か、二株、この彼岸花があったことに気がついた。しかし、現在は立ち枯れてしまったのだろう、見かけない。そうなると、無性に彼岸花を旧宅敷地内に再生させたくなった。
 そこで、園芸店に行き、彼岸花の球根を手に入れるにはどうしたらよいかを尋ねたところ、年配の女性オーナーが、興味深いお話を教えてくれた。確かに、この福井平野、坂井平野のあぜ道、河原、堤には、彼岸花は約40年ほど前までは自生していたらしい。しかし、約30年前、民間の単純なうわさ話が広がり、それを契機に、彼岸花の球根とい言う球根が、多くの福井人に寄って掘り起こされ、持ち去られてしまったのだという。その理由は、リューマチか腹下しに聞くという民間伝承が急に広まり、たちどころにその噂は彼岸花球根発掘運動に進化し、だれもが堤に出ていき、掘り起こしてしまったそうだ。
 この騒動を契機に、福井平野からは彼岸花が消えていったらしい。なんとも、人間の欲やそれに駆られた異常行動が、このような環境異変をもたらすのだという生きた実話を聞いてしまい、寂しい気持ちになってしまった。なんとか、彼岸花の球根を手に入れ、旧宅敷地内に再生するプロジェクトを立ち上げたい。

火曜日, 9月 09, 2008

壮年期の心得 大カマキリ君との運命の出会い

来週から本格的に秋の陣となる1週間前。昨日は、昨年の冬頃から気がかりになっていた視力の検査、眼精疲労について診てもらいに眼科へ出掛けた。すると、問診から始まり、いろいろ症状を話す内に、一度きっちり診断するために、麻酔を掛けて、眼球内の写真を撮りましょうということになり、両目の写真を撮影することになった。瞳孔開くための麻酔処置を施され、眼球内を撮影。その写真を診断したお医者さんは、明日(つまり今日)、もう一度、視野の検査に来院してもらいたいことと、白内障のおそれがあるので、慎重に検査しましょうと申し渡されてしまった。いやはや、マジ、怖くなった。
 そして、今日は視野検査にでかけた。検査の結果、白内障に一歩手前の状態で、ほっておけば、必ず症状は深刻化するから、予防的に発症を抑えるための継続的な治療をしましょうということになった。毎日、4,5回の点滴を目に施すための目薬を5本もらい、次回の診察時期まで指定される有り様。いやー、まいったまいった。
 壮年期に来ている割には、気分も若く、身体を丹念にメンテすることに意識が回っていなかったツケがでたようで、凹んでしまうが、一歩手前で良かった思う他ない。これを契機にすればよい訳で、そう思うことにする。
 自覚症状は、車で大学へ通わなくなった3年ほど前からあった。車をやめた理由も、あまりにも眼精疲労が激しくなってきて、危ないと感じたからだったし、そこ頃からパソコン仕事も夜の無理が効かなくなってきて、困ったものだと感じていたのだ。3年前に眼科へ行っていたらどうだったか、などという、「たられば」発想はやめにしょう。これからは、目薬を欠かさず、予防予防の毎日だ。
 そう考えをまとめると、急に清々しくなり、帰りはタクシーを行きつけの花とテントウムシに付けて貰い、エスプレッソを1杯所望し、店から家までの帰り道2キロくらいは、稲刈りのまっただ中のたんぼ道を歩いて帰ってきた。あぜ道脇には様々な草花が自生し、自家用菜園のスペースには、秋なすやしそ、赤い唐辛子、季節外れの瓜などが目に付く。どれも丹精に栽培されており、こういう野菜は大地の力を充分にもらっているのだろうなー、と変に感心してしまった。
 こういうたんぼ道を歩くのも久しぶり。清々しい新鮮な空気を満喫しながら歩いていくと、あぜ道のど真ん中に、それはそれは大きなカマキリ君が進んでくる私を睨んでいるじゃないか。あまりにも立派なその体躯は、尊厳に満ちあふれており、私が近付こうが、微動だにしない。恐る恐る、その脇をすすんだが、驚いて飛び去ることなどなく、威厳を保っている。5メートルほど進んで、振り返ってみても、先ほどと同じ姿勢で宙を睨んでいた。
 大カマキリ君の毅然とした姿は、しっかりせい、元気を出せ、堂々と進めばいいのだ、と私に気付かせてくれているようで、今日の出会いは、一生忘れないようにしたい。

火曜日, 9月 02, 2008

秋肥ゆる何とかは、避けたいのだが......??

9月になり、新学期向けの気力、胆力、体力を準備しなくてはならないのだが、身体が重い。今朝、恐る恐るヘルスメーターに乗ったところ、2週間前と比べて、1キロ増。やはり......。この体重増には原因が掴めないのだが、たぶん、夜の間食(おかしの類)の取りすぎなのではないかと、疑っている。今日から、夜の間食はストップだ。
 しかし、サンマが美味しい季節になってきた。宮城県産、あるいは三重県産の非冷凍物がスーパーの店頭にパックにされて2匹200円は安い。塩焼きにして2匹も食べれば、この味を知る日本人であることを幸せに思う。おろしポン酢という新商品も有り難い。少々甘みがきつすぎるが、サンマやイワシの塩焼きに実に良く合う。最近のマイブームの一つになっている。食のマイブームと言えば、レタス1個から、サラダに1/3使い、残りの1/3をパスタの具に使い、ラップ掛けした残りの1/3を翌日良く刻んで残り物の御飯と一緒に、簡単ピラフを創ると言ったことも、この夏のルーティンになっていた。つくづく、レタスは重宝な野菜だ。
 ニール・バレットのデザイン・オフィスに就職したSUMIKOが8月中バカンス休暇で福井に帰っており、4,5日手伝いに来て貰った。その際聞いた、冷製パスタもこの夏を彩るマイ・ブーム。バジル・ソースを絡めてサラダ風につくるのが、なんとも簡単で、しかもゴージャスな一皿。具には、トマト、ベビー・アスパラにベビー・コーン。この間は、さらに梨を加えてみた。すると、彩りが美しく、食が進むのだ。しかし、冷製パスタもそろそろ終わりに近づいている今日この頃。10月になったら、土産の幅広乾麺を使って、サーモンと野菜を合わせたクリーム・ソースのパスタに挑戦したい。しかし、こういう懲り方をしていると、ダイエットが........!

日曜日, 8月 10, 2008

森田地区の花火大会 九頭竜川堤防につどう家族連れ

今日は福井市の隣町になる森田地区の花火大会。午後7時半過ぎに九頭竜川の堤防へ向かうと家族連れが、折りたたみチェアやレジャーシート、クーラーボックスを持って集まってくる。日頃聞き慣れない関西弁を喋る子供もいる。きっと、お盆で関西方面からお里帰りしている家族連れであろう。こんなところにも、都会と地域社会という区分の根付いた現代日本の縮図が見え隠れしている。
 九頭竜川の堤防沿いには子供の頃の思い出が詰まっている。小学校の頃は、5年生、6年生になると本校のある中藤地区まで遠路歩いて通っていたが、下道に飽きると、わざわざ遠回りして、この堤防にのぼっては、東に白山山脈、北には坂井平野、南には福井市の町並みを遠望して、広々とした景観を楽しみながら、のんびりと帰ってきたものだ。あるいは、極寒の雪の中を、堤防スキーに夢中になっていた。あまりに帰りが遅いので、母親が黒い長靴をはいて、この堤防まで探しに来たこともあった。そうそう、親父と一緒に、この河で水泳を習ったこともあった。
 8時近くになり、初発が打ち上がる。驚いたことに、音響が光りに遅れて、しかも後方から響いてきたのには新鮮な驚きがあった。打ち上げ場からは、川を挟んで、約1キロは離れているのに、音が後ろから襲ってくるとは思わなかった。しかし、臓腑に響く音響の心地よさ、夜空に咲く色彩のはかなさ、ちょっと寂しい感じになるのは、なぜか懐かしい感性に満ちている。子供の頃はなかった堤沿いはアスファルト舗装がなされており、日中の酷暑の熱をいまだ保っておる。直に腰を下ろすと、ホンワカした暖かさが伝わってくる。そして、蚊に刺されながらも、光りと音響のスペクタクルが、日頃の憂さを忘れさせてくれる。
 ほんの30分ほどで花火大会は終わってしまったが、この日を楽しみにしている人々の多さに、改めて感心してしまった。帰り際、私の近くだけで、優に300人以上の人々が集まっていたのだから。そして、このような風情を一人で楽しんでいるのは、ちょっと、恥ずかしく、もったいないことなのかもしれないと思うのだ。

火曜日, 8月 05, 2008

ケチャ祭り お墓参りの準備

先週の金曜日から日曜日の夜半まで、山城組の33回目のケチャ祭りに参加していた。数年前から、セミナー生の選抜メンバーをケチャに参加させていたのだが、どういう訳か一緒にケチャをやれずに来ていた。そこで、今年こそは一緒にやろうと決意。電子出版セミナーからは2年生の男性2名を派遣し、祭りの仕込みから本番まで、フルコースで参加してもらった。私も金曜日の午後に三井55広場に入り、ケチャが上演されるまでは山城堂というお店の売り子として参加。CDを数枚売った。
 今年のケチャは比較的に人数も揃い、かなりの迫力があった。さらに、年々精度を高めているPAがすこぶる調子が良くて、上演中も違和感がなく、実に気持ちよくやれた。土曜日には恒例の大宴会があったのだが、折良く22年ぶりで会場に姿を現したかつての仲間(現在NHKの地方局アナウンサー)との感激の再会もあり、うれしかったなぁ〜!
 月曜日には福井へ戻ったが、夕方体重をはかって、ビックリ! あれだけ汗を流したのだから、さぞかし減量していると思いきや、逆に3キロ増えているではないか? 解せない。しかも、身体が軽く感じているのだから、不思議な感覚に陥っている。無理して理解するならば、日頃、身体を動かすことが少なくて、そのことによる身体の重さがあったように思う。軽くはならなかったのだが、動きが良くなったため、総体としては軽くなった感覚に陥っているのだろう。では、なぜ増えたのか? その回答が見つからない。東京メシは高カロリーにはちがいないが。
 さて、今晩から、食事節制を再開し、この夏の目標、5キロ減に挑戦する。そして、明日は、早めのお墓参りに早朝出掛けるつもりだ。

水曜日, 7月 30, 2008

夏休み突入の恒例行事 歯石落とし 車の定期検診

昨晩は試験の採点を行い、朝一で成績をオンライン入力し、勤めを果たした。休みになると、特に夏休みの初日に恒例化している個人的な行事がある。それは歯医者へ出掛け、歯のクリーニングと口腔全体の検診を受けることだ。2週間前から予約してあり、午後3時に歯医者へ。約40分程でクリーニングも終わり、歯の表面がツルツルになった。こうなると、途端に食い意地が出てきて、今日の晩飯をあれこれ考え出してしまう。しかし、今晩の献立は、今朝計画したように、かき揚げ天ぷらを浮かべた「ぶっかけ素麺」で決まり。簡単かつ夏向きでしょう?
 もう一つの恒例行事は、車の保守点検だ。大学への通勤に車を使わなくなって3年目。走行距離が信じられないほど伸びていない。2年半前に買い換えたNew Beatleは、いまだに8千キロ当たりで止まっている。昨今の原油高騰を受け、出来るだけ遠出をさけているし、給油もその時の懐具合と相談しながら入れているので、月々のガソリン代が1万円を超えることはない。そうやって、車を酷使しないで来たのだが、車のパネル表示に1ヶ月前から保守点検時期がきたことを知らせるスパナー・マークが表示されるようになり、かなり気になっていた。これも2週間前に予約してあった。
 内の男子セミナー生2名が東京へ遠征している。山城組のケチャ祭りに参加するためだ。さてさて、どんな感想を持ち帰ることになるのか、興味津々である。

火曜日, 7月 22, 2008

親父の命日に、親父をまねる!

今日は親父の命日だった。大学に就任2年目の夏のことだった。前期試験が始まる頃から、医者からは大演壇が近いことを知らされ、その時に備えていたことを昨日のように思い出される。
 晩年の親父は、この夏の時期になると歩いて10分程の処にある旧宅の庭に出掛け、樹木の剪定に精を出していた。早朝出掛け、暑くなる昼前には戻ってくる毎日。戻ってくるときは汗だくで、シャツもズボンも汗ばんでいたことを懐かしく思い出す。そうだ! 命日には選定をしよう! と思いついたのは数日前。新たに大きめの剪定ばさみ、片手で操作する剪定用ののこぎりを買い求め、今日に備えた。剪定する樹木も、伽藍の玄関先と決めていた。住居スペースへの目隠し的に植た木があまりにも背高のっぽになってしまったため、切り落とそうと思っていたのだ。
 朝8時半、始動。脚立にのっての作業は楽しい。ビシバシ切り落とし、見通しがよくなった。さて、切り落とした小枝、中枝が玄関先にアプローチに、それこそ山のように積み上げられてしまった。この段になって、この切り落とした枝葉の処理に悩むのだから、素人仕事には危うさがつきまとう。そこで、これも伽藍創設当時に購入してあった電動のこぎりを取り出して、枝をグァングァン、チョップし、薪に使えそうなものは残して乾燥させ、その他は燃えるゴミ用のゴミ出し袋に詰めることに。この詰め込み作業に実に手間取った。2/3処理した段階で、体力の限界に至り、残りは明日に持ち越し。
 不思議なものだ。子供の頃、親父がやっていた選定作業を子供の私はあまり好きではなかった。しかし、今日やってみて、これは楽しい。虫に刺されようが、汗でシャツがベチョベチョになろうが、実に爽快感がある。これも供養の一種だと考えると、さらに気持ちが安らかになるから、不思議だ。

月曜日, 7月 21, 2008

冷蔵庫を開けたら小イワシの塩煮があったシリーズ第2弾!!

今日は一日エアコンを付けない日と決め、日中はエアコン無しで、部屋の整理、台所の整理など、日頃できない仕事に精を出した。そして冷やしてあるお茶を取り出しながら小イワシの塩煮を観て、またまたヒントを得た。それは、この塩煮小イワシから自家製アンチョビペーストをつくれないかという発想だ。
 そこで、フードプロセッサーに小イワシの塩煮を15匹ほど入れ、ニンニクの1かけ、刻んである鷹の爪を入れて攪拌し、どろどろになった溶液をオリーブ油を入れたフライパンに移して数分煮立てて、少し煮詰まるまで火を通し、粘りが出てきた頃を見計らって火から下ろし、あら熱を取って出来上がり。少しさめた段階でタッパーに移して保管。夕方のパスタで試食する。
 その試食だが、今日はベビー・ホタテと抜きエビ(インドネシア産)のパスタにすることにした。チューブに入っているアンチョビペーストより味が薄いのではないかと考え、大さじに2杯いれてみた。もう、バツグンの美味さに、有頂天になっている。でも、結果的には大さじ1杯で充分みたい。この3日間、小イワシがここまで食を豊かにしてくれるとは……!
 次回、小イワシが手には入ったら、オリーブ油に塩を入れて煮立てて、そこからペーストにしてみたいと、新たな挑戦課題が浮かんでいる。こういう挑戦は楽しいの一言である。

日曜日, 7月 20, 2008

小イワシの塩煮を使ったパスタ

昨日スーパーのお魚売り場で、新鮮な小イワシを見つけた。1パック10匹ほど入って、たったの290円。迷うことなく2パック購入し、早速、小イワシの塩煮をつくった。綺麗に洗った小イワシを鍋に入れ、具を浸すほどの水を入れ、煮立ったら中火以下の火で、ただただ煮ていく。落としぶたをして、水分が半分ぐらいになるまで煮続ける。こうして出来た小イワシの塩煮は、頭から身まで、骨も柔らかくなっており、むしゃむしゃと全部食べられるのだ。昔、母がよくつくってくれた。単純だが、雅味のある味がたまらない。冷蔵庫に保存すれば、3日間は副食として持つ。暑い時期だけに、塩味の効いたこの煮物が食を進めてくれる。
 さて、今日は、何故かパスタが食べたくなった。朝から、どんなパスタにするか悩んでいたのだが、冷蔵庫を開けて、昨晩つくった小イワシの塩煮を目にした途端、あるアイディアが浮かんだ。この小イワシの塩煮を使おう! オリーブ油にニンニク、鷹の爪でアリオレをつくり、そこへ塩煮した小イワシを5匹、レタスの刻みを1/3個分入れ、コショウで味を整えて、茹でたパスタを絡ませて出来上がり。正真正銘のアンチョビ・パスタの出来上がりである。これ、ビックリするほど美味かった。
 こういうアイディアが突如として浮かび上がり、そして成功すると、やったぁーという気分になり、精神衛生上極めて効力がある。事実、この文章をしたためていても、実に気分がよい!

日曜日, 6月 08, 2008

天晴れ、日本のアスリートたち 無惨な敗北、品位ある撤退

まず、男子バレーが16年ぶりにオリンピックへの切符をものにした。北島康介がスピード社の水着で世界新記録達成。サッカーはと言えば、アウエーでドロー。勝ち点1を積み上げた。いろいろ話題の多い週末だったが、私にも快挙があった。それは有馬記念以来、G1、ことごとく不的中だったのが、ようやく、安田記念で終止符を打つことが出来たのである。ウォッカを軸に3連単をゲット。不名誉なG1連続不的中記録を止めることができたのである。的中すると、実に、心が軽くなるから、不思議で嬉しい。
 そして、もう一つのビック・ドラマは、NYで今朝行われたベルモント・ステークスだ。残念ながら日本から遠征していたカジノドライブはザ石してしまい、出走を取りやめて日本へ戻る決定がなされたため、興味は半減してしまい、残る興味はビッグ・ブラウンの無敗の3冠馬誕生ドラマへとシフトしていた。ところが、レース中継をみていて、びっくり。ビッグ・ブラウンが第4コーナーをすぎる当たりからどんどん後退し、結果はどん尻の9着。しかし、これには伏線があり、実は、ビッグ・ブラウンも1週間前から破蹄のための治療を受けていたのだ。ところが、この馬の調教師は強気の発言を繰り返し、3冠をギャランティーしていたのだ。それに比べて、カジノドライブの藤沢調教師の判断は適切であり、品位のあるものだった。この姿を日本人としては、どうしても比較して観てしまう。一方で、人間の欲望をストレートに出し、無惨にも敗北したビッグ・ブラウン陣営。方や、カジノドライブの先々の可能性のために、果敢に撤退を決め、潔く退いたチーム・カジノドライブ。やはり、日本人はこうでなくちゃ!
 ということからすると、岡田ジャパンのフォワード君が一発退場になったのは、かえすがえすも残念でならない。男子バレーの山本のように、スーパーエースというのは、窮地で活躍してこそ、エースなのだ。その自覚のない国家代表など、私は認めない。

木曜日, 6月 05, 2008

この週末は興味あるゲームが目白押しだ

アウエーを戦う岡田ジャパン。猛暑対策に秘策はあるのだろうか? 氷の入ったバケツをベンチに用意するなどと言う原始的な対策が報じられているが、オマーンはホームの利を活かし、しかも横浜でのメンバーとは入れ替えてマジ・モードで迎え撃つはず。国際経験豊富な選手が多いジャパンだが、かなりの苦戦を強いられることは間違いない。6月7日土曜日夜10時からTBSにて実況中継有り!
 その時間帯が来るまでは、北京五輪への出場権を賭けて戦うバレーボール男子の試合を楽しもう。植田監督率いる日本とアルゼンチンの試合がある。もっとも、この日までに五輪出場権の行方は決まっているかもしれないが。6月6日の夜には対オーストラリア戦がTBSから中継される。女子は見事五輪への切符を手にしたが、はたして男子もどこまで食い下がれるか注目している。なにせ、4大会ぶりのオリンピックへの出場がかかる男子バレー。注目する価値がある。
 以前、バレーボール女子のプロモーション作戦に苦言を呈したことがある。選手をアイドル化する風土にはなじめないものがあるからだ。しかし、先日の女子バレーの選手たちを観て、ビックリした。真のアスリートとしてのオーラに溢れていたのだ。特に、メグこと栗原恵の精神的な成長ぶりには驚かされた。少女は立派な鉄女に変身していた。五輪出場権を勝ち取った試合の終わった直後の表情には安堵感はなく、その先を見詰める厳しい表情があり、解説者、視聴者ともに、何かの決意を感じとった程だ。期待しようじゃないか。
 そして、日曜の早朝7時からは、アメリカのベルモント・ステークスが実況中継がある。日本から挑戦している藤沢厩舎のカジノドライブが、無敗の3冠を狙うビッグブラウンにどこまで立ち向かえるのか、これも興味津々だ。現地アメリカでは無敗の3冠王の誕生を心待ちにするファンで、当日会場には12万人近くのレース・ファンが押し寄せるとの予測がある。この中継を観るためにだけ、今日から1ヶ月間だけのグリーン・チャネル有料視聴を申し込んでしまった。まぁ、千円ちょいの鑑賞料金がかかるが、それだけの価値があると考えている。しかし、NHKもその意義を解っているようで、来週の火曜日あたりに再放送を予定しているらしい。
 日曜日の午後は、競馬G1シリーズの最終戦安田記念がある。古馬マイル王を決める一戦。これも見逃せない。ウォッカ、スズカフェニックスといった日本勢VSグッドババ、アルマダなどの香港勢との戦いに注目しよう。
 話は変わるが、水泳の競技用水着の問題、スピード社製の水着を、どの選手も選ぶようで、これも面白い話題だ。 この件は後日、コメントしたい。

火曜日, 6月 03, 2008

日本代表、入魂の勝利! サッカー文化の日本化とは......

サッカーWカップ第3次予選対オーマン戦は、久しぶりにすっきりした試合だった。ゲーム開始直後から激しくボールを奪い行く姿勢が徹底され、中盤より相手陣営内でボールを小気味よく回し、少ない決定機を見事にものにしていた。観ていて負ける気がしないゲームは、本当に久しぶりである。3日後にはアゥエーでの試合があるが、今の姿勢を徹底して行ってもらいたいものだ。
 日本の中盤には中村俊輔、松井大輔、長谷部誠など、現在ヨーロッパで活躍する、所謂海外組がそろって参戦している。彼らの呼吸も合っているように見えた。特に、俊輔がボールを持つとキープできる。すると、松井や大久保といったやんちゃ小僧たちが面白いように仕掛けを創造できる。サイドを追い越してのワンツーも気持ちよく流れるといった感じで、試合は終始日本ペースで進んでいた。
 そして、新たに主将になった中沢が、最初の均衡を破るヘッド一発の1点目を叩きだしたのも良かった。これで勢いがつき、余裕が生まれ、中盤から前線に向けてのファンタジスタたちの個性を生かせる流れになったのが最大の勝因なのだと思う。
 やんちゃなサッカー小僧たちの頭目となった俊輔も、この6月下旬には30歳となる。日韓同時開催のW杯では直前にトルシエによってメンバーから外された経験を持つが、当たりの激しいイタリアやスコットランド・リーグやチャンピオンズ・リーグを戦う内に、すっかり頼えるベテランの10番になっていた。後半の開始直後の右足によるゴールなど、ファンタジスタの面目躍如といったところか。観ているこちらまでもが、左足のシュート・フェイントにだまされてしまった。
 もう一人、忘れてはならないのが、ヤットこと遠藤保仁。ボランチとして、後ろに控えながらも、そのボールさばきは見事だった。あのさばきがあったからこそ、俊輔は右に左に自由に流れて仕事ができたように思う。俊輔が仕事が出来れば、さらに松井や大久保のやんちゃを引き出すことが可能。そう考えてくると、中沢をはじめとするバックスからのビルドアップ、攻撃的な守備が勝機を演出していたと理解できる。2点目の俊輔からのロング・パスを闘莉王がヘッドで合わせて左マイナス気味にだし、大久保のシュートをアシストした例など、戦う守備の典型的な例と言える。才能のあるものたちが一瞬のアイコンタクトでお互いにやろうとするイメージを共有できていたことを確認できて、南アフリカ大会への期待が出てきた。故障や怪我、警告の累積による出場停止など、無駄な戦力低下をすることなく、予選を全勝で駆け上がって貰いたい。さぁ、応援ムードの再開だ! 
 勝利監督インタビューで岡田さんは、メキシコ五輪監督で日韓W杯を誘致した長沼健前日本サッカー協会会長が逝去され、その話題に触れたとき、心なしか感情的な表情をみせていた。97年のW杯フランス大会予選の最中に賀茂周監督を解任し、当時コーチをしていた岡田さんを監督に抜擢した人が、長沼さんだった。もっと遡れば、早稲田大学に入学当初、サッカー部に属さなかった岡田さんを協会に呼びつけ、激しく「何故、サッカーを続けない!」と叱責したのが、長沼さんだったという逸話をスポーツ紙は伝えている。だから、逝去の伝えられたその日のゲームで、負けるわけにはいかなかったのだ。そんな情感が籠もっていた。こういうモチベーションを大事に考えるところも、日本のサッカーの文化になりつつあり、とても好ましく思える。
 こういうことの積み上げが、前日本代表監督のオシムさんが言っていた、日本の文化、日本人の体質に合ったサッカー文化の構築に実現させていくプロセスになるのだろう。そう、信じたい。

月曜日, 6月 02, 2008

梅雨入り宣言 火星に氷が見つかれば 初志貫徹の星出彰彦さん

5月から6月への変わり目に当たった週末、土曜日は雨になり、植え替えた花壇に適度の水分補給をしてくれた。日曜日は晴天となり、乾燥した清々しい一日だったのだが、さきほどHPで確かめたところ、関東甲信、東海、近畿が梅雨入り宣言となっている。今年は、ラニーニャ現象の影響で梅雨入りが早まったようだ。また、例年より雨量が多いと予想している。そろそろ、自宅回りの側溝のゴミさらい、泥サライをやらなくてはならない時期になってきた。
 宇宙に憧れ続けて、初志貫徹した星出彰彦さんは、今頃宇宙空間でどんな感想をもっているのだろうと想像している。子供の頃訪れたスミソニアン博物館(ワシントン)で宇宙船の展示に出会い、以来、全てを宇宙に出掛けるために人生を構築してきた人だ。今、どんな人生観が彼の胸に宿りつつあるのか、後日談を期待したい。
 宇宙と言えば、火星に軟着陸が成功し、地球へのデータデータ送信、画像送信が成功した探査機フェニックスから、地表、いや火表から氷のような白いものが見えるとの報告が届き、NASAの職員でなくとも、興味が沸く。もし、氷の存在イコール水が存在したことが明らかになれば、生命誕生の究明に大きな前進が見込まれているだけに、こちらも目が離せない。
 科学雑誌から遠のいていても、科学ネタに興味は持ち続けている。自然と、ネタ探しをしている自分をどのように解釈すれば良いのだろうか。そして今晩はサッカーW杯アジア3次予選対オーマン戦が始まる。オーマンに勝ち越してはいるが、昨年来の監督交代劇などを観ていて、少々期待感を持てなくなっていた半年だが、W杯予選となれば、根性を入れて応援するしかない! また授業を停止しいて、学生たちと一緒の日本を応援出来る日が来ることを願って! 

金曜日, 5月 30, 2008

Taspo騒動 競馬に求めていたイメージはこれだった!!

6月から福井でもタバコの自販機ではTaspoカードをかざさないと購入出来なくなることを、本日知った。さて、どうしたものかと思案したが、この際タバコをやめる...という選択肢もあるのだが、今しばらく不健康生活を続行しよう、だからTaspoをゲットしなくては、ならば4.5×3.5ミリの写真がいる、ということは証明写真を撮影しなくては、などなど、ドタバタしてしまった。この性懲りもない根性、共同生活者がいれば......、笑われるか、青筋立てて阻止されるか、どのみち賛同者はいなかったであろう。
 この話を行きつけの喫茶店のフロア係にしたところ、彼女はカードを作らないそうだ。何故なら、免許証がその代わりになると言う話があり、免許証をかざせば買えるのならば無理してTaspoカードを創るまでもないと考えているらしい。ごもっともも! しかし、その際に出た笑い話とも、ブラックジョークとも言える話題が、個人情報の取り扱いについての仮想的笑い話だ。
 免許証にしろ、Taspoカードしろ、カードをかざせば、個人情報が抜き取られ、しかもそれがオンライン化されていたとしたら、瞬時にその個人の居所や購入アイテムが集計されてしまう。さらに、なんらかの追跡が必要となれば、データを辿って、その個人の行動範囲を知ることが出来る訳だ。で、笑い話であるが、Aコンビニの自販機で1個購入、夕方はスーパーの自販機で2個購入、そして4時間後、なんとラブホの自販機で銘柄違いを1個購入なんてことが、知れてしまう! 嫌だね! というお話。
 話はガラリと変わって、もうお気づきの方も多いとは思いますが、昨年の秋頃から、競馬に興味を持ち始めている。大きなグレート・レース(G1)の中継は欠かさず堪能している。中学、高校と乗馬をしていたので、馬に対する懐かしさがあるのは事実だが、G1中継を観ていて、言葉で説明できない「何か」を求めていたのだ。その何かに、ついに行き当たってしまった。
 アメリカのサラブレッド関係、競馬関連サイトを丹念に観て歩いたのだが、ついに、「これだぁー!」というレースに行き着いた。それは、イギリスのエイントリー競馬場で行われるグランドナショナルだったのだ。走破する距離は4マイルと4ハロン(約7242メートル)。全部で30の障害を飛越していくサバイバル・レース。ハンディ戦で、トップ・ハンディは75キロ以上を背負う、まさにタフの中のタフしか生き残れないレース。イギリスで最も馬券が売れるレースと言われている。歴史を調べてみたが、最初に行われたのは1836年だから、いまから約170年前から続いていることになる。
 そうそう、子供の頃、親父に連れられて出掛けた映画館で観た世界のニュースの中に、このレースの映像があったのだ。それは衝撃的なものだった。何十頭もの障害馬が一斉にスタートし、途中で何頭もの落馬があり、競馬場とは言っても、まるでクロスカントリー競技に等しいコース形態の中を延々と競っていく。迫力、緊迫感、そしてやがて訪れる至福の勝利シーン。それは、「よくもこんな過酷なレース」を人馬一体となってこなせるものだという驚き、そして、その凄さに粛然としてしまったのを覚えている。しかし、その粛然とした、あの高貴な気分にさせられる「何か」が、日本のレースを観ていても感じられなかったのだ。
 兎に角、これは競馬レース全般を見渡しても、す・ご・い、です! という訳で、YuTubeへリンクを張ることにしました。兎に角、10分以上かかるレースの中に、様々なドラマが凝縮しており、見応え500パーセント! 2008年の勝ち馬は「Comply or Die」。訳すると、「服従するか死か」という、まさにこのレース向きの名前を持った馬が勝ち残っている。私は、子供の頃、このレースの中に、ヨーロッパ、いやイギリスが持つある種の精神性に撃たれてしまったのだ。
2008 Grand National

月曜日, 5月 26, 2008

Big Brownの蹄に傷が.....

ベルモント・ステークスで無敗の3冠を目指しているビッグブラウンに左前足の蹄に傷が見つかり、ニュースになっている。今回が初めてではないらしいのだが、メディアは神経を使っているようだ。獣医や調教師も深刻には考えておらず、今週末には練習を再開出来、来週末の本番(6月7日)は計画通り出走しそうだ。しかし、ちょっとした体調変化をあからさまにニュースにしてしまうところが、アメリカ的だと、妙に感心している。たぶん、Maybeであるが、日本の調教師でG1を控えている調教師や厩舎だと、まず、この事実はデスクローズしないのではないかと思う。こんなところにも、日米の競馬文化の違いを感じてしまうのだ。しかし、この記事ブログへのアメリカ市民の書き込みの多さを観ると、いかに関心が高いかが示されている。こうやって、ジャーナリストも多くの市民の反応に晒されながら仕事をしているのかと思うと、日本のゆるい読者からの反応というものがマスコミを甘やかす結果になっていることを思い知らされてしまうね! 

Big Brown Has a Quarter Crack

木曜日, 5月 22, 2008

見慣れないアングルに「解答」有り!

先週のプリークネス・ステークスでビッグ・ブラウンに騎乗するケント・デザーモ騎手、ゴール・ライン近くで後ろを振り向きながらフィニッシュする写真が全世界に配信された。日本でも同じ写真を複数のスポーツ紙が掲載したが、驚きは、そのアングルである。内ラチ沿い、しかも煽る確度からの撮影は出来ないはずなのに、それをものにしていたからだ。(メディア・ウォッチャーとしては、こういうのが拘りなのですよ)
 その回答が、ロイターのブログに記事となっていた。やはり、リモートでシャッターを切っていたのだ。その舞台裏が、豊富な状況写真とともにこのブログに解説してある。実に興味深い。メディア系の学生諸君にも勉強してもらいたいものだ。

 Photographers/What makes a great picture?
 Wired at the Preakness Stakes

この週末は…… 山城組春祭体験学習ツアーだ!

メディアコミュニケーション学科1年生は、ここ3年間、恒例となったバスによる1昼夜をかけて出掛けるイベント体験学習に出掛ける。責任者の私はツアーコーディネーターとして、全行程を同行する。1回同行すると、約2週間は体調が戻らないくらい、そのアフターショックは大きいのだが、このイベントを経験した学生たちは、何故か、メディア系らしい意識が生まれてくるから、どうしてもやらなくてはならない。山城組春祭2008.
 さて、このブログが意外な反響を引き起こしており、少々驚いている。昨日、大学の庶務あてに、JRAニューヨーク事務所の方から、ニューヨーク・タイムスのThe Railの記者さんから、カジノドライブの記事にリンクしてくれた件を感謝され、出来ればThe Railのブログに投稿してもらえないかとの依頼を受けたとのメールを受信、そのメールを転送して貰った。アクセス管理が行き届いているようですね! どうしたものかと思案している。ちなみに、カジノドライブへの武豊騎手の騎乗は無くなり、地元の馬場を良くわかっているアメリカ人ジョッキーになるようだ。
 次に、我がセミナーの第2期生ゼミ長さんとんとん君のmixiのブログに凄いビデオがリンクしてあった。私もリンクしておこう!  ランディ・パウシュの「最後の授業」。YuTubeでじっくりご覧ください。

日曜日, 5月 18, 2008

カジノドライブの挑戦相手ビックブラウンが2冠を達成

このところ、アメリカの競馬が気になっている。というのも、日本で調教されたカジノドライブが6月にあるベルモント・ステークスに出走し、その結果が世界的に注目されるようになったからだ。その相手と言って良いビックブラウンがプリークネス・ステークスに圧勝した。NY Timesの記事を読んでいるとビックブラウン主戦騎手ケント・デザーモは先週のピーターパンステークスでカジノドライブに騎乗し勝っている。勝った後、カジノドライブへの次の騎乗については1週間待って欲しいとカジノドライブ陣営に伝えていたらしい。どちらかの選択をしたいと思わせるだけのインパクトをカジノドライブはもっていた訳だが、アメリカの世論の論調としては、ビックブラウンの3冠を願う雰囲気があり、たぶん、ケント・デザーモ騎手がカジノドライブに騎乗することはありえないだろう。となると、日本から武豊騎手が駆けつけることになりそうだ。ますます、面白くなってきた。引き続き、NY TimesのThe Railの論調を追いかけてみたい。合わせて、メディア・サイトのニュースがブログ化している現状を逐一観察するつもりだ。ビックブラウン、プリークネス・ステークス勝利の記事は、以下のリンクから。

Big Brown Rules Preakness

お米が見直されている

最近、カフェやコンビニで、お米素材のスィーツがやたら目に付く。行きつけの喫茶店“花とテントウムシ”でもモッフルという商品を出している。四角い切り餅を特製のオーブンでワッフルを作るように火を通し、メレンゲやカット・フルーツを添えて出てくるのだが、これが妙に新鮮な感触で気に入っている。コンビニのローソンへ行けば、つきたてのお餅のような中に果物のジャムを入れてある新感覚のお菓子が売られていた。素材は同じくお米だ。
 石油高騰に伴う諸物価高騰を受け、食材、なかでも小麦粉の値上がり、お砂糖の値上がりが、食品メーカーを直撃しているらしい。その反響が、お米への回帰となって、いまやお米屋さんは活気に満ちているらしい。日本人としては、好ましい流れだと受けとめたい。そう言えば、スーパーのお米を売るコーナーが、このところ、品数が増えたように感じていた。特に、地産地消ではないが、福井は大野の誰それの100パーセント有機栽培米だとか、魚津の誰それの絶品コシヒカリだとかが、それこそお酒のようにブランド化されて店頭を賑わしている。
 大学へ出掛け、外食が多くなると、どうしても脂っこい食事になりがち。そこで福井にいる時は、極力お米の食事にしている。さらにヤズヤの発芽十二雑穀を加えて、栄養価と繊維質、そしてビタミン類のバランスを取るように食生活を改善して約2年間が過ぎたが、この2年間の成果としては、お通じが改善され、肥満気味だった体質がだんだん元に戻りつつあることだ。ダイエットにもバツグンの効果があった。お米を食生活の中心に据えた生活で、健康を取り戻していることを、改めて有り難く思う日曜の夕刻である。さて、焼きトマトに美味しい塩とオリーブオイルをかけて、簡単イタリアンの副食でも創るか!

金曜日, 5月 16, 2008

マイワシの塩焼き地中海風 一工夫で、極楽です!

スーパーのお魚屋さんを覗いたところ、2匹270円で新鮮そうなマイワシが目に飛び込んできた。子供の頃はイワシはあまり好きではなかったが、この歳になると、妙に恋しくなり、ときどき買っている。特に、小イワシが大量に出ていないかと、期待することが多い。小イワシをただただお塩と水だけで煮た小イワシの塩煮は大好物だからだ。
 パックの2匹を観ているうちに、アイディアが思いついた。それも、現在我が台所にある調味料で充分新しい感覚の料理にできる。そこで、270円を出し、この2匹をゲット。後は付け合わせに出来る野菜を探したが、ズッキーニもアンティチョークもないので、極々普通の刻み野菜のパック180円を手に入れ、さっそく家へ。
 頭を落とし、はらわたを取り除いて水洗い。水分を良く切って、塩をふんだんにかけ、オーブンへ。数分で焼き上がり。ここからが本日のメインイベント。焼き上がったマイワシ2匹を皿に盛りつけ、その上に、鷹の爪や大粒の黒コショウや月桂樹の葉で風味ツケ付けしてあるオリーブオイルを適量振りかけ、そばには二つに割ったレモンを置き、完成。これに、焼いたズッキーニ、赤や黄色のパブリカ、甘みの強いニンジンの薄切りを焼いたものを添えれば、立派な地中海料理の完成だった。しかし、新鮮野菜のアンティパストが無くとも、気分は地中海方面へ飛んでいた。で、お味は? そりゃもう、極楽でしたよ! 食後のフルーツは、ゴールデンキウイを2個。

日曜日, 5月 11, 2008

カジノドライブの衝撃

先のブログの最後に紹介したカジノドライブの記事。ニューヨーク・タイムスのThe Railというブログにさっそく取り上げられています。アメリカの競馬評論家たちにとって、かなりのインパクトがあったようで、目指すベルモント・ステークスの勢力分布が大きく変わりそうだと言っています。興味のある方は、どうぞ!
 The Railとは、馬場の柵のことのようです。rail-birdという単語があるくらいです。その意味は、柵にもたれかかって競馬に熱中する人。あるいは、そこから派生して、競馬評論家のことを指します。

With Casino Drive in Mix, All Bets Are Off

Game's On Bug Brown

 上の記事の中で面白かったのは、レース前のパドックで、カジノドライブが後ろ足を蹴り上げ、まるで野生馬のブロンコのように周囲を威圧したという話。そして三冠を狙うビッグ・ブラウンにとって、この勝利は悪いニュースになりそうだと評論している点です。また、ベルモント・ステークスまで後3週間はあるが、さらに力を付けるだろうと予測しています。本番には武豊騎手が駆けつけて騎乗の予定。面白くなりそうですね!!
 

NHK・参ぃる、なのだ! 日刊スポーツVSスポニチの楽しみ方:その1

競馬のG1がこうも毎週続くと、予想する楽しみが苦しみなり、やがて飽きが来るはずだと信じている。またしても、14番ダノンゴーゴーのヒモ抜けで3連単は逃した。しかし、今回も5番ブラックシェルが9番ディープスカイに絡むと直感したまではよかったのだが…… ショボォ (v_v)
 あまり競馬のことをこのブログに書くと、グーグルのアフリエイト・プログラムで自動配信されるバーナーに、不労所得の儲け方などが出てしまうので、今回限りにしようとは思うが、スポーツ紙の新しい楽しみ方を発見。この件について報告しておこう。
 今回のG1では、日刊スポーツは、複娘として読者、そして社内でも可愛がられていそうな若い女性記者(平本記者)が、レース当日までの144時間(つまり6日間)をトレセンに密着して各出走馬を取材し続け、そのレポートを毎日報告するという企画を掲載していた。一方、スポニチは、これまたうら若き女性で、地方競馬から中央競馬まで、競馬のあるところには何処へでも出掛けるという旅打師ターフ・ライター、オークス井上さん(タレントさんらしい)を起用し、各メイン・レースの予想を彼女の独特の文章で紹介する記事を掲載している。それぞれ、当たったり外れたりなのだが、女性らしい感性からの観察や女性独特の直感力がなかなか鋭い視点を切り開いており、かねがね注目したいた。また、二人に共通する文章にも着目している。所謂今どきの若い人の語り口で、どちらかというと携帯メール文章に近い点も興味を引く。
 今回の両者の愁眉は、複娘さんの方は3着に入線した14番ダノンゴーゴーを推奨したことであり、一方、オークス井上さんは4着に入った7番ドリームシグナルを推奨したことだ。2頭とも、14番人気、13番人気で、見落としがちな存在をすくい上げていた点だ。
 このように、肝心の競馬予想以外のところにも読者を惹きつけるエンターテイメント紙というのは、なかなか興味深い。競馬新聞を良く読む人は、各記者の予想と的中率を丹念に追いかけているという。その内、競馬予想そっちのけで、どの記者の予想に賭けるかを考え出してしまうそうだ。こうなると、どの記者が当たるか外れるかの、その予想をする専門家も出てくるかもしれない。予想家の当たり外れを予想する予想家が登場するに違いない。事実、ネットの上では、競馬予想をするコンペ・サイトが大盛況だという。常連の中から、プロの予想家になった人もいるらしい。また、そのような道を提供するような企画でコンペが開かれている。このような処にも、ネットが増幅する新しい狭間産業が開拓されようとしている。
 このように書いている内にも、ベルモントSを目指して米遠征中のカジノドライヴ(美浦・藤沢和厩舎)が、前哨戦のG2ピーターパンSを5馬身以上の差で圧勝したとの速報が入ってきたりして、またもやネットで詳細を調べようとしてしまうのだから、しょうがないものだ……。 (v_v)

金曜日, 5月 09, 2008

この時期の楽しみ 在来種と帰化種の攻防


94年に伽藍の自宅兼オフィスが完成したとき、旧宅の庭にあったボケ(サルスベリ)を鬼門の方向に当たる東北の角に移植した。移植当時、ボケの回りがあまりにも寂しいので、ガーベラの種を植えたところ、見事に赤や黄色の花を咲かせて、この時期から夏頃まで、賑やかな色彩を楽しませてくれた。
 いつ頃かは定かではないが、ボケの根元当たりに、在来種と思える花が白くて鈴なりになる可憐な草花が自生するようになり、その白い花の連なりがあまりにも可愛げで、また、少々繊細で犯しがたい趣があり、良い花が咲いてくれたものだと密かに喜んでいた。
 以来、この在来種とおぼしき花は、毎年咲くようになり、宿根茎のガーベラの勢力を年ごとに浸食し始めた。こうなると、どちらに軍配が上がるのか確かめてみたくなり、何も手を付けず、毎年その勢力分布をみるようになって数年が過ぎた。ガーベラはだんだん脇に押し寄せられぎみだが、どっこい踏ん張っている。どの程度でバランスをとるのか、来年も楽しみにしたいと考えている。

日曜日, 5月 04, 2008

天皇賞 惨敗記

昨日の東京メイン・レース青葉賞では、アドマイヤコナンドを1着に指定して3連単を2倍がけでゲット。この勢いを天皇賞春(通称・春天)に乗せようとして、惨敗した。私の最終馬券は、14→13→8だった。巷では昨年の天皇賞春・秋を制したメイショウサムソンの不調がしきりにニュースになり、予想するスポーツ紙各社もメイショウサムソンは馬券の圏外として、あるいは、掛け捨て対象になるから手を出さないようにとのあからさまなコメントが氾濫していた。そこで、テレビ中継のパドックの様子、馬場へ出てからの返し馬を観て、直前に3連単だけを千円ほど賭けてやろうと決めていた。そして、メイショウサムソン復活が閃いたのだ。そこで、発馬直前に14→13→8を突っ込んだ。(インターネット投票だとこういう離れ業が2分前まで可能)
 結果は、14→8→13だった。配当は1万円ちょいだが、当たるのと当たらないのでは、こうも気分が違うものかとあきれている。この一文を書きながら、どうしてG1だけはこうもかすりっぱなしなのか、不思議になってくる。昨年末の有馬記念から連続してかすりが続いているのだから、笑えてきてしまう。1着については、自信があった。13番のアサクサキングスも馬券圏内だと睨んでいた。残りは、2着か3着にくる候補選びに迷っていたわけだ。候補を上げては消し、変えては消しの作業を繰り返していたが、定まらない。その結果、レース直前にメイショウサムソン復活が閃いた。しかし、2着ではなく、3着にしたところが、間違いのもと。あぁー! 悔しいね!
 そこで、閃きのプロセスだけでも記録しておこう。パドック解説を見ながら、武豊騎手が1週間ほど前にマスコミにコメントしたある逸話を思い出したのだ。そのニュースも伝え聞きを書いていたので、真偽の程は明らかではないが、武豊がおとなしいメイショウサムソンの様子について「テンノウしょう! って叫べば、起きてくるかな?」と言って、取材陣を煙に巻いたという話だ。なかなか味のあるコメントだと感じていた。そうか! 武豊はある程度手応えを掴んでいるのだな、とその瞬間閃いた訳だ。そして、「復活有り、馬券圏内に来る」と判断した次第。しかし、有馬記念の敗退、続く大阪杯の惨敗に引きずられて、3着が精一杯のところだろうと思った点が、甘かった。
 大学ではメディア・リテラシーを学生たちに啓蒙している。情報化社会となり、情報横溢時代にあって何が真実で、何が疑わしいか、検証的な姿勢でメディアを点検出来る姿勢持ちなさい。その為には複数のニュース・ソースにあたり、自分で比較し、自己検証出来る力を養いなさいと教えている。その意味では、競馬は、TM(競馬専門の取材記者たち)たちの伝える状況報告が全ての手がかりとなる。傾向の違う各種記事を精査して、真実の姿を思い描かなくてはならない。ある意味、信じられないくらい不確かな状況になっていることを思い知るわけだ。
 さらにネット社会化した中では、競馬の予想会社が独自取材したニュースまでもが、メルマガやサイトを通して流れてきて、それらの中から珠玉の情報を選出し、自分の馬券戦略に生かすことになる。情報が溢れすぎているからこそ、人々の判断がやりづらくなっていることも歪めない。
 競馬ブックの編集長村上和巳さんは、「素晴らしい競馬文化のあるところには、素晴らしい競馬マスコミも存在しなくてはならない」とあるところに書いていた。本当にそうだと思うのだが、加熱したネット社会が、報道の真の姿を歪めているように思えてならない。スポーツ新聞の予想記事はエンターテイメントとして割り切ろう。しかし、後でオッズで計る人々の意識を観てみると、人気の3番→2番→1番の順で入線していたのだから、多くの競馬ファンは、スポーツ紙以上に的確に考えている訳だ…! この事実は謙虚に受けとめなくてはならない。この歳になっても、メディアの読み書き能力を磨く修行は延々と続くと言うことか。さて、回転寿司で、軽く、安く済ませることにしよう。

木曜日, 5月 01, 2008

早苗連休の狭間に思う 季節を感じる

昨日は、東海地方も北陸地方も今年一番の夏日よりだった。温度も30度C近くまで上昇し、帰りの新幹線や北陸線の車中ではエアコンが作動しており、もうそんな季節になったのかと驚いた。
 福井駅から伽藍まではタクシーを使うが、自宅近郊の水田のある地域を通ると、それこそ全ての田んぼで代掻きが行われている。同じ地区を夕方車で通ると、威勢の良いカエルの合唱が響き渡り、窓を開けて走行すると、この時期独特のひんやりとして、清々しい空気が流れ込んできた。それは、代掻きと同時に水田に灌漑用水が満たされて、そのあたり一体がひんやりとしてくる、独特の空気なのだ。この清々しく、ひんやりした空気とカエルの合唱を聴くと、自然と、私は夏に向かう気分なるのだ。そして、寝所の窓を、ほんの少し開けて就寝する頃になったのだと意識する。
 明日には都会へ出ている農家の息子や娘たちが帰省し、そして連休中は田植えとなり、田植えの一時をピクニック・モードでバーベキューとなるご家庭も多い。家族、親戚、手伝いに来た地域の人々が和気藹々の早苗連休。なかなか良いものだ。

日曜日, 4月 27, 2008

.macについて バックアップについての時流

グーグルが創り出した新しいネット・インフラの使い方に、自分のパソコンを単なるターミナルとしての単機能型の道具にしてしまい、データや生産に必要なアプリは、みんなが使うサーバーにあって、利用者は誰でもそれを自由に、無料で使えるようにするという思想がある。
 マックで言うと、.macがその役割を担っている。アドレス帳のデータ、各種セキュリティ関連のデータ(キーチェーン)など、何台かの自分が使うパソコンのデータを.macに集約させようとしている。それで困ったことが生じた。メール・アプリを更新したところ、.mac置いていた古いアドレス帳と同期されてしまったのだ。この半年に更新したアドレス・データが半年前のデータとすり替わってしまった。
 幸い、MSのEntrougeをバックアップ用のメーラーとして併用していたから、過去のやり取りが残っており、ここからこの半年のアドレス・データを抽出できたので被害は最小に収まっているが、サーバーに何でもかんでも頼り切るのは考え物だ。自分自身のデータ・バックアップ・システムを構築するべき時期に来ている。しかし、そのように発想すると、世の中上手くできているモノで、マックは小型の個人用サーバー・システムのような同期システムを提供し始めている。
 パソコン付随のハード・デスクへデータを溜め込みする時代はそろそろ姿を消し、最小のメモリーで日々の仕事をこなし、その結果は則自己サーバーにて一括管理する、そのような使い方が進もうとしている。ハードデスクを持たないパソコン時代の到来か!?

金曜日, 4月 25, 2008

マグナムの写真家たち セミナーの課題

四日市大学のメディアコミュニケーション学科のセミナーは2年次から始まる。1年生の後記にはセミナーへの導入のための講座がシリーズで開講され、11月頃から各セミナー担当教員との面談が始まり、12月中旬には2年次の配属先が決定する。活動の早いセミナーでは、その年の年末から実質的な活動が始まり、先輩たちに混じって、イベント制作の手伝いををしたり、2年次からフルに活用するパソコンのアプリをひととおり自習しておくなど、前倒しで実質的な教育が始まるようになっている。電子出版セミナーでは、1月、2月の約2ヶ月間をイラストレーターとフォトショップの練習期間に当てており、4月からは、則アプリを応用したグラフィック作品の課題が出される。この10年間、この体制は見事に続いており、今年度も新学期からスムーズにセミナーは始まっている。
 しかし、今年で11年目を迎えたセミナーに新しい、あるいは、さらに深い取り組みをさせたいと考えており、新機軸をぶつけている。それは、写真に対する理解や感性を徹底的に充実させようとする目論見で、世界一の写真家集団マグナムのサイトを徹底的に観察し、考えさせる課題をシリーズでぶつけている。きら星のごとくその名を世にはせた写真家たち、例えば、アンリ・カルティエ・ブレソンやロバートとコーネルのキャッパ兄弟やルネ・ブリ、バート・グリンといった面々の偉大な作品群を縦横に観察しつつ、作品の構成を言葉で説明出来るようにするための課題や、4,5点の写真を並べて、フォトエッセーを書かせてみたり、何故、その写真を選んだのかを口頭でプレゼンさせたりといった訓練を始めている。
 そういう訳で、私も再度、徹底的にマグナムの写真を見続けていた。そして、この歳になるまで気がつかなかった事実にも巡り会った。それは、フランスの画家マティスの晩年の肖像写真についてのことだ。白いインコとおぼしき3羽の鳥が手前の鳥かごの上に乗っており、左側には深々と腰掛けたマティスが、左手で1羽の白いインコを掴み、右手でその鳥のスケッチをしている写真である。マティスの晩年の肖像写真として、あまりにも有名な写真だが、その撮影者がアンリ・カルティエ・ブレソンだとは、今の今まで気がつかなかった。いや、過去にその事実に触れたことはあっても、記憶するまでではなかったのかもしれない。
 マグナムの活動については、NHKがスペシャル番組を創るくらいに、現代においては注目すべき価値があるように感じている。テレビや動く映像、つまり動画文化にどっぷりひたりきっているネット世代にとって、ある一瞬を切り取り、その一瞬が持つ感性と社会的な意味を永遠に固定する表現領域への見直しが必要な、そのようなメディア環境時代だと思っている。
 Magnum Photos

木曜日, 4月 24, 2008

夏日から春の小雨 ゴミの一括だしに思う

一昨日、昨日と、東海地方は25度Cを越す夏日だった。来週から始まるゴールデンウィークは、例年になく暑い日が続きそうで、行楽客には嬉しいお休みとなりそうだ。しかし、昨晩福井に帰ると、シトシト春雨が降り出し、温度は一気に下がってきた。4月になり使用を控えていた足温器のスイッチを右足で蹴り入れ、暖を取っている。
 分別ゴミの問題だが、東京では高温処理施設の可動により、分別による手間や軽費の分散化を食い止める施策から、分別出しではなく、一括出しに変更される地域が増えているという。福井は生真面目性格県だからか、いまだ分別だしだが、一括だしになってくれた方が、手間や気遣いがなくなって、よりゴミを捨てようとという気持ちになりそうだ。はやく福井も一括だしになってもらいたいものだ。
 環境問題も、いまや攻めの時代だ。環境汚染の被害を訴えるより、良き解決策をいち早く打ち出してアピールし、即行で実施していく時代である。企業文化も、自社製品に欠陥があった場合、いち早くディスクローズして世間に注意を促し、リコールによる製品払い戻しや、完全商品との取り替えに果敢に取り組む企業を好意的に見る雰囲気が広がっている。松下の温風暖房機のリコール戦略など、成功例も見受けられる。
 つまり、下手に隠すのではなく、非をいち早く認めて対応策を真剣かつ早急に対応する企業姿勢が、現在では主流になりつつあるのだ。この変化を世の為政者たちは、いかように認識しているのか、非常に興味のあるテーマだ。

日曜日, 4月 20, 2008

五月晴れの日曜日 皐月賞反省記

先日ご紹介したSkinsの整体効果を持つインナーについて。これは効果があります。2日目にして手放せなくなり、3日目にして、肩のこりが著しく軽減されてきたことを体感している。首筋をぐるぐる回し、左右に振ってもポキポキ音がしないほど凝り固まった肩から首筋にかけての筋肉がほぐれてきているのだ。もう、ビックリでR! 金銭の余裕を創って、いやいや、無理してでももう一枚入手しなくてはならないと考えている。それだけではない。お腹のみぞうち当たりが凹んできたような……?? ダイエット効果もあるのかしら?
 今日は競馬の皐月賞があった。昨年の秋口からG1だけは、テレビ中継を逃さないようにしている。先日来の雨模様で、中山競馬場の芝がより一層美しく青々としたグリーンをたたえていたが、走る馬にとっては、重馬場の荒れた走路に騎乗戦略を悩ませる結果となったようだ。勝ったのはキャプテントゥーレ、川田将雅騎手。親父さんも調教師をしている。勝因について解説者は、他の騎手が展開を考えて序盤の入りを慎重に行ったのに対して、彼とトーレは最初からハナ(先頭)を奪いに積極的に出ていき、そのまま逃げ勝った。一度もハナを奪われなくして勝利したG1は近年まれに見る好騎乗だったと言っていた。
 G1の場合、私は自分の勘を頼りに、三連単を組んでいる。1週間前から各スポーツ紙をあさり、出走馬の動向をチェックし、TM(トラックマン)たちの感想や、怪しげな疑り、あるいは突拍子もない解説にニヤニヤしながら予習をする。週半ばには枠順馬番が決定し、馬券に必要な馬、勝利の確率の高い馬、いらない馬を選び出す作業をする。このプロセスは、配当に繋がるか繋がらないかの大事なプロセスだが、実は未知の勝負に対する推理を働かせる行為であり、この推理がなかなか面白く、楽しい。
 皆さんもご存じのように、競馬新聞というのは、過去のレース状況を克明に記載してあり、何走をも前からの成績や走破時計を知ることが出来る。調教のプロセスも逐次時計となって教えてくれる。そのデータを元に、信用できそうなTMの解説記事、予測記事を参照しながら、自説を導き出すのだが、このプロセスが科学実験の仮説造りに似ていて、たまらないのだ。私の場合、前日深夜頃に固まったプランが良いようだ。ところが、翌日の午前中には読まなくてもよいスポーツ紙に目を通してしまい、またまた、新しい馬券を創ってしまうのである。そして、これが外れるのだ。
 今回は、ここにその惨敗のプロセスを記録して、後々の戒めとしたい。
 前夜の馬券:9=6>1,2,3,10,14,17,18(三連単2頭軸マルチで42点買い)
 本日の馬券:1=17>2,3,6,9,10,14,18(三連単2頭軸マルチで42点買い)
 そして、結果は、6→1→9だった。前日に作成した買い目でやっていれば、8万なにがしの配当にありつけたかと思うと、悔しくなる。情けない。この状況が昨年末の有馬記念から続いている。先週の桜花賞でも同じだった。我が前日深夜馬券は700万馬券をかすっていた。18番を入れておけばパーフェクトだったのに。もう一歩だったのに。
 同じアドレナリン分泌でも、勝ったときと負けたときでは、体内循環の経路が違うらしく、「悔しさアドレナリン」はしばらくするとお金を失うという恐怖感となり、次のG1まで体内に深く残留する。この繰り返しを絶つには勝しかないのか。あるいは、やめるしかないのかもしれないが、世の多くに人々は、再度挑戦の道を選ぶようだ。だから競馬はすたれない。
 それにしても今年の皐月賞を制した川田騎手の思い切りの良い先行策は清々しかった。他の有力騎手たちがこぞって慎重策に出たのに対し、自分の馬を信じ、回りに振り回されることなく我が道を選択した信念に、敬意を払いたい。さて、いつツケを払えるのであろうか? あぁー。

金曜日, 4月 18, 2008

エコライフは安心感のある食事から

今週から大学の授業が本格的に始まり、バタバタした日々が戻ってきた。水曜日の午後まで大学で過ごし、夕方から深夜に駆けて福井に戻り、木金土日と福井で次週の準備、授業の資料造りをしている。もっとも、パワーポイント全盛時代なので、すでに講義の核となるコンテンツはデータ化されており、今年度向けに微調整ですむのだが、あれこれ調整していると、ついつい授業の内容が膨らんでしまい、前年度のプレゼン枚数から増えてしまう。最近の傾向としては、かみ砕いた表現、レベルを下げた表現に作り替える必要に迫られており、どうしたものかと悩むところ大。今回は、神社の鳥居に飾られているしめ縄の起源についてのプレゼンを加えてしまった。
 茨城の友人から「着ているだけで整体を受けたのと同じ効果が得られる魔法のインナーがある。是非、あなたも取り寄せて試してご覧なさい」と熱心に勧められ、教えられたアドレスを頼りにネットで注文してから4日目、そのインナーはオーストラリアからフェデックス(FedEx)で届いた。さっそくTシャツタイプのインナーを装着してみたところ、何か良いのだ。なんでもアスリートの体調管理用に開発されているインナーなのだが、私のような歳のものにも効果があり、友人は手放せないそうだ。2日目であるが、確かに肩のこりが軽減してきた感じがして、少々ビックリ! 少々お値段ははるが、数回整体やマッサージに通う手間と経費を考えたら、こちらに軍配が上がりそうだ。ちょいと、填りそうな雰囲気になってきた。興味のある方は、以下のアドレスから試してみては!!
 Skins.net
 大学のある四日市にいるときはすべて外食となる。すると途端に便秘気味になり、浮腫んでくる。ストレス性コレステロール値の上昇感を体感する。だから、福井にいるときはその反動を修正するべく、小食となり、野菜と雑穀米中心のメニューとなる。伝統的な和食を維持している限り大丈夫だという安心感がある。雑穀米は、かめばかむほど味が出てきて、最近は普通の白米ごまん以上に美味しく感じるから不思議だ。美味しさと安心感。これが有るからこそ、福井に戻ってくるのだろう。

木曜日, 4月 03, 2008

これは重宝! マスター流豆板醤ソース焼き

今日は、2ヶ月ぶりにやずやの発芽12雑穀入りのごはんを創った。やはり身体によいものを調理して食すると、気分が違うのだ。副食は、大野の水菜と薄揚げの炊き合わせに豚肉ロースのスライスをショウガ焼きならぬ、豆板醤ソース焼きを創った。さらに、豆板醤ソース焼きの突き合わせには、レタスと刻みキャベツ、トマトのサラダ。
 この豆板醤ソース、実に重宝している。私の場合、オイスター・ソース2、豆板醤ソース1、日本酒1、ミリン1の割合で合わせ調味料を創っておき、薄くサラダ油を引いたプライパンにショウガ焼き用に売られている豚ロース肉をおき、火が通った段階でかの合わせ調味料をかけて馴染ませ、少々焼き付くくらいに火を通して出来上がり。これが、実に美味。
 先月の健康診断で、コレステロール値の改善が観られたとの所見があってからというもの、少々お肉も良いだろうと、このところ1週間に1回は豚肉料理の日を創っている。肩ロースの固まりを春タマネギ、ニンジン、セロリなどと一緒にコンソメスープで蒸し煮したものや、今日紹介する豆板醤ソース焼きなど、ちょっと調理に凝れば、至福の味が楽しめる。
 さて、来週から授業開始。今日から授業の準備に入っている。メディアコミュニケーション学科の環境情報学概論は、この3年間私がプログラムを作成しているが、実質的にはメディアコミュニケーション学科概論となってきた。今年度も学科の先生方の協力と理解の元に、知恵と体力を振り絞って、ヤ・ル・ゾォ!

月曜日, 3月 31, 2008

新年度 今日の記録として

明日から、新しい年度となり、入学式や新学期に係わるさまざまな行事が始まる。その前に、身の回りの整理として、現状を記録しておく。
 まず、2年前の3月に買い換えたニュービートルだが、今日で走行距離7,830キロ。年間3,900キロだから、車で大学のある四日市まで通っていたときの約6分の1しか走行していない。地域にあっては車が必需品とはいえ、この落差に驚きだ。しかも、最近は石油高騰の折とあって、極力遠出をさけているため、ますます乗らなくなっている。その分、伽藍のオフィスで過ごす時間が増えている。
 次に、この原稿を作成し、ブログに掲載するため使用しているマックだが、パワーブック13インチディスプレーの超小型G4CPU機についてだが、この春で丁度3年目となる。ボローニャ国際絵本展へ視察に出掛けた時には、始めて海外からのビデオ電話を試みた思い出のパソコンである。今もギンギンに現役として、私の片腕となっている。CPUはすでにクラッシックだが、その働きたるや凄い物がある。パソコンを使い出して約20数年経っているが、これほど仕事に直結し、なおかつ楽しみやコミュニケーションの道具として活躍したパソコンは他になかった。気がつけば、まさに分身的な働きをしている。新しいOSの実験や新しいアプリの使用実験のために新機種を求めるべき時節になっているが、当分、この愛機を手放すことはないだろうと思う。凄いと思うことは、故障知らずであること、トラブルらしき不審な作動が全くないこと、ウイルスに冒されたことがないこと、海外や旅行に持ち運んでも壊れないことなど、上げたらきりがないくらいメリットは大きかった。授業のパワーポイント発信器としても欠かせない。私に随行した海外旅行は計4回だったが、どの国でもネットに一発で繋がり、日本時間で仕事が出来た。感謝せねばならないだろう。

火曜日, 3月 25, 2008

春告げ鳥 今年初のうぐいすを聞く

2日前の日曜日の朝、今年一番の鶯の声が聞こえてきた。「ホォ、ホケキョ」ではなく、「ギョー、ギョゲギョ」と聞こえたのは、若い鶯で、まだ発声練習が充分じゃない性なのか、あるいは、春先になり本調子を取り戻していないのかもしれない。そこで、調べてみると、雄の求愛行動としてさえずるようだ。つがいとなり繁殖に向かうのは、初夏から夏にかけてのようだ。でも、今朝もさえずりが聞こえてきたのだが、やはり、私の耳には「ギョー、ギョゲギョ」と聞こえた。
 次に楽しみなのは、郭公の声。これも子供の頃からなじみのあるさえずりだ。我が母は、郭公のさえずりだした日を毎年記憶していて、「あら、今年は1週間ほど早かった」だとか、「もうそろそろ郭公の声が聞こえても良いのに、もうこの当たりには渡ってこないのか」などと、心配していたものだ。
 豊島政実教授設計の大学スタジオの横には雑木林があり、ここでも鶯が夏まで盛んに鳴いている。今年も新学期に環境音としての彩りを添えてくれるはずだ。こういった風情が楽しく感じる歳になっている自分が、少々不思議でもあるが、母のように死ぬまで郭公のさえずり始める日々を心待ちに出来る精神の余裕を持ちたいと思うようになった。
 そう考えると、春のお花が鶯を招いたのかも知れない。先週の土曜日、掃除や伝票整理に来てくれるバイトさんと一緒に、鉢植えのパンジーやすみれなどを植えてみたのだ。このところ、朝が楽しみになってきた。朝日に、白、黄色、オレンジの色が映えて、それはそれは清々しい気持ちになれる。

木曜日, 3月 20, 2008

発見エコライフ クリーニング屋さんの場合  読書記録「サムライ、バリに殉ず」

先週クリーニングに出した羽布団の預かり票に面白い表記があった。そっくり引用してみたい。

 [レジ袋削減]&[ハンガー回収]に取り組んでいます。限りある資源を大切に/

 なるほど、盲点であった。いままでクリーニング屋さんからついてくるプラスチック製のハンガーの処分に悩んでいたのだ。プロの主婦業ではない私には、クリーニング店へ出掛ける機会が無く、このような表記を目にする機会がなかった。これで悩みが一つ解決したように思う。クローゼットの中にたまったハンガーを処分したいと思いつつ、十数年が経っている。一度、プラスチック製品の回収日に捨てた記憶があるが、回収、再利用してもらえるのであれば、クリーニング店へ持っていこうではないか。
 その帰りに、スーパーに寄った。今日は、ネギとすき焼き用の牛肉、焼き豆腐を手に入れ、ねぎまにして、3センチほどの長さに切りそろえて、鍋に縦置きし、焼き豆腐とエノキを入れて、酒、醤油、砂糖適量で煮付けた。すき焼き風ねぎま鍋といった一品である。さて、スーパーにはこのところ、マイバックを持ち込み、レジ袋を持ち帰らないようにしている。すると、今日はレジ袋削減に協力ありがとうポイント・カードを発行して貰った。点数がたまると、500円程度の値引きをしてくれるらしい。ありがたい! 活用しようじゃないか。
 ネットでは、スーパー懸賞サイト「GetMoney」から届くメルマガに丹念に応答すること10ヶ月。メルマガに記載されている商品のプロモーション・サイトへ飛ぶだけで、5~10ポイント貰えるのだが、そのたまったポイントをキャッシュで還元してくれるサービスがあることを、つい最近知り、現金化してもらった。622円が私の使っているネット銀行に振り込まれたという知らせが、即座に届いた。まさに、ちりも積もれば何とやら。こういうサービスを継続することで、これまたスリム化が進む。経費を節約していける。
 アマゾンで昨日注文した書籍が、今日の昼頃届いた。これは、アマゾンプライム会員になると、3000円ほどの年会費がかかるが、輸送料が加算されなくなりかつ翌日配達を可能にしてくれるサービスで、福井を空けることの多い私にはピッタリのサービス。時間のスリム化に繋がるのだ。
 で、速読大会で読み切った書籍は、坂野得隆著「サムライ、バリに殉ず インドネシア独立戦争の英雄になった旧日本兵の記録」である。読書時間約4時間20分だった。ニュートン時代の約2倍の時間がかかっている。これもスリム化したいのだが、眼精疲労の治療を受けるべきか。それとも、「歳」だと、諦めるべきなのだろうか。

水曜日, 3月 19, 2008

地産地消 スーパーでの買い物から考えたこと

今日はスーパーの駐車場が混雑する夕方をさけて、昼頃、夕食用の食材を買いに出掛けた。店内が空いていたせいか、のんびりと品揃えを確かめ、産地を確かめ、賞味期限を確かめ、砂出しアサリ・ワン・パック、ニンジン1本、タマネギ1個、ベビー・アスパラを1袋買い求めた。今晩は、パスタを考えている。
 ゆっくり品揃えや新鮮さを確かめていて、はたと気がついたことがある。海鮮類はことごとく福井県以外の他県からの流入品だ。アサリは三重から、ベビー・アスパラも信州方面からだし、その他、食指が働いたスルメイカに至っては鳥取からだった。流通革命により、沖縄産品を北海道で食することも、北海道産品を九州地方で所望することも可能な訳だが、その流通形態に思いをはせるとき、おおいなる無駄や大変な経費がかかっていることに気がつく。しかも、賞味期限内に流通に乗せ、パックし、そして店頭での消費を計るわけだから、その経費たるや、凄いことになっているはずだ。
 そして、食材の宝庫、特に海鮮ものについては福井の人ならだれでも一家言を持つくらいに、福井の海のものは新鮮かつ美味しいのだ。それなのに、地元ではそのような新鮮食材は、高級魚をあつかっているような純粋なお魚屋さんにでも行かない限り、手に入らないのが現状。まれに、越前海岸産がスパーに出回ることがあるが、その際はキャンペーン品扱いで、幟が立つ。なんか、変だ。
 地元で採れたものは、地元で食するという慣習すら、現代の流通機構におさまるとママならぬことになっている。これって、無駄の積み重ねじゃないだろうか。確かに、昔から、アサリなどは、北陸方面では、鳥取、島根方面からの流入品が多かったか、地元で採れないわけはないのだ。ただ、庶民に手の入らない仕組みになってしまっている。
 たぶん、地元の新鮮魚介類を手に入れようとすると、かえってお金がかかってしまうのだ。こんなところにも、環境問題は存在する。地産地消を進めれば、流通段階で消費するCO2の削減に必ず繋がるはずなのに。

火曜日, 3月 18, 2008

文藝春秋/つまみ読み  ツン読の先に見えてくるモノとは……

結局二日間に渡ってしまったのだが、事業所(つまり大学当局)へ提出が義務づけされている健康診断の諸データを採取してもらうために、福井県立病院へ出向いた。昨日の採血データに、異常値が見つかり、内科の再診断のため今日も病院へ出向いた。再度採血し、結果を観たところ、風邪気味で喉が腫れている程度の炎症性の白血球値上昇だと診断され、血液性の難病の疑いは消えた。しかし、白血球値が異常に高い結果には、正直、驚いたが、よく考えると、先週末の卒業式と謝恩会から福井へ戻り、深夜までパソコン仕事をして翌日の朝、つまり日曜日の朝、軽い風邪気味だったことを思い出し、自分でも納得。まぁ、時には医者から冷や水を浴びせられるのも、反省材料としては刺激があり、よかったと思うことにしている。
 その病院での時間を潰すために、現在書店に出ている文藝春秋四月号をツン読していた。天皇家の問題を、イージス艦の衝突事故の特集記事などには目もくれず、というか、話題がすでに私の興味を失っている性もあり、雑誌の後半に集中している軽い記事に目を通していた。その中で面白い対談記事があり、是非、このブログで紹介してみようと思うようになった。
 その記事とは、ビックコミックに40年以上に渡り連続掲載されているさとうたかお作のゴルゴ13について、前外相の麻生太郎と作者が対談している記事だ。漫画を現代日本文化の花として誇りにしている麻生氏がさとうたかおさんとどのような話題を共有するのか、興味津々で読み進んだのだが、これは面白かった。完全に日本文化論として成立しており、両者の現日本文化に対する危機意識が随所に披露されており、飽きないのだ。官を育て、個を育てない日本がいま陥っている欠陥を、それこそ平易な話題でズバリ斬っている。あるいは、スナイパー・デューク東郷の名前の由来など、始めて読者が知るような逸話もスパイスが効いており、単に対談記事というレベルをはるかに凌駕した内容の濃いしつらえになっている。読み終わった後も爽やかな満足感に包まれる、最近まれに見る好編集の記事だ。
 特に面白かったのは、言葉が重視される欧米で、言葉ではないコミュニケーション・ツールの漫画により、欧米の子供たちが言葉以外の表現方法からあることを理解していける文化媒体を広めた功績は、今後の国際社会の上に非常に大きな文化的意義があるという観点を両者がともに認識している点だ。出版文化論を構成し教えている者として、この記事は授業の話題にしても良いくらいの内容を含んでいた。学生諸君にも読んで貰いたいな。

木曜日, 3月 13, 2008

教授会 慰労会 長老を大事にする社会とは

この3月から4月にかけては、お別れと新たな出会いのセレモニーが繰り返される。大学を去られる先生方への慰労会が昨晩開かれた。四日市大学の環境情報学部は、それこそ横断的に、学際的に、物理の先生から都市計画や文学や音響学の権威など、それこそ玉石混淆とした人材が集合しており、このような宴席での祝辞、惜別の言葉にはさまざまな表現が彩られ、各先生方のコメントを聞いているだけでも楽しく、教訓になる言葉が多い。
 ある先生が、論理整然と一徹に筋を通される先生に対して、「盤石の意志と理論、巌も貫く論理の矢」と対象の先生を表されたのには、言葉のセンスを感じた。私は今後も非常勤として残られる先生方には、これからもよろしくとだけ挨拶したが、完全に身をひかれる先生に対しては、「ご卒業、おめでとうございます」と祝辞を伝えた。
 定年などによる引退が、則人生の終焉への入り口と考える風潮があるが、私はそのような定説には、断固異議を唱えたいと思っている。新たなステージへの入り口が、ようやく開けた、社会的にも新たなライフスタイルへの挑戦が認められた、そのような時節として考えようと思っている。最後まで社会的に貢献できる仕事を続けたい、続けようと考えている人は多いのだ。そのような長老を大事に、尊厳を持って認識できる社会にするべきだと、強く思っている。

火曜日, 3月 11, 2008

石油高騰とITの関係

今朝、いつもの給油所へ立ち寄ったところ、メール会員になっていただくと、リッター当たり4円お安くなりますとのお誘いに、即座に応募。オフィスで指定のメルアドへ申し込むと、即座に自動返信が届き、次回の給油の際、先ほどお受け取りに成られたカードをご提示いただければ、即座に割引を実施いたしますとのこと。
 昨年度秋頃から、ガソリンを入れるに当たっては、満タンではなく、千円単位で今日は3千円分お願い、今日は4千円分で、と頼んでいたのだ。ガソリンの高騰は実に厳しいモノがあり、このように心がけているユーザーが多いそうだ。そこで、引いたお客様をいかに引き戻すか、スーパーも給油所も、ヘアサロンもことごとくメール会員を募集している。その背景を考えてみた。
 メルアドと住所、あるいはさらにすすんでクレジット・カードなどの個人情報があれば、ネットを使ったきめの細かいプロモーションやお得な情報を流して集客しやすくなるというメリットがある。事実、DMによる、あるいは新聞の折り込みチラシによるキャンペーン情報はどんどん減ってきており、替わりに、メールによる集客が、もはや時流になってしまったのだ。
 携帯メールにバレンタインお得情報が届く。携帯メールに次回のヘアセットのタイミングとご予約情報が届く。そして、携帯メールによる実生活への実質的な「囲い込み」が、どんどん進行しているのだ。携帯に届いたクジに返信したら、浜崎アユのコンサート・チケットが当たった!(これ、内のバイトの子の実話!) となれば、若者はこぞって携帯情報を生活の中心に置いて行くであろう。このように、IT化が大人の目に見えないところで、どんどん進んでいるのだ。今年は、このような消費行動とIT化の接点に注目して、その際のメディア・リテラシーを観察してみたいと考えている。

月曜日, 3月 10, 2008

この週末は卒業式か…… 生物としての人間の特質とは

昨日の日曜日、着るモノを1枚少なくて済む、文字通りの「春」だった。ここ北陸地方では、このように冬の空模様から晴天の晴れやかな日に変わった日の運転には注意が必要。というのも、北陸人の気質なのであろうか、晴れやかになったとたんに、車の運転も晴れやかになり、暴走気味の運転手さんが続出するからである。気持ちよくなるのは解りますが、それが途端に運転行動を左右するくらい、曇天、冬雨の気候は、気持ちを抑えつけているのだと私は理解している。かくいう私も、冬が明け、昨日のように外気温が14度Cにも跳ね上がると、ついついスピードを出しがちになるから、気をつけている。
 さて、今週末の土曜日は、セミナー第8期生が卒業する。3年次のはじめから2年間を費やして取り組んだアニメ。プロを完遂した子たちだ。一人、卒業に必要な単位が危ない子がいたが、この子も見事単位取得に成功し、4名揃っての卒業となる。中国からの留学生は、卒業後、則帰国して花嫁修業に入り、今年の年末には結婚する予定だったのだが、この2月になり、急遽日本で貿易関係の商社で1年間働くことが決定したらしい。なんでも、則帰国しても良い就職先に恵まれるとは限らず、日本で卒業後、日本の会社で勤めて実務を習得し、日本語で仕事がこなせるという実績をつくると、中国での就職や給与面での待遇が格段に違ってくるらしく、そのように決断したらしい。しかも、婚約している安徽省の彼氏もこの件を了承しているというから、私のアドバイスとしては、「とにかく、一端短期帰国して、両親への報告と、彼氏に直にあって納得するまで、よく話をしてきた方がいいよ……」としか、言えなかった。複雑な気持ちは残るが、巣立ちを前にした親というのは、このような心境なのだろうと、勝手に想像している。
 暖かくなり、晴れてくると北陸地方では車が暴走気味成るが、春になり、天候が良くなると、それに連れて売れ出すのが馬券だそうだ。春先になると、競馬が流行出すと言うことらしい。昨日は北京への代表権をかけたステップ・レースに指定されている名古屋国際女子マラソンがあり、期待の高橋尚子選手は弾けなかった。競馬の方では、皐月賞ステップ・レースである弥生賞があり、松岡正海騎手騎乗のマイネチャールズが人気通りの強いレース運びで1着をものにした。
 人間のマラソンも競馬も、走る競技である点では共通しているが、人間は自分の体調を自己管理出来るから自主的に休むことも、レースを棄権することも可能。しかし、競走馬はそれが出来ない。土曜の重賞レースで1番人気に支持されたサンアンデュは、実際のレースではゲートでスタート前の待機中に暴れてスタートが混乱し、結果、人気とは裏腹に最下位でレースを終わり、関東から夜を徹して滋賀県栗東のトレセンへ帰った。その後、様子がおかしくなり、急死したという。今日のスポーツ紙はこの件を取り上げていた。
 高橋尚子選手の不調、サンアンデュノ急死。この二つのニュースが今朝のマスターの心をとらえて離さない。区切りを設けて、ステップしていく。雰囲気を変え、違う環境で自分を再調整し、違う自分になっていく。そういったことを人間は自らの意志でできるのだ。そのような生物としての特質を大事にしたいものだ。別れは、さらなる出会いの始まり。

木曜日, 3月 06, 2008

スリム化の行方 お湯を沸かすには

最近、ちょっとしたマイブームになっていることがある。電気の節約にはどのような気遣いが必要か? まず、使わない電気はスイッチを必ず切るというのはどのご家庭でも実行されていることだろう。私のこの所、入念に気をつけている。冬場の北陸地方では冬場が一番電力を使う。すると月に4万、5万という電気料を請求されることにある。実に馬鹿らしいのだ。そこで、ことごとく、スイッチを切る。もっと効率よく電気を使えないかと、日々、アイディアを絞っている。そして見つけだしたのが、次にご紹介するアイディアだ。
 夕方、5時過ぎにはキッチンで夕食の準備にはいるが、まず行うことが、ポットでお湯を沸かすことだ。今まで、水道からでるお水をポットに入れていた。しかし、電熱給湯器で沸かされたお湯がある訳だから、このお湯をポットに入れてやれば、すでにある程度の温度になっているので、より早く沸騰する。時間が短ければ、電気料も少なくて済む。こんな簡単なことを、何故、いままで気がつかなかったのだろう。
 CO2削減問題が火急の課題である宇宙船地球号。私も身近なところから、省エネの取り組みをしなくては。というより、経費を圧縮せねばならない財政状態から、頭を使わざるを得ないという理由もある。このスリム化の行方を一つのシリーズとして、追究していこう。

水曜日, 3月 05, 2008

スリム化の行方 メールの整理 必要なメールとは?

今日は朝からメールの整理をしている。メール・ソフトは二つ使っているのだが、完全バックアップ用に設定しているマイクロソフトのEntourageの方が05年度より今日まで、全く未整理のまま使い続けてきたため、スクロールしてもなかなか底まで届かなくなってしまった。あまりにも長くなっているので、項目別の受信フォルダーを創り、特にセミナー関連のコレスポンデンスを中心にフォルダーに再収録し、いらないメールをどんどん削除している。
 いらないメールを削除していて、ある盲点に気がついた。アマゾンなどで買い物をすると、決済済みを明記した自動返信の購入記録のメールが返信される。さらに、商品が発送手続きを済ませて発走されると、「発送しましたメール」が届く。確かに、「発送しましたメール」などは保持しておいて、宅急便のお届けスケジュールを調整する場合など、かなり有効な資料となる。しかし、その他のメールはほとんどゴミ箱へ捨てればよい性格のメールだということに、改めて気がついた次第。モノが届けば、例え精算する必要が有り、証票類を残しておかないといけない場合もあるが、クレジット・カードの支払い記録がその代わりをしてくれる訳だから、そういう意味での記録としても、モノが届いてしまえば、不必要となる訳だ。こんな単純なことすら、考慮しなかった自分が恥ずかしい。
 そのような、言わば現実(リアル)の郵送物だと1週間以内にゴミ箱へと捨てていた性格のメールが、わんさかメール・ソフトの残留しており、ハード・デスクの容量を犯している訳だ。軽く、なろう! その方が健全だ。そして、大削除大会の開催となった。捨てに捨てているが、いまだ3分の1しか整理できていない。1日仕事になろうとしている。

火曜日, 3月 04, 2008

Simple&Easy

パソコンの良さを色々論じる時期はすぎ、いまや、パソコンで自分自身のライフスタイルをどれだけ創造的に、生産的に、かつ、生活の中での癒しや精神的なケアにまで活用できるかという、より人間性に密着した皮膚感覚レベルでの効用を問いかける時代になっている。マックはその点、進んでいますよ!
 テレビと通信の融合は各所で進んでおり、ムービー・ソフトの有料サービス、パソコンでの地上波受信はもとより、さらに進んで、テレビ電話やマルチチャネルのビデオ・チャット(お堅く言えば、マルチチャネルのテレビ会議)まで、ネットを使えば出来てしまう訳だから、目的と企画性をもってこれらの技術を使ったとき、その効果は絶大。
 かくいう私も、一日に数時間はパソコンを相手に仕事をしており、最近、眼精疲労の度合いが酷くなったと自覚症状が出ているのに、それでも仕事だからといって、無理してパソコンを前に格闘している。
 1986年頃からパソコンを仕事に使い始めたわけだから、すでに20年以上の年月をパソコンと向き合ってきたのかと振りかえると、自分でもその長い付き合いに驚いてしまうのだ。そして沈思黙考してみると、パソコンはできるだけSimple&Easyなものがよいと思うのだ。アップルのマックで良かったと、つくづく思っている。

月曜日, 3月 03, 2008

黄砂を含んだ雨模様 スリム化の行方

昨日の天気予報から気にしていたが、はやり中国西部砂漠地帯で発生した黄砂の影響が見られる。北陸地方は雨模様だが、車のワイパーの動きやその跡を観ると、茶色くドロが付着しており、黄砂の影響は明らかだ。その性なのか、あるいは、花粉なのか、昨日から鼻の奥がむずむずしている。どちらの影響なのだろう?
 月に2度ほど手伝いに来て貰っているバイトの子も、風邪気味で鼻の奥がぐしゅぐしゅしていた。これも本当の風邪なのか、あるいは黄砂含み、花粉含みの空気の性なのか、と本人と共に考えてみたが、彼女の場合は風邪。気をつけねば、こちらが風邪になる。三寒四温の季節は、実に体調管理に気を遣いますね。
 1月からさまざまな案件で経費のスリム化、家の中に貯まった入らないモノを廃棄してスペースを確保するスリム化、デスクの引き出しに貯まった入らない書類や資料などを廃棄するスリム化、日常的に使っているパワーブックのハードデスクの中のバックアップと入らないデータの削除によるスリム化などなど、身の回りを全て見直して、軽くなろうとしている。
 この効果はとたんに現れた。このようにスリム化していくと、まず、食事や日常的な出費を抑えようとする気持ちが強くなり、とにかく使い切るという発想になる。これを大学の授業やセミナー活動にどのように還元するかを、3月中に考えていくべきだと思っている。
 すでに、大学の教育支援ソフト(Moodle)を活用する準備を始めている。これを始めて、面白いことに気がついた。資料としてプリントを渡していたのだが、これからは「各自、このPDFファイルをダウンロードして、プリントして活用してください」、で済むわけだ。 これはいいぞ! コピー代、用紙代が節約になる。もっとも、その分、大学経費と学生の支出が増えるが、これもバランスの問題なので、説得材料にはことかかない。

金曜日, 2月 29, 2008

たまったら、一度社会へ戻すというライフスタイル

北陸地方では有名な安売り家電の老舗といえば、コンプ100万ドル。そのコンプさんがやっているレンタル・ビデオ屋さんへときどきDVDを買いに行く。久しく出向いていないので、今日近くを通った際、ぶらりと店内に入ってみた。
 今まで気がつかなかったのだが、1FのDVD売り場に隣接していた音楽CDのコーナーが極端にサイズダウンしていた。さら、ゲームソフトのコーナーがやたらでかくなっている。さらにさらに、当初はカウンター一カ所で細々と営業していた携帯電話のコーナーも拡大している。うかつだった。
 つまり、まず第一にCDの売り上げが縮小傾向にあり、売り場も縮小したということ。次に、いまや、DVDやゲームソフトは、どんどん同じフィールドに入り込んでおり、その垣根が取り外されてきていることだ。
 もう一つの発見は、支払いカウンターの脇に、ゲームソフトやDVDの買い取りコーナーがあり、必ず買い取ってもらうためにDVDやゲームソフトのパッケージを持参して査定してもらっているお客さんがいること。これには驚いた。これらのメディアは、完全に還元型の消費財になっていることを実感させられたという訳である。
 実に示唆されることがある。確かに、iTunesなどで、音楽ダウンロード市場がCD業界を窮地に追いやっている話題は知っていたが、まさか、店頭の売り場スペースまで縮小に追い込んでいるとは知らなかった。また、DVDですら、永遠に所有するものではなく、ある時期に市場へ戻し、また新たなメディアが出てきた際に、適宜借りるか、「一事所有」するような考え方で、どんどん回していく方が、現状からすると合理的だという価値観が定着してきているのかも知れない。これも一種の還元型社会の一形態なのかと考えてしまった。私もスペースを取り始めたDVDを一度社会へ還元してみようと、思わぬアイディアをもらってしまった。

水曜日, 2月 27, 2008

エリザベス ゴールデン・エイジ

2日前の月曜日、コロナワールドという福井のシネマコンプレックスでは、月曜は男性客半額サービスをしているというので、約半年ぶりにシネマを観た。観た映画は、シェカール・カプール監督作品「エリザベス:ゴールデン・エイジ」である。1998年に発表した「エリザベス」の次作である。エリザベス役は「バベル」でも素晴らしい演技を見せていたケイト・ブランシェットである。
 前作では、レスター伯ロバート・ダドリー、エセックス伯ロバート・デヴァルー(レスター伯とエセックス伯は義理の親子)たちとの愛人関係を清算しつつ、真のキングすなわち統治者としての自覚を持つに至る過程を描いていたが、今回はアマルダ開戦において、スペインの無敵艦隊を海賊上がりのドレーク提督たちが打ち破った頃に焦点が当てられており、ウォルター・ローリー卿(当時の愛人と言われている。彼はアメリカに女王を記念する土地を名付けている。バージニアがそれだ。処女王の威光を新大陸に知らしめようとしたらしい)やバチカンやスペインの意向を受けた暗殺者たちとの暗闘の結末を描いている。
 歴史的なことはさておき、前作の時も思ったのだが、イギリスの中世歴史を全く文化文明的素養に異なった環境下で育っているインド人監督がこの映画を成功に導いていることだ。しかも、これは推測だが、イギリス人やヨーロッパ人たちが観ても異論を口挟まないだけのヨーロッパ的水準で演出しきっている。これを日本の土壌にあてはめて想像してみると面白い。インドネシアから出てきた映画監督が、日本の戦国時代の時代劇を創ったとしよう。想像だけだが、こりゃ、無理だと思ってしまう。しかし、カプール監督は見事に、この文化文明のバリアを払いのけて、作品をモノにしている。
 確かに、日本人でも、イタリアで著名な企業の本社ビルの建設デザインを成功させたり、フェラーリをはじめとするプロトタイプ・マシーンのデザイン・チーフとして成功した人など、異文化異文明圏で業績をあげている方々は多々あるが、映画という非常に娯楽性が高く、観客すべて批評家といっても過言ではない領域では、何故か、日本人監督ハリウッドを制覇! とは、行かない。勿論、日本が得意とするアニメでは成功例はあるが、実写のシネマとなると、なかなか難しく、今後もこのような事例が日本人からでてくるとは思えないのだ。そして、私は、何故出てきそうにないのか、その理由を考えているのだが、なかなか答えがみつからない。
 などという感想を持った。娯楽作品としては、いま一つだが、前作と合わせて中世、それもシェークスピアが出てきた頃のイギリスの歴史を勉強するにはうってつけの映画と言える。

火曜日, 2月 26, 2008

三寒四温 まさに体感している!

2日前は温度が10度C以上になり、3月を思わせる天気だったのに、今日は一転して外気温が3〜4度C前後。しかも、冬雨が薄ら寒さを増幅している。北陸地方では、積雪の零下より、この冬雨の「薄ら寒さ」の方が嫌われている。何故か、人の心をうっとうしく、陰鬱にしてしまうからだ。
 こういう日は、家の中で心豊かに気分を快活にして過ごすほかない。美味しい夕食、それも湯気の立ち上る夕餉を考え、そこへむけて1日の楽しみを凝縮していくわけだ。そこで、マスターの夕餉は、牡蠣と湯豆腐のような鍋にしようと考えている。野菜は、ハリハリした水菜をサァーと入れて。勿論、ポン酢にもこだわろう。柑橘類を直に取りそろえて市販のポン酢に加え、風味を濃厚にしてみたい。
 ここまでアイディアがでそろうと、安心して午後の仕事に打ち込める。さて、4月からの出版文化論の大学サーバーへのアップ・ロードを本格化するか!

月曜日, 2月 25, 2008

静かに過ごしながら、読書!

今、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を文庫本で読んでいる。もう20年近く前に出版された時代小説だが、いままで読んでいなかった。「坂の上の雲」や「竜馬が行く」などは学生時代から馴染んでおり、何度も繰り返し読んでいるのに、この「翔ぶが如く」だけはどうしたわけか、手を出さずじまいになっていた。読み出して、何故手を出さなかったかが、朧気ながら解ってきたような気がする。それは、代表作の「坂の上の雲」や「竜馬が行く」のように登場人物が生き生きと躍動し、その一挙一動がドラマとしての躍動感に満ちているのに反して、「翔ぶが如く」に出てくる群像にはそのようなドラマ性が乏しいからなのではないか、その臭いを書店の店頭で嗅ぎ取ってしまい、手が出なかったのではないか、という自身の無意識世界のなせる業だったのではないかと思うのだ。
 明治維新初期の揺れ動く政治情勢、取り巻くアジアの国際情勢の中で、薩摩から出てきた西郷隆盛、大久保利通の生き様を縦軸にしてはいるが、全体的に歴史資料をふんだんに活用しつつ筆は進んでいく。司馬さんはそれらの資料の行間を研ぎ澄まされた感性で読み解き、その場その場の空気感を丹精に再現するかの如く、神経を払っている。だから、小説仕立ての代表作の中でも、ちょっと異質な感じを覚えている。
 2年前の北京取材の前後に読んだ陳舜臣さんの「阿片戦争」「江は流れず(小説日清戦争)」に登場してくる中国の代表的な政治家の一人李鴻章などの人物像を参考に、また陳さんの小説の背景を思い出しながら大久保利通の北京での賠償金交渉のくだりなどを読んでいると、私もようやく日本近世史を勉強できる素養が出来てきたのではないかと思えて、歴史の勉強には本当に時間と努力が必要なのだと、改めて反省している。
 小説とは言っても、「翔ぶが如く」、なかなか飛ばない。丹精に読まないと、事件と歴史の廻転にこちらが翻弄され、どこに面白さがあるのか、感じる間の無く、飛ばして読んでしまいそうだ。
 ダイエット、実に順調。10年前の体重に戻りつつある。ダイエットは食事節制にかぎる。運動では痩せない。入れるもの、出すもののバランスを調節すること。だから、寝汗などをかくと、とても嬉しくなる。新陳代謝が上手く行っている証拠と思うのだ。

木曜日, 2月 21, 2008

春らしい温度に気持ちも前向きになる! 粋にね!

今日は晴天だった。週末に降り積もった雪も、どんどん溶けていく。温度も上昇し、車についている外気温の表示を見ても10度C近くあり、数日前に零下を経験したときとは比べようもなく、身体が軽く、ノビノビとした心地になる。春って、いいな!
 肘の破れたセーターとポケットの裏地が切れたブルゾンを繕い物に出す。両方で3,500円ほどだという。ユニクロだったら、新品を買える金額だが、私は繕い物で、長く使用したいと考えている。だって両方とも、お気に入りだからだ。これで、後5年ほど持てば、充分すぎるくらいの元が取れるというものだ。新調するばかりが粋なのではない。なじんだ愛用の衣服を、丁寧に、大事に、着古していく。この粋を追究するぞ。
 春休みとなり、時間的余裕が生まれると、生活改善運動が始まる。昨日は、ここ1年間溜め込んだガラス製品(瓶やジャムの容器など)を出す日だった。2袋になる廃棄処分をした。また、冷蔵庫を総ざらいして、賞味期限切れの品をことごとく捨てた。こうすると、何となく冷蔵庫が元気を吹き返してくるようで、不思議だ。この冷蔵庫ももうすぐ20年選手になる。サーモが働き出すと、もの凄い振動音を発生するようになったが、なんの故障もないのだから使い続けるつもり。しかし、今年はメンテ診断をしてもらおうとか、いろいろ前向きな考えが浮かんでくる。これが、楽しい。

水曜日, 2月 20, 2008

芥川賞受賞作家へのインタビュー記事「家には本が一冊もなかった」

第138回平成19年度下半期芥川賞は、川上未映子さんの「乳と卵」だった。現在発売されている文藝春秋3月特別号に掲載されている。作品は、私にはなじまない文体で記述されており、少々読解するのに時間がかかってしまう。なぜなら、情景描写、心理描写が、ところどころかすめて入ってくる大阪弁口頭語記述と、やたら句点でくぎりながらも、延々と続く一文が長いからだ。樋口一葉の文体に影響を受け、それを現在風に演出すると、このような文体になるらしい。兎に角、客観記事文体になれた私には難物。昨晩読み切ろうとしたが、途中で頓挫してしまい、今日改めてといったところだ。
 受賞作品そのものも興味深いのだが、さらに面白いと思ったのは、作品掲載に当たっての作家へのインタビュー記事である。書店員やホステスや歌手デビューすらしたことのある作者の経歴もさることながら、その独特の観察眼と価値観に惹かれてしまう。例えば、ケータイ小説やできちゃった婚についての認識など、なるほどと、唸ってしまった。その部分を引用してみたい。
 
 文藝春秋三月特別号350~351ページにかけ2カ所引用します:
 先日、社会学者の宮台真司さんが言っていたんですが、今なぜ若い子にケータイ小説が受けているかというと、彼女たちの人付き合いが刹那的だからだというんですね。彼女たちは週替わりで相手を変える。でも、それはすれっからしだからではなく、ピュアすぎて傷つくことが怖いから、問題が起きたらすぐ別れてしまうんだと。ケータイ小説もそういう乗りなんですよ。「強姦された! 頑張れよといわれた。だから頑張る」みたいに(笑)。←<(笑)こういう記述がすっかり文化として定着してしまった!>わかりやすいけど、彼女たちはそういう表現しかシンパシーを持てない。純文学が扱うような深い人間関係を照らす文章は、傷つくからアクセスできないだそうです。傷つくことが本当にこわいんですね。ーーーーとあり、この後、このような彼女たちに伝わる小説とはどうしたら書けるのだろうと反問しているのである。このような時代性が根付いていることが、まず、新鮮に感じるのである。
 次の箇所は:
 今の私の結論は、考える前に子供をつくらないと子供はできないということですね。この時代、避妊も追いつかないくらい燃え上がっているときでないと、子供はつくれないような気がします。私たちの世代、出来ちゃった婚しかないと思いますよ(笑)。
 
 この「私たちの世代、出来ちゃった婚しかないと思いますよ(笑)」と、乾いた感性で時代に取り込まれてしまった若者たちの恋愛状況や結婚状況について、痛快さを覚えるくらいの明快な答えを言い放っている点だ。これには、参った。
 我がセミナー2年間アニメ・プロジェクトで、引きこもりがちな男の子の心情を同世代の女性陣が見事に喝破しつつ、コメディ・タッチで描ききってしまったわけだが、その際も、プロデューサーたる私は一抹の不安がなかった訳ではない。セックスに関連する妄想や、もっと言うなら、パンツに執着するという主人公の性癖を正面に出しても良いのかという逡巡がなかったわけではないのだ。
 しかし、この世代(現10代後半から30代前半まで)には、川上氏が認識しているように、実に乾いた性に対する認識があることを、改めて突きつけられたのだ。つまり、オトンやオカン世代より、彼女たちの日常には「性」は身近なものであり、日常生活のごくごく近辺に存在するものであり、結婚や家庭を持ち子供を育てると言うことも、定式化された通過儀礼ではなく、ハプニングの結果処理、自己責任の取り方としての結果、という認識の方が、ノーマルな考え方なのではないかと思わざるを得ない。そんな考えに押し込んでしまう、いわば迫力が、この作家さんの言葉の端々から響いてきた。
 この小説とインタビュー記事をセミナー生に読ませてみたい。彼ら、彼女たちは、どのような感想を持つのであろう。昨日、やっとの思いで、卒業必要単位をクリアしたことが判明したYUKAはどう感じるのだろう。その意味では、綿矢りさたちの世代より時代感を一段と鮮明にした作家が着目されるようになったということか。

火曜日, 2月 19, 2008

春が見えてきた

留年か、卒業かの判定となる単位の見込み判定が今日学生たちに伝達される日だった。昨秋から若干1名、当セミナーには心配児がおり、どうなることかと気を揉んでいたが、11時頃、当該学生より電話があり、「再試、追試を受けなくても単位は足りていたようです!」と息を弾ませた報告があった。安堵、安堵! これで名実共に、春休みとなる。とは言っても、授業コンテンツの大学サーバーへの移行手続きやなにやで、細々とした仕事は続くのだが。
 そして、もう一つの出来事は、メディア系の卒業制作発表会があり、こちらも盛況だったようだ。ようだとは、私は福井に居る必要があり、出席できなかった。しかし、こちらの方も気になり、終了時間帯に同僚に電話をして、先生たちがこぞって参加してくれたり、学生たちのパフォーマンスも良く、成功だったことを確認。よかった、よかったの二連発、三連発を炸裂させていた。ようやく、長く苦しい冬を越し、春が見えてきた感じである。マジ、ホッとした。お外の気候も、今日は晴れていて、先週末につもった雪を、びしゃびしゃ溶かしてくれている。射手座の今日の運勢は最低レベルの指標がついていたが、全体的には春になりそうで、喜ばなくてはならないと思っている。
 今日の晩飯はボンゴレビアンコ。アンチョビ・ペーストを新たに求め、少しスープパスタ気味の出来にした。食べ残しのスープは、トーストした食パンに浸してすべて平らげた。味良し、量良し。私はパスタは100グラムで調理。

金曜日, 2月 15, 2008

寒々とした日々が続く・・・

今日の福井は雪ぃーーい! 道路グチャグチャ、家の中、津々と冷えること冷えること。たまらず薪ストーブを点火し、エアコンを止める。
 心配事が続いている。4年生の1名の卒業単位のことだ。上手く「卒業見込み」の判定が出てくれればいいのだが。
 溜め込んだDVDで不要と思われる作品を中古市場に持っていった。結構、高値で売れるものだ。特に、プレミア・バージョンの2枚組などが売れ筋だ。中には1万円近くの値段がつくものもあり、驚いている。循環型社会の一例だが、このような消費と還元方法も有ることを知り、得した気分である。
 今日は、車の保険、火災保険の新しい見積もりが届いた。10年間見直しなしでやってきたのだが、これは無駄と言うより、気持ちの引き締め効果の方が大きいな! 減価償却分を見込まないと、いつまでも高値の資産評価に振り回されてしまうのだ。このようなところにも、私の世間知らずが反映しており、反省。頭の中こそ、もっと寒々とならなくてはいけないね!
 今晩は久しぶりに特製きんぴらを創る。コチュジャン風味の鍋と共に。

火曜日, 2月 12, 2008

ついに大台を突破! 軽くなった!

大学の方も成績を出し終え、春休みモードになってきた。もちろん、月々の会議などには出掛けなくちゃならないが、基本的にはじっくり研究や調査にあてるべき時期になった。例年、出版文化論の旅をこの3年間続けてきたが、この春は遠出はしないつもりだ。福井に籠もり、生活の立て直し、経費圧縮の実施、ダイエット、来期への新しい教材造りなどに当てる覚悟。特に、ダイエット効果が嬉しく、先月末には、目標だった大台を切った。これが、何より嬉しく、身体が軽くなると、いままで手の付けられなかった(心理的に後回しにしていた)案件をどんどん解決しようという気持ちになるから、実に不思議。ということで、今日は確定申告の相談に会計士さんの事務所へ朝一で出掛け、今後の経費計画、税務全般を詳細に検討できた。私の自己方針は、ほぼ的を得ていたようで、安心した。
 2月は映画や東京で開催されるメディア芸術祭へ出掛けたりしていたが、今年は全て取りやめ。もう、参考作品を積極的に覗こうという気持ちも沸かない。これは、経費の問題と言うより、2年間プロジェクトを完成させたその反動のようだ。モッソラーの評判も上々で安心している。大学の同僚たち(先生方)からの感想がないのが気がかりだが、まぁ、明日の会議に出席すれば、何かしらの反応は掴めるはずと考えている。
 退任された元NHKの番組プロデューサーさんからは、ついつい引き込まれて、最後まで楽しんでしまい、お見事! と、まぁ、最大級のお褒めをいただいてしまったが、半分くらいにとらえておこう、そうそう甘いもんじゃないぞ、と気を引き締めている。
 兎に角、この春は自己体制の健全化、生活の立て直しあるのみだ。自炊を楽しく、優雅に、健康第一メニューにするところから、始めるぞ! 前向きに、前向きに!
 その他、学生たちのMLを大学サーバーで移管、移管はスムーズに完了している。後は、.Macのグループ・メールの整理整頓は残っている。モニター役の先生お二方におはなした後、MLからの削除をせねばならなあい。内モンゴルへ春節で里帰りしている留学生の動向も心配。などなど、穏やかな連休明けの火曜の昼時でR。

木曜日, 2月 07, 2008

大統領選挙の行方?

結着がつくかと思ったスーパーチューズデイは共和党はマケイン候補が優勢になったが、民主党の方はまだまだ予断をゆるさない情勢下にあり、オハイオ、テキサス、バージニアなどの大票田での動向にかかってきたようだ。ますます、面白くなってきたが、マケイン候補の共和党VS民主党という構図の中では、オバマ候補の方が戦いやすく、勝利しやすいのではという観測記事があった。何故だろうか? いろいろ解説報道を見てある来たいと思う。英語のHP巡りを再開しよう!

水曜日, 2月 06, 2008

スーパーチューズデイ

アメリカのスーパーチューズデイを注目している。特に民主党のヒラリー、オバマの接戦がどちらに転ぶのか。カリフォルニアではヒラリーが勝ちそうだ。そうなると、民主党の大統領指名選挙は一気にヒラリーに傾くとの観測がある。夫婦で大統領職となる可能性に、未知の興味が沸くのだ。
 アメリカは完全な男社会だ。そこへ、女性大統領が登場するのである。かよわき男性としては、社会に癒しを求めているヒラリーに期待してしまうじゃないか。イラク戦争はアメリカの間違いだった、早く撤退すべきだと主張する考え方にも同感している。私は、マジで、アメリカが女性大統領を頂く瞬間を観てみたい。

土曜日, 2月 02, 2008

君たち全員、すげぇ〜タレントだよ!

ヤフーがマイクロソフトに買収されるという。グーグルにネット市場を奪われたマイクロソフトとしてはシェア拡大がどうしても必要なのだろう。その対抗先のグーグルにも、業績拡大にかげりが出てきたとの記事が、同じ誌面に載っていた(朝日新聞)。何か奇妙な感じがする。
 このブログはグーグルが運営している。今はグーグル陣営にお世話になっているわけだ。伽藍のHPを閉鎖し、しばらくは、このサイトから何が出来るのかを、そろりそろりと考えていきたいと思う。HPとセミナー活動の方は、一昨年から導入している.macのグループ・サイトで充分に動かせることはアニメ・プロで実証済みだから問題はないが、授業との連携では、大学のサーバーを利用する手だけを考えて行かなくてはならない。でも、新しい取り組みは新鮮な気持ちで始められるから、その新鮮さを大事にしたいと思う。
 今日の夕刻、アニメ・プロは打ち上げの宴を開催する。四日市駅前の居酒屋らしい。だが、私は出掛けられない。そこで、監督でゼミ長の4年生に、皆への伝言を託した。「君たち全員、すげぇ〜タレントだよ。俺は、もうビックリしたよ。評判も上々! 本当に参加してくれて、ありがとう!」 電話の中で家族の評判を聞いたところ、監督の父親は、「なかなかええやないか。もっとみんなに見せなあかんな!」と言ってくれたらしい。ゼミ長曰く、ここまで言うのは、かなりのことらしい。

PS: NHK大河ドラマ「篤姫」の原作を少し読んでみたが、私には大奥物は合わない。テレビでは薩摩の風土がやけに明るくのびのびと描かれているのだが、江戸城中の陰湿で、暗いイメージは、ドラマではどのように処理されるのだろうか。天璋院篤姫を中心に幕末の日本を再度勉強しよう。

木曜日, 1月 31, 2008

アニメ完成試写会成功!

1月も今日で終わり。先日の29日、大学スタジオでアニメ完成試写会を開いた。学内だけのお披露目であるが、先生方数名に学生諸君も混じり、総数20数名の会となった。ある先生などは、最初は学生の作品と言うことで、「そんなに構えて観ようとはしなかったのだが、ついつい引き込まれて、最後は劇場で観ているのと同じ感じになってしまった。すごく、完成度が高い!」と言ってくださった。また、この10年間の我がセミナーの取り組みを見詰め続けてくれたコンピューター・センターの重鎮さんは、「タブロイド版にしても、雑誌にしても、DVDにしても、このセミナーの作品は、必ず前作以上の質的向上があり、これはもの凄いことだと思う。今回のアニメでは、特にイラストの品質が、格段にアップしており、すごいですね!」と褒めてくださった。それぞれ、有り難い感想に、「やらせてよかった」と安堵することしきり。
 これで4年生は、関係者を集めての打ち上げ(2日土曜日らしい)となった。就職先の研修会なども2月中旬くらいから始まるらしい。学生生活最後の長期お休みを有意義にすごしてもらいたいものだ。マジ、この1月末時点でプロジェクト終了宣言を出せてよかった。

金曜日, 1月 25, 2008

アニメ「モッソラー」完成

来週の火曜日1時から四日市大学スタジオでアニメ完成試写会が行われることになった。「モッソラー 妄想人宇宙(ソラ)の大学デビュー」(41分22秒)の完成である。私もこの期に合わせて新しく生まれ変わりたいモノだ。そこで、garan.co.jpの元で10年以上にわたり展開してきたHPをこの3月末で閉鎖し、その代わりにこのブログを当面の発信拠点にしようかと、考えている。取りあえずは、その報告から。

日曜日, 7月 01, 2007

DVD「鉄コン筋クリート完全生産限定版」、DVD「Paprika デラックス・ボックス」、CD&DVD「ZARD Golden Best 15th Anniversary」、一挙まとめて!

なつかしい坂井泉水さんの透明感のある歌声をバックに書き進めよう! この15周年記念アルバムは昨年発売されたようだ。しかし、彼女の不慮の死、そしてその後巻き起こった一種の哀悼ムーブメントに駆られて、オリコンでも上位に入る売り上げを叩きだしているようだ。そう言えば、最近カフェでかかっているJポップ系のバックグランド・ミュージックにも、確かにZARDが復活している。
 実は、私の場合、ZARDを知ったのは比較的最近のことである。どこかで聞こえている歌声を、「これ、良くかかってるよね、で、誰なの?」と学生に聞いて教えてもらったのが、いまから4,5年前のこと。当時は、宇多田、MISIAにはまっており、深く考えてみようとは思わなかったのだ。しかし、凄く大勢のファンが根付いており、バブル崩壊で行方を失った日本社会の底辺に位置する人々の心をガッチリととらえていたのが、実は坂井さんの歌詞の世界だったのである。
 青山斎場で行われたお別れの会のビデオを見ていて、かつて日本でセレブのお葬式、いや、死そのものが社会現象にまでなり、花をたむける行為が広がることは、そうそうないことだと思った。尾崎豊、X JapanのHIDEなど、数えるほどしかないが、彼女の死のインパクトは、何かそれらとは明らかに一線を画しているように思える。90年代を語るときよく使われる「失われた10年」というキーフレーズ。そんな、停滞期、閉塞感に包まれた時代に、多くの人々に普遍的な希望を与えていたのが、坂井さん楽曲、特に歌詞に込められた「思い」だったのだ。
 宇多田を考えることは、純日本的な感性と世界との結びつきであり、それはネット時代の時流そのものを考えることでもあるわけだが、ZARDは、そのような時流とは、一歩も二歩も引いた位置から語りかけていたことが、今になって理解出来るのである。だから、ZARDの楽曲がいま我々にもたらしてくれるものは、何かの反省であったり、振り返りであったり、過去の等身大の自分自身を思い起こす作用をもっているように思う。
 先週の木曜日、DVD2セット到着。それからというものは、繰り返し見ている。やはり、メディアを教えるものとしては、制作者の施策ノートというべきメイキングや絵コンテをこれでもかと見せてくれるパッケージは有り難い。特に、鉄コンのマイケル監督が語りかけてくるメイキングには、「今、世界のクリエーター、それも完成のするどいクリエーターたちの息づかい、感じ方」は、こうなんだということを、たっぷり感じさせてくれる。それは、「バベル」のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトウ監督にも感じた「ある感じ方」に近いものを感じ取っている。
 一方、今敏監督の大人で正攻法のアニメ創りには、手堅い実写映像のあつかいに近いものを毎回勉強させてもらっている。その中でも、車で雨の中を移動中のシーンで、車のフロントガラスを流れる雨だれをストーリー展開の象徴的にシーンに作り替える発想を生むプロセスの説明には、ある種の安心を受けてしまった。ランダムに出てくるイメージを寄せ集めて絵コンテを描いているセミナー生たちにも、「それで良いんだよ」と自信をもって言える何かを教えている。ありがたい、メイキングだった。

日曜日, 6月 17, 2007

鳥越憲三郎著「古代中国と倭族」

中国史を勉強するようになり、その筋の著作に目を通すたびに、古代に編纂された「史記」などの通史が、ことごとく中原の漢文化、漢人中心主義になっており、史記以前の正確な歴史や文化を探る場合、この漢人中心主義のフィルターを上手に剥がしながら考察して行かなくてはならないことを意識づけられる。
 この書籍は長江文明の担い手で、その後、北からの軍事的圧力により、中国各地、それも中国の南方や朝鮮と経由して日本に稲作文化をもたらした倭族についての概説書である。ほとんどの話題は、安田環境史観の書籍で知っており、その意味では追認するような感覚で読み進むことが出来た。しかし、弥生文化の担い手となり、縄文人たちとの森の文化と共存していたはずの弥生人が、朝鮮半島を経由して日本の九州に至った説は、若干、安田環境史観との違いをみせており、その点が今後の勉強課題となる。もう少し、鳥越先生の古代日本論を読んでみなくてはならない。
 最も驚いたのは、北の圧力で南下したり、辺境へと流れて行かざるを得なかった倭族の行き先として、インドシナ半島地域、朝鮮、台湾、日本というのは理解できても、インドネシアのトラジャ族(スラウェシ島)までもが、倭族の末裔だとする説には、本当かなという疑念が浮かぶ。もっと勉強しなくてはならない。しかし、紀元前の頃からインドネシアはインドと中国方面を繋ぐ交流の中継基地だったという事実もあり、無視できない説だ。
 また、倭族が中国南方の山岳地帯に創ったてん(さんずいに眞)国では、稲作の豊穣を祈願する祭りに女性の生け贄を捧げる犠牲祭儀が執り行われており、この風習は日本へも伝わっていたとの記述があり、非常に興味を覚える。

土曜日, 6月 09, 2007

山田洋次監督作品・藤沢周平原作3部作「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」「武士の一分」

世は藤沢周平流行(ばやり)である。NHK BSHiでは、各界の名士が藤沢作品との出会いと付き合い方を15分のドキュメンタリータッチで、ご本人の朗読付きで紹介する小番組を放送している程だから、その裾野の広さは相当大きいに違いない。このような思いに駆られて、昨年年末頃から作品を読みたい気持ちが募っていた。しかし、他の領域の書籍を、大学の授業準備、研究課題との摺り合わせながら読んでいたので、なかなか愉しむ機会が無く、半年が過ぎようとしている。
 そこで先週から、原典読書はさておいて、山田洋次監督3部作を一気に体験するDVDツアーを行った。まず、昨年公開され、木村拓哉が主演を演じたことでも話題となった「武士の一分」から始めた。続いて、真田広之主演の「たそがれ清兵衛」、永瀬正敏主演の「隠し剣鬼の爪」を連続鑑賞。どの話にも似たような共通性があることを発見し、「そうなのか、なるほど、なるほど」という感じである。
 どの話も、下級武士が主人公となっている。そして、赤貧の生活を慎ましやかに、精々として励みながら生きている。ところが一端藩に事件が起きると、この者たちは、翻弄され、愚弄され、生きるか死ぬかの窮地に立たされるのだ。ある主人公は藩命にさからったかつての盟友を成敗するお役を申しつけられ、ある者は藩の役として毒味をしていたことから失明し、生活は困窮し、そのために妻を不貞へと走らせてしまう。あるいは、心優しい性格から身分の違うかつての奉公人を嫁ぎ先から連れ出してしまい、世間から白い目で見られてしまう。それぞれ、人としての最も大切すべき誠意、慈愛、慈悲の心に溢れた主人公たちが、自分に降りかかった不条理を、それぞれの努力と勇気で乗り越えていくのだ。
 その姿が感動を呼ぶ。主人公たちは、決してヒーローではない。池波正太郎作品に出てくる鬼平のような英雄譚ではないところに、多くの人々が共感を覚えるのである。それは、「勝ち組、負け組」といった不条理な二分法がまかり通っている「今」だからこそ、輝きをもって受け入れられる素地を、私たちに示してくれるのだ。
 さて、助演陣、特に女優の存在にも触れてみたいのだが、山田洋次監督3部作の初期2作品には、宮沢りえ(たそがれ清兵衛)、松たか子(隠し剣鬼の爪)という名の売れた女優を配しいている。ご両人とも、水準以上の演技を披露しているとは思うのだが、私は、木村拓哉の相手役を務めた、檀れい(武士の一分)に注目した。この女優にはいままでの女優にない、極めて特異な華がありそうだ。私は彼女の次回作に注目したいと思う。彼女には、相当に大きな、スケール感の大きな役者としての潜在力を感じている。
 雨の夜長、雪の降る寒々しい夜、これらの作品を再度愉しむことにしょう。心を浄化してくれる、そんな世界が期待できるから。さて、小松菜の煮物でも創ろう。

日曜日, 6月 03, 2007

井筒和幸監督作品「ゲロッパ」「パッチギ」

パッチギ関連で、井筒監督の代表作を2点、この週末鑑賞した。ゲロッパは、エンターテイメント映画として成功しており、パッチギ第1作も、先に紹介したとおり、優れた青春映画となっている。若手のタレント陣のなかには、今後のムービースターとして伸びて行くであろう事を予感させてくれる人材もいる。その若手を井筒学校で鍛え抜いている姿にも好感をもつ。
 しかし、何かが足りない気がするのだ。突き抜ける「何か」が。シネカノン・プロデュース作品としては、その突き抜ける「何か」を見事やり抜いているのが、今年の日本映画の祭典で数々の賞をを受賞している「フラガール」だ。この映画の最後に出てくる蒼井優のソロでのダンス・シーンは圧巻であり、観客は充分にカタルシスを楽しめて解放されるだけのインパクトがあるのだが、「ゲロッパ」「パッチギ」には、そこまでのパワーがないように感じている。

徳川恒孝著「江戸の遺伝子ー世にも不思議な江戸時代」

徳川宗家第18代当主が解説する江戸時代。確かに不思議な語り口の本だった。元日本郵船社員として世界の各所に駐在した見識を江戸時代を構成する社会問題、文化のあり方、自然環境感を交互に交えつつ、日本的なるモノの特質を易しく解説している。その先に見えているのは、未曾有の環境問題であり、人口爆発の後に来る食料自給問題であり、心のあり方としての社会論である。
 環境学者安田先生の主張にも通じる側面を持つ話題としては、水田の収量を確保にかけた江戸の農業政策がいかに優れており、同時期のヨーロッパには見られない高品位の政策を江戸幕府はすすめていた話である。里山を綺麗に、丹念に整備し、灌漑用水を整備させ、これにかかる費用は藩の責任によって行わせた話などが端正に綴られており、気負う間もなく読了してしまった。戦国の世から中庸で平和な国家への変身に、いかに徳川は執政を司ったかを、品良く語られており、その語り口は、あくまで上品である。文章に、品位がにじみ出ており、さすが当主様だと、感心してしまった。
 史実として驚いたことは、ペリーの浦賀来訪を、長崎に出入りするオランダ人の幕府ご用係からすでに知っており(アメリカのミッションが来航し、捕鯨船の薪炭、食料飲料の補給基地として、日本に開港を迫る目的で)、これまで歴史を語るときにあたかも「突然浦賀沖」に出現し、日本国中大騒ぎになったがごとくの言い回しになっているが、これは謝りであることが示されており、実に面白い。
 あるいは、江戸時代が進むと武士階級は経済的に疲弊していったが、農工商は逆に潤い、自由闊達な社会へと社会が安定していった話などは、なるほどと思ってしまった。さらに、江戸時代は、全国津々浦々で私塾や藩校が盛んに教育を進めており、ヨーロッパの中世から近世にかけてのように、階級による教育の遮断的な状況が無かったことが、近代日本となり、欧米列強と即座に肩を並べうるキャッチアップが可能になった素地だったことも述べられており、納得である。
 現在、江戸の教育制度についての書籍をアマゾンに発注しており、しばし、江戸物で行こうと考えている。

日曜日, 5月 27, 2007

「イムジン河」井筒和幸監督作品「パッチギ Love & Peace」クァク・ジェヨン監督作品「ラブストーリー」

今年の4月からNHK BS2では、原語(朝鮮語)による「チャングム」の再放送が流れている。金曜日午後8時頃から始まるこの再放送を、なんと私は、またもや、はまってしまって、見ている。確かに朝鮮語による映像には、日本語に吹き替えにはない迫力があり、語感に潜む別の情緒世界を味わえる。あの意地悪で、上昇志向の強いチェサングンさんの声が、やけに可愛かったりして、思わぬ魅力を発見できる再放送は、面白い。NHKだけで3回も再放送になったドラマなど、過去にあったであろうか?
 私は昭和26年生まれのラジオ世代だ。小学校6年の時、父親が早朝のNHK英会話の放送を聞かせるために買ってくれたトランジスターラジオから、ラジオとの付き合いが始まった。中学になる頃には、湯川礼子さんがDJを勤める番組でビートルズを知り、地球の裏側の流行を想像していた。高校受験時には、すっかり深夜放送族になっていた。ジェットストリームの始まりを心待ちして、深夜飛行に憧れていたものだ。
 深夜放送を聞く習慣は、高校生になるとさらに日常化した。そして、高校1年生のある頃、私が始めて音楽を強く認識したある曲が流れたのだ。3人組のフォーククルセーダーズが唄う「イムジン河」。こんなに胸を締め付けられるような旋律がこの世にあるのかと驚き、マジで、凄い発見をしたような気になり、毎晩この曲がかからないかと期待する日々が始まった。しかし、数回放送された頃には、「これからは放送出来なくなりました」という事態になり、曲の背景にある朝鮮半島を巡る複雑な政治情勢があることを知り、こんなことで放送が禁止になるなんて「おかしい」という思いに駆られたものだ。これが私の初めての政治意識に萌芽だったのかもしれない。
 私には、その後のフォーククルセーダーズの曲、例えば、「帰って来たヨッパライ」や「悲しくてやりきれない」、「青年は荒野を目指す」など、名曲がたくさんあるのだが、今も「イムジン河」だけは、別格の存在として、心に響いている。昭和42,3年頃から、東大紛争があった昭和44,5年頃にかけてのサブカルチュア・ムーブメントは、この「イムジン河」に象徴されているように思うのだ。今から、約30数年前の話である。
 この曲をフュチャーした映画が2005年に公開された井筒和幸監督作品「パッチギ!」である。この5月にはシリーズとも言える「パッチギ Love & Peace」が劇場公開されている。数日前、テレビ放映された第1作目「パッチギ!」をみて、引っかかった。全編にわたって「イムジン河」がテーマミュージックのように扱われていたからだ。そこで、現在公開されいる「パッチギ Love & Peace」も見てみたくなって、昨晩、レイトショーに行ってみた。観客は、私を含めて4人。折からの「パイレーツ・オブ・カリビアンⅢ」には長蛇の列ができているというのに。
 見終わって、変な違和感に襲われた。それは、日韓に横たわるひずみそのもののように感じられた。在日の方々には申し訳ないが、無理して理解しよう、時代背景やエピソードを無理して日韓に横たわる問題にすり寄せようとし過ぎなのだ。ジメジメとした感傷が残ってしまい、爽やかになれなかった。第1作目の方が、はるかにストレートで、青春映画として成功していると思えてならない。その感情は帰宅しても消えず、口直しが必要になった。それも、ペヤングの焼きそばでは駄目なのだ。結局、口直しは、クァク・ジェヨン監督作品「ラブストーリー」となった。千五百円のレイトショーは何だったのだろう......。

日曜日, 5月 13, 2007

筒井康隆原作・今敏監督アニメ作品「Paprika(パプリカ)」

筒井康隆さんの小説が立て続けにアニメ化されている。「時をかける少女」と「Paprika」だ。どちらも話題作。世界の映画祭に招待上映され、評価が高まっている。なかでも私は、「Paprika」に期待している。監督は今敏さん。アニメ「千年女優」の監督さんだ。
 実は、「Paprika」に注目しだしたのは、その「千年女優」を観たからだ。アニメを見続けると、アニメ的ビジュアルの飛躍した表現に、ときどきうっとうしさを感じる局面があり、実写の映画を観ているときとは違った鑑賞のためのスタンスを無意識に取っている場合が多い。しかし、4ヶ月ほど前、DVDを手に入れて「千年女優」を観て、そういったうっとうしさを全く感じさせない展開に気がつき、今監督を注目するようになった。その監督の最新作として注目していたのだ。
 もう少し説明すると、アニメなのに、実写フィルムを観ているような感覚で観ることが出来るアニメを創っているのが今作品なのではないかと、勝手に仮説している訳だ。
 そして、つい最近、アップル・コンピューターのサイトにあるムービー・トレーラーでHDサイズの予告編を観て、ハマってしまった。しかし、短期間の劇場公開を逃してしまうと言う、誠に残念な出来事があり、DVDが発売されるのを待ち続ける日々だったのである。それが、5月23日に通常版だけでなく、HDバージョン(UMD版・Blu-ray版)も発売されるとの、アマゾンからのお知らせが届いたのである。即、予約した。一刻も早くアニメ・プロのメンバーに勉強させなくてはならない。
 大学では、月曜日の3限目に出版文化論を担当しているが、近年はすっかりパワーポイントのお世話になっており、授業開始前の昼休みにセットアップすることが日常化している。だいたい15分前にはセットを完了するのだが、テストのために、iTunesのデモ音源をPAしてみたり、QuickTimeのMovieTrailersを再生したりしている。そして、この「Paprika」を再生したときは、面白い反応が届いた。授業の終わりに女子学生2人組が私の所に来て、授業の質問かと思いきや、「あのアニメ、どういうアニメなんですか? どこへいけば観れるんですか?」と尋ねてきた。たった2分あまりの予告編で、こんな反応は今までにないこと。後日、その質問にきた学生が食堂で私を見つけ、「先生、悔し! 東京まで行かないと、見れない!」。いやはや、衝撃度は、マジすごかった。
>>>Paprika オフィシャル・サイトへはこちらから>>>

土曜日, 5月 05, 2007

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作品「アモーレス・ペロス」「21g」

「バベル」を観て、改めてイニャリトゥ監督作品を勉強しなくてはならないと決意。アマゾンで中古DVDを入手し、連続して鑑賞した。
 「アモーレス・ペロス」のDVDジャケットのキャッチに、「メキシコ映画界のクエンティン・タランティーノ」とある。「バベル」の成功で、この称号は外されるに違いない。いや、「21g」の成功で、すでにタランティーノを超えていたと思う。エンターティメント性の強いタランティーノとは明らかに違う方向性を持った監督だからだ。「バベル」を含む3作に共通していることは、社会の中の平均値に添って生きていくことが難しくなった人々から表出してくる生地の人間性を、大切に、美しく、詩的に扱おうとしている点だ。
 そのために、そのような極地に追い詰められた人々に、詩的なモチーフを背負わせて、そのモチーフの重なりを叙情的センスで丹念に編集し、時にはストーリーの時間軸さえ前後させてしまいながら、独特の映像空間を構築している。観客は、当初とまどい、疑い、自問し始め、そして、だんだんイニャリトゥ・ワールドへ引きずり込まれ、最後には、半分は謎解きが出来て、半分は不可解な感情や理性にさいなまれるという、まことに不思議な映像体験にさらされるのだ。決して不快ではない。だが、重い、息苦しい。このような、社会派、あるいは新感覚主義ともいえる手法で、重いテーマを持つ映画が、ハリウッドを頂点とするアメリカ映画産業界で受け入れられていること自体が、私には驚きなのだ。
 際だったモチーフとは、例えば、何らかの理由から平和な家庭生活を放棄し、ホームレスのような生活をしながら沢山の犬たちとの共同生活をする男。ところが、彼の唯一の収入源は請負殺人。あるいは、兄嫁に真剣に恋して、駆け落ちしたいがために兄を敵に売ってしまう弟。心臓疾患を持ち、移植でしか生き延びられなくなった男。しかし一端移植が成功すると、提供者の死について考えだし、心臓提供者の事故死によって残された妻と、関係を持ってしまう。また、死んだ夫の心臓を移植された男にしか心が開かなくなった女。母を自殺で亡くし、父親と二人で暮らす聾唖者の娘。性に訴えてでも、自分の抱えた孤独や社会の偏見からくる怒りを解消しようとする少女。どれも極端な設定なのだが、生地の人間性を、これでもかと言わんばかりにえぐり出すドラマ性。その手腕は、むしろ、心理描写に長けた小説家か、詩人のようである。
 このように考えてくると、イニャリトゥ監督にとって映画とは、まさに「詩」なのではないだろうか。言葉で綴られる小説や詩は、行間を読者の自由な想像力に委ねることを前提としている。それでは不十分だと言わんばかりに、映像での表現を追究する。この人は、映像こそが、混迷したイメージ世界に秩序を与え、あるいは、対抗出来る唯一の表現方法、メッセージ力なのだと確信しているに違いない。

月曜日, 4月 30, 2007

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作品「バベル」

先週の金曜日頃から、このところ途絶えていた映像体験研修を集中的に行っている。主に、DVDと映画館へ出掛けての研修である。研修対象作品は、DVDでは宮崎アニメ「魔女の宅急便」「のだめ・カンタービレ」「プラダを着た悪魔」、映画館では「バベル」「クイーン」の5作品である。
 それぞれ勉強することはたくさんあったのだが、ここは「バベル」について考えておこう。監督は、メキシコ人のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、1962年生まれの45歳。これも話題作となり役者たちがアカデミー賞にノミネートされた「21グラム」の監督でもある。この映画の底流を流れるテーマは、「境界を形成するものは、言語、文化、人種、宗教ではなく、私たちの中にある」(公式HPの監督紹介コーナーから引用)だという。確かに、このような難しいテーマを見事に描ききった手腕には驚いた。しかし、さらに驚いたことは、このテーマをアメリカの映画界がこぞって受け入れ、アカデミー賞の作品賞の対象にもなったことだ。
 人間の奥底にある「境界」を創り出してしまうもの、いわば、人間としての「業」のようなものを普遍的に描こうとしているように思う。確かに監督自身の言葉や、そしてタイトルは、旧約聖書から借用した「バベル」。しかし、私にはもっと他にメッセージがあるのではないかと思った。それは、アメリカ型のグローバリゼーションがいま世界にもたらしている「傷」についての叫びである。傲慢で身勝手なアメリカ人夫婦をおそった被弾事故から、物語は同時進行的にモロッコの砂漠地帯とモロッコ人通訳の住む貧村、メキシコからの善良な出稼ぎ家政婦と彼女の息子や従兄弟たち、そして、不法入国が恒常的に問題化しているアメリカ・メキシコの国境砂漠地帯、銃撃に使われた銃の元所有者である日本人の父親と聾唖者である娘。住んでいるのは欧米化した都市文化とは明らかに異相の発展を遂げている東京。
 人の心の中に巣くう砂漠のような、乾いた、ザラザラしたもの。その象徴としての乾いた大地、はげ山と化しているモロッコの山岳地帯。晴れやかなはずの結婚式のフェスタが開かれるメキシコの貧村にも、砂埃が立ちこめ、祝祭の行く末に不安を投げかけている。それは、華やかでコンクリート・ジャングルと化した東京の繁栄の中にある実像として砂漠にも繋がる映像。見事な構成力で観る人々に気付かせてくれる何か。見事な映画としか、言葉がない。
 全体的にドキュメンタリータッチの映像が続く中、一カ所だけ、生っぽいシーンが出てくる。それは、メキシコからの家政婦がアメリカ人夫妻の二人の子供を自分の息子の結婚式に連れ出し、帰り道で国境を監視するポリスとトラブルを起こしてしまい、不法滞在がばれて、即刻国外退去を言い渡される留置場でのシーンである。この部分だけは、定式化したアメリカ裁判映画のタッチで、そのシーンだけが、やけに「生っぽく」描かれている。そのシーンだけは、実に異質なのだ。監督の明らかなメッセージといえるのではないだろうか。
 何故なら、観客をある種のカタルシスへ誘うシーン群、例えば、警官隊に追い詰められ、兄を死なせてしまい、ついには自ら銃撃犯であることを叫び、兄を助けてくれ叫ぶシーン、あるいは、孤独の局地から父親の懐に抱かれ、絆を回復していきそうなことを予感させるマンションのベランダでのシーン(役所広司と菊池凛子)、ハイウェイ国境の出口へ強制退去を強いられた母親を息子が出迎えるシーン、これらの、いわば安堵させるシーン群ですら、ドキュメンタリー風の映像美で綴られているからだ。
「バベル」公式HPへのリンク 

金曜日, 4月 20, 2007

リリー・フランキー著「東京タワー オカンとボクと、時々オトン」

書店の店員が推薦する書籍として、最初じわじわ、なかぱっぱ、一昨年の暮れには大ヒットとなった本である。そして「2006年本屋大賞」を受賞。なんでも、200万部を越す大ヒット本だ。私は、ずっと気に掛かっていたが、常に無視していた。しかし、あることから、ついに読んでしまった。その経緯から説明しよう。
 最初は、この冬の月9ドラマからだ。速見もこみち主演、助演が倍賞美津子の11話を全部完全に見通したのではないのだが、まだら状態で、とにかく観ていた。だいたいストーリーは掌握した。春には、日テレ系列から劇場映画となることも知っていた。そこで、テレビと映画では、どのような違いがあるのか、それを観てみたい。演出の違い、挿話の扱い方、演技人の共通性、あるいは非共通性など、観察ポイントはいろいろイメージ出来た。日テレVSフジテレビという観点もある。何より、全体を通してのトーンがどうなっているのかを、直に確かめたくなったのだ。
 先週の土曜日、暇を見つけて、劇場映画「東京タワー」を見に行った。こちらは、主演はライフカードのCMでおなじみのオダギリジョーさん。オカンは、樹木希林。オカンの若かりし頃の役は、樹木希林の実の娘である内田也哉子。内田也哉子は、樹木希林とロッカー内田裕也との間に出来た一人娘で、役者本木雅弘と結婚し、子供二人の母親でもある。そう! まず、このキャスティングが、気が利きすぎているのである。樹木希林、内田裕也……、と想像すれば、別居状態夫婦という立派すぎるイメージがあり、「リリーさんちと同じじゃないか!」と思ってしまう。これって、マーケティングなの? マジ、キャスティングなの??? という、観客にはまたとない興味を、持たせてくれるのである。
 映画を見終わり、私としては珍しく最後のクレジットロールまで付き合ってしまった。初日の昼の上演だった。土曜日と言うことで、中年の夫婦連れが多い。明らかに目を腫らした人を見てしまった。かくいう私も、自分の母親を思い出しながら、映画に没入してしまっていた。マジ、何年かぶりで、たぶん、20年ぶりくらいで、ドラマを見て、涙がポロポロ落ちていた。
 正直にいうと、この映画、出来すぎである。これは素晴らしく上質の映画になっている。何より、樹木希林さんの演技が秀逸なのだ。見事というほか、言葉がない。まさに、化け物役者。そして、その娘の演技も素晴らしいのである。その存在感は、リリーさんの恋人役を演じた松たかこを完全に食っていた。こりゃ、内田裕也オトンもメロメロになるに違いない。これがきっかけで、樹木希林との同居へと、よりを戻すのではなかろうか、とは巷の邪推である。
 こうなると、原作に当たらざるを得なくなり、読んでしまったと、いう訳である。読んでみたところ、さらに涙腺が緩くなってしまった。映画を観てから約28時間後の深夜には、涙で文字がぼろぼろになり、眼精疲労克服のためにやもをえず、就寝しなくてはならないくらいだった。書籍の帯に、ある書店員さんが書評を書いていたが、「リリーさん、これは反則だよ!」。私はこの本を、セミナー生に薦めようと思い、2冊購入。研究室に置いてある。
 さて、テレビドラマ、劇場映画、原本と確かめてきたわけだが、原書から逸脱した演出、脚色上の配慮から若干書籍のストーリーを膨らませて演出した部分など、実に面白い発見があった。特に、主人公のリリーさんと彼女、そしてオカンとの交流部分が、見事に脚色されている。こういうのって、リリーさんや元彼女の了承積み演出なのだろうか? でも、ここでテレビVS映画の勝負の軍配を決めなくちゃ成らないのだが、私は映画の方が、この書籍の持つ時代的な意味を良く汲み取って演出編集してあり、絶対的に支持したいと考えている。
 原作者リリー・フランキー:1963年生まれ。脚本松尾スズキ:1962年生まれ。監督松岡錠司1961年生まれ。素晴らしい才能が花を咲かせている。
 この作品を調べていて、もう一つ、嬉しい発見があった。私はセミナーでアニメプロジェクトのメンバーに8分間のアニメーション「岸辺の二人 Father and Daughter」を必ず参考作品として見せている。このアニメを観たあるメンバーなど、8分後には泣いてしまった子がいるくらい素晴らしい作品であるが、その絵本バージョンがくもん出版から発行されている。その翻訳が、内田也哉子さんだったのである。こういう、目に見えない「縁」を発見したとき、私は自分の感性の行方を再確認出来て、とても嬉しいのだ。信じるべき「何か」を確認できたようで、幸せである。
映画「東京タワー」オフィシャルサイト

日曜日, 3月 11, 2007

華麗なる同期現象 安田喜憲著「日本よ、森の環境国家たれ」中公業書を読んで

ここ数日、塩野作品を離れて安田喜憲先生の「日本よ、森の環境国家たれ」を読んでいた。欧米型で一神教の文明と多神教で稲作漁労を主体とする文明とを、家畜の民の「動物文明」とし、森の民の「植物文明」と対比して論じる環境論には、いつもの事ながら、明解さとその科学性豊かな説得力に胸のすく思いだ。
 そんな中、3日前の夜、これも久しぶりに宮崎アニメ「天空の城ラピュタ」と「もののけ姫」を勉強していた。特に、「もののけ姫」の主題は、まさに安田文明史観と同じじゃないかと、驚嘆してしまった。自然を侵略し、自然を人間の従属下に置こうとする勢力と自然に畏敬の念を持ちつつ神々の怒りを鎮めようとするアシタカたちの対比は、動物文明と植物文明の対決の構図を見事に踏襲しているように思えてならないのだ。安田先生は「もののけ姫」をごらんになっておられるのだろうか? もしご存じであるならば、是非、感想を聞いてみたいものだ。確かに、安田先生は不死鳥にまつわる先見性ということで、手塚治虫作品「火の鳥」に言及されていたことは覚えているが、宮崎作品についても書いてもらいたいものだ。
 そんな感想を持ちつつ読み進めていたところ、ケーブル・テレビのヒストリーチャネルでNHK番組「その時歴史が動いた」の再放送が流れていた。南方熊楠の神社合祀令反対運動についてのものだった。エコロジーという共生社会の発想を日本で始めて知らしめたのが、この反対運動を通してのことだったことを知り、唖然とした。いまからすでに百年前に、エコロギーというキーワードを使って、鎮守の森のご神木を伐採し、山を裸にしていくことの危険性を説きまくったその姿は、何故か、安田先生や大橋力先生の姿と重なって見えてしまったのだ。
(※2004年7月放送の「その時歴史が動いた」 世界遺産 熊野の森を守れ 〜南方熊楠・日本初の自然保護運動〜)
 ここまで来ると、私の周辺で見聞きすることが、何か、華麗な同期現象に包まれているように思えてしまう。アニメの勉強でさえ、環境問題の一つの事例研究になってしまうわけだから。こういう日々を過ごせるいまの情報環境の素晴らしさに感謝したい。

金曜日, 3月 02, 2007

塩野七生著「海の都の物語 上下」

塩野さんのルネサンス著作集7巻のうち、のこるは、「ルネサンスの女たち」と「神の代理人」だけとなった。ヴェネツィアの一千年を通観する歴史概説書なのだが、そこは小説家としての興味から歴史を知ろうとする塩野さんらしいさまざまな逸話に彩られた実に読み応えのある800ページだった。
 蛮族の襲来に恐れた人々が馬に乗って襲って来れないラグーナ(潟)に立てこもったことからヴェネツィア共和国は始まっている。中世時代のヨーロッパは専制君主国が林立した時代だったが、ヴェネツィアは共和制を取り、政務をボランティアで行う一種の名誉職としての貴族たちが国会と元老院を運営し、さらに現在のアメリカ合衆国の国家安全保障委員会とCIAを兼ね備えた十人委員会なる国家最高決定機関を持ち、さらに国家の顔としての元首(ドージュ)を置いていた。しかも、元首にすら専横させないためのルールを張り巡らして、周知を集め、方針決定の精度をとことん追究するシステムを結実させていた。
 この政体のお陰で、通商国家として中世最大の経済大国として地中海世界に君臨するようになったのだ。この時期イタリア国内は、大小さまざまな都市国家の時代だったのだが、このような共和制を惹いたのはヴェネツィアだけだった。その独立性は、他国がことごとくヴァチカンへ擦り寄るなか、一定の距離を保ち、多文化を受け入れ、言論の自由を保障し、おおらかな気風を保ち続けていた。その半面、共同体への参加、奉仕、貢献を、子供の頃から徹底してしつける側面も持ち合わせていた。
 男子は少年時代から交易船の船員として海での仕事や戦闘要員としての訓練が義務づけられ、この訓練期間が終われば、貿易商人として地中海を股にかけた商業活動に従事し、壮年になっては本国に腰を落ち着けて国政に参加する。財をなし、貢献度の高い人は元老院メンバーとなり、無給で国政に参加を義務づけられていた。なんと、無給で。しかも、一朝事あらば、戦費負担は国民に先駆けて供出したというのだから、この時代のヴェネツィアの貴族たちは、ローマ帝国の戦士たちの伝統を引き継いでいたことになる。
 この物語は「ローマ人の物語」に先だって著述されている。その意味では、逆順で読んだ私には、「ローマ人の物語」で示された塩野史観のプロトタイプを観る思いだ。触れられている話題は、街の風俗から国政の最高決定のプロセス、外交に先立つ情報収集のためのスパイ活動や、実際にあった戦争戦記、それも海陸双方での戦いの始まりから顛末までなどなど、多岐にわたっており、息のつく暇もなく、没頭して読みまくった。面白い!
 さらに、出版文化論の話題まで頂戴してしまった。何故、ヴェネツィアは15世紀から18世紀にかけてヨーロッパの出版界をリードし続けたのか、その起因はなんだったのか。実に有り難い勉強をさせてもらった。

日曜日, 2月 25, 2007

ロビン西原作/湯浅政明・森本晃司監督アニメ作品「MIND GAME」


2004年度に公開された作品で、コアなファンを惹きつけたアニメ作品である。理不尽で最悪の殺され方をした青年・西が黄泉の世界入り込み、ハチャメチャな幻想世界で現実社会への復帰を目指すのだが、そのプロセスの奇想天外なストーリーにハマってしまった。こういう作品を発見してくるようになった我がゼミ生たち。なかなかセンスが成長してきたものだ。頼もしい限り。27日のセミナーミーティングでは全員で鑑賞してもらいたいものだ。
 常々、私は彼女たちに、アニメなんだから、現実的にはあり得ないことでも、アニメだったら実現できるのだから、「飛んで」いいのだ、イメージをハチャメチャに膨らませていいのだ、ということを言い続けている。しかし、これまでの生活の中で染みついてしまっている既存イメージというものは、なかなか突き崩せない。門塀が灰色だという固定観念に染まっている貧困さをどうしたら気付いてくれるのか。悩むことが多々あり。そういう場合は、こういう作品に刺激されるべきなのだ。
 この作品を観て、イメージ、あるいは表現するに当たってのバリアというものは無いのだといことを、感覚的に理解してもらいたいのだ。要は、描きたい世界に、どこまで自分の想像力を膨らませ、それを着地させるためにいかに造形に腐心するのか。そういう努力でしかなにのだ。リラックスしていなくては、イメージの世界に遊ぶことなど、出来ない。堅苦しい規制的な発想では、到底無理。どう破るか。どう捻るか。どのように遊ぶか。という、まさにマインドのあり方の問題なのだ。
 今年は、鉄コンに目覚め、マインド・ゲームに勉強ネタを発見し、千年女優に手堅い制作方法を学び、我がセミナーのアニメへの挑戦は実に充実してきた。嬉しいね!
 上のイラストはDVDの特典として付いてきた湯浅・森本両氏の「OUR MIND GAME」と題されたポストカードである。イラストとしても、凄く、イイ!

水曜日, 2月 21, 2007

ジェームズ・キング著 栗原百代訳「中国が世界をメチャクチャにする」

原題はチャイナ・シェィクス・ザ・ワールドである。中国が世界を震撼させるとでもいう意味であろう。邦題は、いささか日本のテレビのバラエティ番組風であるが、その内容は、実に論理整然とした現代中国社会分析論である。やはり、第一線のジャーナリストの話は、私には肌合いが良いようだ。
 13億人とは、全世界の人口(65億)の約1/5である。その中国人たちが改革開放政策によって資本主義的経済社会を一党独裁政権下で推し進めたのだから、中国国内には一般的な、そう、欧米日本のような市場主義社会で民主主義国では絶対に起こりえない矛盾が醸成されてしまっても、当たり前と言えば当たり前。だが、その規模、影響力が前代未聞のスケールで展開しているのだから、たまったものではない。低賃金をいいことに、製造業では世界の工場と化した中国企業が、それまで製造業の本場として地位を確立していたアメリカやイタリアの手工業都市を直撃し、ことごとく廃業に追い込んでいる様には驚いた。
 さらに、国家からの規制などなきがごとし。欲望のおもむくままに、世界の資源を食い尽くしていく勢いには、経済社会を見続けてきた専門家には脅威と映るようだ。しかし、取り上げている事例がことごとく信頼性のある事例だけに、空恐ろしくなる。
 例えば、ここ福井の地からでも実感されることとして、酸性雨の問題がある。これは中国の空位汚染の影響である。その中国国内のエネルギー消費は半端ではなく、その中には非合法的にシベリアの森林地帯から木材を切り出して、工業製品やエネルギーそのものとして使用している実例が示されていた。黄河では水量が年々減少しており、中国本土中央部から北東、北西部へかけての水不足、砂漠化の問題は、黄河流域の工場地帯からの汚染水公害問題と相まって、危機レベルに来ていることなど、その深刻さが述べられている。
 読み応えのあるテーマがここ彼処に登場するが、最大の焦点は、欲望にまかせて肥大化する中国経済が、もはやエネルギーを中心にそのほとんどを世界からの輸入に依存していることで、そのことへの対抗手段として、西欧やアジアの国々が保護主義になることだと予測している点だ。そして、モラル欠如から、世界が中国離れする事態に至りそうなことを警告している点であろう。
 経済視点の書籍はあまりなじみがないのだが、この書籍は必読だった。読み応え、150パーセントの五つ星というレベルか。

火曜日, 2月 20, 2007

塩野七生著 ルネサンス歴史絵巻3部作

塩野さんのオペラ(作品)には、真面目に取り組んで読まないといけない歴史解説書とのいうべきガッチリした学術書的な作品と、実際にあった歴史上の出来事を背景とした、いわゆる時代小説と呼べる作品とがある。前者の代表作は「ローマ人の物語」やヴェネツィア共和国盛衰史を描いた「海の都の物語」であろう。これらを読み下すには、多少気合いが必要である。しかし、後者の時代小説、それもエンターテイメント性を考慮された作品は、気軽に構えて、楽しみながら読んでいける。それも、その時代の核となる学術書タイプのガッチリ作品を読んだ後であるならば、さらに楽しさも倍増して、その時代の空気感にひたりながら楽しめるというものだ。3部作を先の週末、東京との行き来の車中、テレビ鑑賞を潰して、一気に読んだ。
 「緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件」「銀色のフィレンツェ メディチ家殺人事件」「黄金のローマ 法王庁殺人事件」の3部作は、実にエンターテイメントだ。ただし、フィレンツェから入り、ローマにぬけ、ヴェネツィアへ戻った。本当は、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマへと進むべきなのだが、主役たちの最後を知りつつ、最初に戻って読むのも、おつなものである。ヴェネツィア共和国盛衰史「海の都の物語 上下」「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡」「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」を読み下した後であるならば、その時代のイタリア人になったかの錯覚を持ちながら楽しめるように出来ている。
 私の場合、残念ながら「海の国の物語 上下」だけは、いまだ手をつけていなかった。これから勉強するつもりだ。

水曜日, 2月 14, 2007

塩野七生著「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡」塩野七生ルネサンス著作集第7巻

権謀術数の代名詞となっているマキアヴェッリ。そのまがまがしいイメージから、正直言って毛嫌いしていた。何も知らないのに、だ。読んでみて、イメージが一変した。なんと生真面目で、理想主義者で、でもどこか嫌らしいく、人間的。何より、政治の基本を人間の持つ正邪両面を見据えた上で国家運営を考えたり、そして国益重視の外交だったりと、政治の技術に薄っぺらい正義感や宗教的倫理観などを介入させないクールで冷徹な観察眼に引きつけられた。
 それにしても塩野さんは、真っ正面から対象に向かっている。この姿勢がビンビン読者に伝わり、権謀術数の人も、ただの「男」として丸裸にしてしまっているのには、痛快ですらある。喜劇の脚本まで書いていたとは。塩野さんはこのテーマをローマ人の物語を書き終えるのが見えてきた頃から取り組んでいるのだが、確かにカエサルやアウグストゥスなどの権勢を知った上だと、より理解しやすい。その意味でも、私もようやくルネサンスを勉強するための入り口に近づいたようだ。次は、塩野七生ルネサンス著作集の1巻、2巻へと進みたい。

日曜日, 2月 11, 2007

塩野七生著「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」

ローマ人の物語を15巻通読出来て、なにか長いトンネルをぬけたような気分となり、いよいよ、ルネサンス期を扱った作品を集中的に読破したいと思っている。フィレンチェには伽藍のスタッフ的な人材もおり、彼女への勉強ネタにと数冊を選び、アマゾンにて国際宅急便で手配したのだが、その中には自分も読んでみたいと思っていた作品も含まれており、改めて入手している。この1冊もそういう対象の書籍である。
 チェーザレを一晩かけて読み切ったが、中世を経たキリスト教社会というものが、いかに聖職者の世俗化が、あるいは腐敗が進んでいたかを思い知らされる。ローマ法王の息子という環境からイタリア統一を野望とした男の物語である。同時期を生きたレオナルド・ダ・ビンチやフィレンチェのマキアヴェッリとの交流もでてきており、大変興味深い歴史小説だった。
 しかし、最大の勉強どころは、巻末に掲載されている沢木耕太郎さんの解説である。彼は塩野さんのあるエッセイに吐露された真情を解析して、次のような観点を披露している。引用してみたい。
ーーー 興味深いのは、塩野七生がなぜこのような政治観をもつようになったのかということである。その点について、彼女は最近「サイレント・マジョリティ」という連載エッセイの中で、珍しく素直に自己を語っている。彼女はそこで、自らを昭和12年生まれの人間の一人として規定し、その世代的な特徴を<絶対的な何ものかを持っていない>ところに求めようとする。マルキシズムとも戦後民主主義ともある距離を置いて接せざるをえなかったその世代は、イデオロギーからの自由を手に入れ、同時にエモーショナルな行動に対する冷淡さを持つようになった、というのだ。(引用終わり)ーーーー
 ここで私が注目したのは、「国家の品格」の著者藤原正彦さんの主張の中にも、この戦後民主主義やマルキシズム史観に引きずられている日本のインテリの間違いを指摘しており、さらに、長江文明の研究者で今や文明論者でもある安田喜憲さんも同じようにマルキシズム史観に引きずられた文系学問の限界を指摘しているからである。
 戦後日本の思想をリードしてきた民主主義、マルキシズムに代表される社会主義というものが、確かに現在の70代、60代の知識人には濃厚に影響されていることは、大学などという閉鎖社会にいると、嫌と言うほど感じてしまう。中でも、「自由」とか、「民主主義」の弊害を強く感じる。そのようなことを沢木解説から、改めて感じている。そして、何故、塩野さんがイタリアから発信しようとしたかも、見えてくるというものだ。

木曜日, 2月 08, 2007

森三樹三郎著「老子・荘子」講談社学術文庫:その1

最近、三つの方向から、「これは老子を勉強せざるを得ないな」と自覚していた。そこで、遅きに逸しているかもしれないが、基本から始めようと考え、この書籍と格闘している。全部読み終わった訳ではない。今回は、「勉強せざるを得ない」という思いに至ったプロセスだけを書き記しておきたい。
 昨年秋から中国関係の書籍を集中的に読んでいる。特に、長江文明関連の書籍、中でも安田喜憲さんの文明論を読んでいると、稲作漁労の文明の生命観には命の循環思想があり、それは生命が本来的にもつ力を信じて、それに忠実に生きようとする発想が潜んでいると、繰り返し主張されている。そして、その思想は中国南部から発した道教や道家思想に色濃く投影されていると主張されている。事実、長江文明の末裔たちの国家だったであろうとする魏や越などで牛を生け贄として五穀豊穣を祈る祭りが記載されている荘子注釈書などがあり、老子が理想とした農耕社会とは、長江文明のそれだったのではないかという推論を披露している。無為自然は長江文明型の生命観なのでは、という仮説である。
 一方、中国人で日本で比較文化を研究している王敏さんは自書の中で、儒家思想というのは欧米のキリスト教や中近東アラブ社会のイスラム教に性格が似ており、なにより論理的で言葉での理解がしやすく、政治との相性が良く、そういう意味では極めて宗教的だと解説されており、なるほどと思った。
 さらに、我が師である大橋力先生の近著「音と文明」においても、古代中国にあっては、言葉に重きを置くのは考え物であり、そのことへのアンチテーゼを出している老子の思想には一定の理解を示されている。
 こうなっては、私としては老子を勉強せざるを得ないのである。しかも、山城組の重臣で某教育委員会の重鎮から、年頭にメールで「天命を知る」などというキーフレーズをぶつけられては溜まったものではない。私は、「天命??」、何それ? なのであるから。
 読み出してみると、確かに勉強になる。いかに自分が儒家思想の重しに苦しんでいたことも理解できるようになる。我が父母は孔子的だったのだ。そして、気に入った逸話も幾つか出てきた。中国では、「昼は儒家で過ごし、勤めから帰って夜は道家で過ごす」というのがあると聞き及び、これだったら実践出来そうかな? などと悦に入っているのだ。柔弱の発想とか、「たりるを知るものは富む」とか。しかし、老子は一気読みするものではないな!? 少しずつ、感じながら読み進もう。

日曜日, 2月 04, 2007

塩野七生著「ローマ人の物語 第15巻 ローマ世界の終焉」

ついに最終巻、大演壇を迎えた。ローマ帝国が東西に分かれ、キリスト教カトリックの東ローマ帝国から分かれて蛮族支配の西ローマ帝国が滅びてしまい、ローマ的なるものが消え去ってしまった。長い物語であったが、ついに終わったのか。
 塩野さんはこの巻の始めに、そして後書きで、この著作を始めた理由を述べている。それは、あまりにも単純な動機なのだが、ローマの盛衰を知りたい、だった。そして私も同じく、世界史を習ってはいるが、古代社会から、もっと厳密に言うと、西欧社会の歴史を知るためにも、ローマ時代は欠かせなく、それで勉強することになったのだ。この時代にこの著作に巡り会えたのは幸運としか言いようがない。
 多神教、多文化、多民族を受け入れていたローマが一神教のキリスト教を国教化せざるを得なかった理由、そして、市民権は既得権ではなく獲得するものとして、名実共に「血税」を払って共同体の一員になっていく能動的な国家感など、どれも近世の政治形態、国家のあり方に考えを及ぼすとき、参考になり思考の幅を広げてくれる知識と発想に溢れていた。
 それにしても、印象に残っているのは、なんと謀殺、暗殺、自死などが多いことか。人間のむき出しの感情が行き着く先は、「殺す」という行為だった。昨日まで敵であった国家を属州として受け入れ、分断するが同じ国家の一員として遇して、共生的に全体国家を形成していた半面、当のローマ中枢指導層では、まさに謀殺が日常化していたのだ。これには、驚きを通り越して、嫌悪感さえ覚えてしまう。あのカイサル(シーザー)でさえ、殺されたのだ。
 しかし、絶対君主制へ移行していく過程で、神権を授与された皇帝という、「神のみの元で」で統治を委託されたという形を取らざるを得なかったという事実は、実に面白い。何故なら、頂点にたつ人は、言ってみれば現代でも誰からも信任されることのないという意味では同じだからだ。日本の皇室問題を考えていくとき、万世一系という観点は、ひょっとすると世界史的にも唯一の発想軸かも知れず、その意味では、確かに尊い。神々との間に立ち、メディエーターとして永遠に存在し、軍務や政務は、人民の意向によって変わって行かざるを得ないあり方を選択しているというのは、本当に貴重なあり方なのだということが、初めて理解出来たように思う。

木曜日, 2月 01, 2007

塩野七生著「ローマ人の物語 第14巻 キリストの勝利」

ついに、キリスト教が名実共にローマ帝国の国教となった時代を活写している。もはや、おおらかな言論と行動の時代は去り、他宗教を受け入れず、古代からの神々を排斥していくキリスト教の本質がむき出しになった時代が、3世紀末のローマだったのである。書き進む塩野さんの情念も、ある種の諦観に至ったような雰囲気で書き進んでいる。
 一神教とは他宗教を受け入れない排他性で出来ている。このことをストレートに表現しており、この面では、胸のすく思いだ。そして、近現代にあっては、その排他性を最も具現化しているのが、イスラム教であるとも述べている。また、排他性が具現化するにあたって、その最たる行為が殉教であるとも言っている。
 しかし、ミラノの司教に転じたローマの元高級官僚アンブロシウスにデオドシウス帝が罪の許しを請う場面などでは、「もはや皇帝も一匹の羊になった」と言い切っている。あまりの直裁的な表現に唖然としながらも、書いている塩野さんとて、こんなローマなんか「うそ」であってほしいと願いながらの執筆ではなかったかと想像してしまう。だから、ローマ的な臭いを感じさせるユリアヌスや、皇帝への手紙を通して元老院に安置された勝利の女神像撤去を撤回して貰うために懇願したシンマクスを描くくだりが、妙に印象深く迫ってくるのだ。さて明日からは、最後の1巻「ローマ世界の終焉」を読み解いていこう。

火曜日, 1月 30, 2007

塩野七生著「ローマ人の物語12巻、13巻」

1年に1冊ずつ出版されてきた塩野さんの「ローマ人の物語」も昨年末に出版された15巻で完結した。この機会に、最終刊まで一気に読み込んでみたいと考え、先週末から12巻、昨晩からは13巻を通して読み終わった。明日には、アマゾンから14巻と最終巻が届く。
 私がこのシリーズに手を染め始めたのは、いまから4,5年前になる。大学のお休み期間中を利用して、休みごとに3,4巻づつ読み溜めてきた。その最大の理由は、もともと多神教国家だったローマ帝国が、なぜ、帝国末期にいたってキリスト教を擁護する側になったのか、その理由が知りたいからだ。そして、ローマ帝国の崩壊から15世紀のルネサンス革命までの約1000年の中世暗黒時代を迎える訳だが、その間、知識や文芸の中心が、言い換えるならば、キリスト教会のみがインテリジェンスの中心に座ってしまうのだが、どうしてそのような情報、知識の集中現象が起きてしまったのかという疑問なのである。
 以上の疑問は、私の出版文化論を構成する上でも大変重要なことである。出版文化を構成する場合、ルネサンス期に起こったグーテンベルグの印刷革命へ行き着く前に、どうしても中世について触れなくては成らず、そうなると、キリスト教会の情報センターとしての性格に触れざるを得ず、必然的に、その前の時代の治世から説き起こしていく必要に迫られるのだ。
 「ローマ人の物語13巻 最後の努力」を読み通して、第一の疑問、「なぜキリスト教を擁護する必要が出てきたのか」については、理解できたように思う。具体的には、混迷の3世紀を過ぎて、帝国に2名の皇帝、その後は4名の皇帝による共同統治時代を経て、コンスタンティヌス帝の時代になると、中世の絶対君主性に近い君主として存在するようになる。それまでの皇帝は、ローマ市民と元老院から信任を受けて、統治を委託された存在だったのである。ところが帝国があらゆる面で衰退し、北からの蛮族の侵入やオリエントのペルシャとの戦争などに忙殺されていく中で、皇帝はローマ防衛線(リメス)に張り付くようになり、どんどんローマの元老院との距離は遠くなっていく。その結果として、東西を2名の皇帝で守護していく体制や、4名の皇帝と副帝で統治していく体制となり、どんどんローマ的な価値観から離れて、絶対君主制へと近づいていくのだ。その最後に残ったのがコンスタンティヌスだったのである。
 コンスタンティヌスは、ローマ的ではなく、つまりローマ市民、元老院の信任を得て、つまりローマ的に言うのであれば、統治を委託されてではなく、自ら皇帝になった訳で、そうなると皇帝の信任をしてくれるもう一つ上の権威を必要としたようだ。そこで、キリスト教を擁護し、神の信任を受け、現世的な世界を統治するという体裁が必要となった。神から信任を与えられる戴冠式を挙行した最初の統治者となった。その後の王侯が、ことごとく、戴冠式を挙行するようになった原点だったのである。ローマの皇帝たちは、ローマの神々に祈ることはあっても、皇帝としての信任は、市民から、その代表たる元老院から受ければ、それで事足りたのだった。そして、帝都をローマではなく、コンスタンンティノポリス(現イスタンブール)ヘ建設し、キリスト教会は創っても、ローマのお神々をまつる神殿は一切建設しなかったのだ。
 しかし、世界の研究者たちの説を時折紹介しつつ塩野史観が書きつづられていくのだが、欧米の研究者の中にも、これほどまでにコンスタンティヌスがキリスト教を擁護しなかったならば、キリスト教が今日のように普及してはいなかったであろうとする認識が定着しているようだ。それほどまでに、コンスタンティヌスの行った改革は影響力を持っていたのだ。しかし、この施策の後、ローマは急激に衰退し、分裂し、暗黒の中世世界へと入っていくことになる。
 多民族を受け入れ、多宗教を受け入れ、市民権を既得権ではなく血税をあがなって獲得する獲得権としていたローマは、輝いていたように思う。太陽とともにあったように思う。自由で、多少奔放な雰囲気のあるローマが、コンスタンティヌスの登場で絶対君主制となり、輝きは、薄暗い教会に光るろうそくの炎のように、闇の中の存在になってしまうのだ。読み進みながら、だんだん寂しさが募ってきてしまった。

木曜日, 1月 25, 2007

梯久美子著「散るぞ悲しき」新潮社 


映画「硫黄島からの手紙」が今年度のアカデミー賞の監督賞、作品賞にノミネートされている。このブログでも取り上げたが、肝心の「硫黄島からの手紙」については、まだ何もコメントしてこなかった。観てはいるのだが。そこで、合わせて書いてみたい。
 日本の俳優たちが日本語で演技したハリウッド映画。監督はアカデミー賞作品賞、監督賞受賞監督のクリント・イーストウッド。当初、この硫黄島2部作品をどのように考えればよいのか、正直言って確信がなかった。しかし、日米両サイドから硫黄島の戦いを描こうとするアイディアには、何か時代的な大きな目論見があるのではないか、あるいは、時代が「何か」を求め、その結果としてこのようなムーブメントが出現したのではないかとの思いの元に注目していた。
 アメリカ側から描いた「親父たちの硫黄島」は、正直言って、あまり出来は良くないような印象があった。しかし、渡辺謙が栗林中将を演じた「硫黄島からの手紙」には何か感じるものがあり、その後の動向(アメリカでの反響など)をウォッチしながら考えていこうと思っていた。アカデミー賞にノミネートされるくらいだから、この映画の方がアメリカ側から描いた作品より、やはりインパクトがあったようだ。アカデミー賞の行方も楽しみだが、この映画を契機に、そしてこの映画に先行するように発行されていた栗林中将の戦いを書き下ろした梯久美子著「散るぞ悲しき」にも注目があつまり、かなり売れているようだと書評が伝えており、気に掛かる書籍として昨年の夏ぐらいから「詠んでみよう!」リストにブックされていた。
 昨晩、セミナー関連書籍を購入しようとして書店に立ち寄り、肝心のセミナー用書籍は見つからなかったのだが、ひょいと平積みにされた単行本をみると、この書籍が目に飛び込んだ。しかし、その場を離れ、文藝春秋を探しに行ったところ、こんどは文藝春秋の表紙に1行大きく印刷された「栗林中将 衝撃の最後」というタイトルが飛び込んできた。そこで、2冊まとめ買いしたことは言うまでもない。昨晩8時頃から読み出し、午前1時頃には両方とも読み終わっていた。深く感動し、しばし身じろぎもせず、その感銘にひたっていた。
 私は旧帝国陸軍の軍人たちについては、子供の頃から生理的に嫌いだった。精神主義的で、科学性がなく、何かというと天皇を持ち出し、その時代的な雰囲気がたまらなく嫌いだった。それに比べ、帝国海軍の方が、どちらかというと好きだった。科学性があり、時代を見詰めていた人材も多かったような印象があったからだ。日米開戦の端緒を開いた山本五十六大将はアメリカ駐在武官をしたくらいで、アメリカの国力を誰よりも知っていた。だから戦争を早期に講話へと持ち込まないといけないと考えていたことなど、当時海軍の方がグローバル・スタンダードだったのではないかと評価していたのだ。あるいは、「坂の上の雲」の秋山参謀の影響もあるかも知れない。彼もアメリカ駐在武官だった。
 今回、陸軍にもアメリカを本当に解っており、精神主義に走らない合理性と並外れた人間性に溢れる栗林中将のような人がいたことを、初めて知り、驚いている。特に、生来の職業軍人のイメージを大きく変更を迫る逸話の数々に、日本人の精神性の深さを知ることとなった。すでに多くの評論や書籍で著されているように、家族思いであったり、普通は職業軍人であれば使わない「悲しき」などという表現を使っていたりしていて、完全に帝国陸軍の軍人イメージを払拭するものだったのである。
 硫黄島から大本営に当てた最後の決別電報を、軍属として栗林中将に仕えた老いた貞岡信喜さんが誦じる場面から、この書き下ろしは始まっている。駄目だった。この部分からすでに涙が出てしまい、最後まで、なんども泣けてきて、しょうがなかった。アメリカの海兵隊を震撼させた軍人は、深い人間洞察に優れ、家族とのなにげない日常を心から愛した、心優しき日本人だった。この歳にして、またもや日本を再発見した思いに駆られている。

火曜日, 1月 23, 2007

王 敏(Wang Min)著「中国人の愛国心」PHP新書

昨年来、中国関係書籍を集中的に読破してきた。北京調査以降、中華文明を総合的に知る為に、まず陳舜臣さんの小説の中でも太平天国の乱以降の時代小説を集中的に読み込んだ。11月以降は、長江文明発見物語として、安田喜憲先生の書籍を読みこなし、さらに、中国から日本へ来て比較文化論を研究する社会科学系の学者の普及書を読み込んでいる。全ては、私が最も大事にしている出版文化論の勉強のためということもあるが、何故か、いまは中国に惹かれているのだ。
 日本の首相の靖国参拝問題から、中国では「愛国無罪」というプラカードを掲げた反日デモがあった。日本には先の侵略戦争にともなう人道的な責任があり、反日デモには常々過敏になっている半面、いつまで謝罪外交を続けなくてはならないのか、あるいは、自虐的な歴史認識をいつまでも持ち続けなくてはならない責任に、いささか、うんざりしている訳だ。しかし、その理由を突き詰めていくと、中国人のメンタリティや中国人が考える歴史というものに対する認識や彼らの思考回路について、我々日本人にはうかがい知ることの出来ない壁があることに気がつくはずだ。その壁され理解してしまえば、つまり理屈が解ってしまえば、ステップを踏めるというモノだ。そのようなステップを踏ませてくれる絶好の解説書である。
 例えば、中国人にとって国を愛するとはどういうことなのか。それがキーワード化された「愛国」とはどういう具体的な行動を指すのか。そのようなことをいままでどの日本人も正確には理解してこなかったように思う。この命題を、筆者は巧みな事例の引き方で、優しく解説している。四書五経の大学に出てくる「修身斉家治国平天下」から説き起こし、天意は民衆にあり、国家のために勉強することは即自分のためでもあるという中国古来の考え方を披露している。そして、その天意にそぐわない治世になった場合、ことごとく民衆は民意発揚のためデモや騒動を起こしてきた歴史を解説している。つまり、中国ではデモは日常茶飯事であり、それが中国全体の総意だと思いこむ愚かさを日本人に伝えようとしているのだ。天意に背く皇帝は、ことごとく民衆に追放されてきたとも解説している。
 私はこの書籍の一番すぐれている点であり、勉強になったところは、第5章の「中華文明vs西洋文明」である。近世に近付くに従って列強の干渉やキリスト教布教のための使節が中国に入り込む。これらの外来文化にどのように接してきたかを解説している。中華が世界で最もすぐれた文明であり、世界の中心であると自認していた中世から近世に至る過程で、外来文化に抵抗し、あるいは部分的に受容しながら近世へと向かうわけだが、そのプロセスが日本とはことなり、「抵抗と受容」という両極端な振れを持っていたことだ。日本のように、明治維新を境に、国学漢学から洋学へと一気に変更したわけだが、そのようにドラスティックに舵をとれなかった中国の姿を、歴史を追いながら解説している。この部分がとても説得力があり、とても勉強になる。
 太平天国の乱はキリスト教、すなわち外来文化を取り込んでの運動であり、次の義和団の乱は中国国産の文化に背を押された反乱でありといったように、外来を受け入れる側と中国古来の文化を守ろうとする側のせめぎ合いが、現在にまで続いている姿を、見事な解説で解き明かしており、この視点は中国史を見ていく場合の大きなよりどころになると確信した。今回は、素敵な学習となった。我がセミナーの中国人留学生に課題図書として渡さなくてはならない。彼女も大いに勉強になるはずだ。

日曜日, 1月 21, 2007

安田喜憲著・梅原猛/河合隼雄監修「大河文明の誕生」角川書店

昨年の11月頃から安田先生の書籍を集中的に読破してきた。いまでは文明論者として、さまざまな切り口を用意して西欧型文明論へ挑戦し、反省を求めている。例えば、中国原産の「龍」を軸とした展開や、縄文文明に代表される「森の文明」論や、非西欧社会ではいまだに生活に息づいているアニミズムの復権など、その論旨は自由奔放で、明解で、読んでいて快感さえ感ずるほどだ。
 この書籍は911同時多発テロの前年にあたる2000年に出版されている。日本のインテリジェンスを代表する二人の碩学の優が監修している。二人とも、国際日本文化研究センターの前所長、当時の所長という布陣だ。それだけに、この本の持つ価値は大きい。安田先生が環境考古学を提唱し始めたのは80年代の始め頃だった。湖沼の土壌に堆積した花粉などの化石の分布から、2万年前から現在までの気象変異を解析し、それも地球規模でその変異を解明し、いまから約5700年前の寒冷湿潤化が、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明を引き起こしていたこと明らかにした。寒冷湿潤化が、草原で遊牧していた民を大河流域で農耕する地域へと引き寄せ、交易や摩擦の末の支配によって、強力な支配権をもった都市へと変貌し、これが文明となったことを、実に解りやすく証明している。
 しかし、ここで問題になるのが、従来叫ばれていた四大文明のうちの黄河文明なのだ。黄河文明は、この5700年前の世界同時的文明化より約1000年遅れており、その意味が問われていた。その答えは、森の文明であり稲作と漁労によって生計を立てていた長江文明の発見によって、見事仮説は事実となる。さらにこの発見から、青森の三内丸山遺跡に代表される森の文明の同時性まで論を進めることを可能にしている。この書はそこまでの道程を、まるでミステリーを共に説き進むようなスリリングな展開で記述されており、一気に読み進むことが出来た。学術的内容を一般市民に普及する目的で書き上げられた書籍ではあるが、謎解きに夢中になる子供のように読んでしまった。最近、これほど知的興奮をした書籍が無かっただけに、読後の満足感は素晴らしいものがある。言い伝えとされる「ノアの箱船」の史実さえ、環境考古学的には実証されるのだ。実に面白い。
 私は出版文化論で、文字を使い出した四大文明を必ず取り上げている。しかし、これまでの講義では文字発明の項目へ進む前に、必ず無文字社会の存在を提起して、文字を持たなくとも社会や文化を継承し平和にくらしてきた諸民族の歴史があることを伝えてきた。文字というツール以外にもメディアは存在し、ある概念や空間認識をメディア化している事実を教えている。また、先史時代と歴史時代という対比で、自ら文字を使用して歴史を書き残してきた文明化された社会と、そうではない時代とを意識付けしてきた。このような解説手法に、もう一つの強力な論点を教えていただき、実は、嬉しくてならないのだ。やはり科学的なデータを示しての論議には説得力があるという点では、西欧由来のサイエンスは実に頼もしい。
 安田先生の環境考古学的発見は、即、地球史発見であり、その地球史に基づいて諸文明、地域の歴史を再検討すれば、新しい地球の歴史認識に辿り着けるだろうことは間違いない。まれにみる暖冬を喜ぶその先に見えている巨大な環境的試練を想像するとき、この書が提言する西欧的歴史認識からの脱却と新しい環境主義から導き出される人類の反省するべき課題が、待ったなしの緊迫感で迫ってくる。
 蛇足だが、安田先生の業績を勉強するなら、この書籍から始めるのが最も適切であるとの感想を持った。学生たちに勧めなくてはならない。

月曜日, 1月 15, 2007

安田喜憲著「龍の文明 太陽の文明」PHP新書

この本は、中華文明の象徴となっている龍の誕生から説き起こし、やがて寒冷化の気象変動の結果として龍をシンボルとした牧畜と畑作の文明(黄河文明)が、鳳凰と太陽をシンボルとする漁労と稲作の文明(長江文明)を衰亡させて中国の覇権主義、すなわち中華思想の核となってきたことを解説している。
 何よりの愁眉は、日本文明の危機を説いている第五章「東洋文明の復権」であろう。何故、日本の皇室は龍を受け入れず、菊を紋章としているのか。そして、過去にも覇権主義的な牧畜と畑作の文明による接触は有ったにもかかわらず、日本は長江文明の自然と一体となる発想をもった長江文明型の原理を採用してきたかが語られている部分である。その箇所を引用してみたい。
ー171pよりー 
 東アジアの稲作・漁労文明の中で変身した龍信仰は太陽や鳳凰とともに、
(1)自然への畏敬の念
(2)異なるものの共生と融合
(3)命あるものの再生と循環の世界観
(4)自然にやさしく生物多様性を維持
を現代にまで伝えている。この四つの稲作・漁労文明の世界観こそ二十一世紀の新たな東洋文明を構築するキーワードなのである。ー引用終わりー
 これに対して、牧畜・畑作の文明から生じているドラゴンは、覇権主義的で、環境をことごとく破壊し、人間の隷属化においてきた歴史を持っており、環境時代の世界がもっとも反省と修正を強いられている訳だが、これについても、見事なコンセプトを提示している。同じく、引用してみたい。
ー176-177pよりー
 このドラゴンを退治する世界観は、
(1)自然支配の世界観
(2)異なるものとの対決と不寛容
(3)直線的な週末の世界観
(4)森の徹底的な破壊と家畜以外の生物存在の拒否
 を現代にまで伝えている。この四つの世界観は、人間の幸せのみを考える人間中心主義を生み出して、はげしい自然破壊をもたらし、アニミズムに立脚した文明を邪悪な文明という名の下に歴史の闇の彼方に追放し、再生と循環を拒否する還元的な近代工業技術文明を構築した。ー引用終わりー
 そして最後に現在の中国との付き合い方について、国家レベル、民族レベルの話として、このままでは日本は中国の覇権主義的な文明に飲み込まれてしまい、それを嫌う民はボート・ピープルとなって太平洋に出て行かざるを得ないのではないかと愁いている。丁度、黄河文明に駆逐された長江文明を担っていた諸族が中国南方へ、台湾へ、あるいは、長江から離れた高地へと移住を余儀なくされたのと同じように、日本も中華覇権主義に犯されてしまうと危惧しているのだ。この部分、説得力があるだけに、戦慄を覚えてしまった。

日曜日, 1月 14, 2007

梅田望夫・平野啓一郎対談共著「ウェブ人間論」新潮新書

「ウェブ進化論」の著者と京都大学在学中に「日蝕」で芥川賞を受賞した若き小説家平野啓一郎との対談集である。「文系対理系の対決か」との先入観のもとに読み出したのだが、両者ともインターネットが社会にもたらしてきた価値の変容の様を、一様に肯定的に認めることろから対談は始まっていた。
 私は梅田さんの「ウェブ進化論」を読んで、グーグル、アマゾン、iPodのアップルをはじめとするウェブ2.0時代の代表格たちが進めているネットを介した社会改革のその先にあるビジョンに「神の領域」を設定していた点を、論説の不備、ビジョンの不徹底と感じていた。また、グーグルの情報へのアクセスを誰もがたやすく、情報の価値をネットのアクセス統計から順位を定めるアルゴリズムを開発し、その目指すところは、「世界政府」のような存在になることだと解説した点に、疑義を持っていた。
 今回の対談を読む限り、そのような言葉を使った結果として、リアル社会が誤解したかも知れないポイントを、平野さんの限りない執念のような問いかけで、梅田さんの真意、より実態に近い説明が成されたように感じた。
 両者とも大変な教養の持ち主である。しかし、現在の50代以上の世の権威筋が対談する内容より密度の濃い議論が交わされており、その点について、この世代は実によく勉強しているのだと驚いてしまった。日本では90年代初頭にバブルの崩壊があり、丁度その時期に大学生活を送っていた75年生まれの平野さんは、はてなやミクシーの社長たちと同じ歳で、ともに社会に対して大きな閉塞感を背負わされた世代だ。そのような閉塞感から、方や小説家、文学者として、独自に自己世界を解放していった平野さん。方や、30代始め頃、日本ではだめで、シリコンバレーから考えていこうとして、向こうに移住した上田さん。両者には、いまの世界をより良くしたいという志が見受けられ、ネットで稼ぐだけ、小説で稼ぐだけ、ではないことが解り、これは新鮮だった。
 最終的に、ネットの進化で、人間はどのように変容していくのかということが最大のテーマになっている。両者とも、ある種の変容が出てくるに違いないと確信してはいるが、その具体像については語り切れていない。模索中であるという、その実像が示されており、ビジョン追究の途中段階として読むべきだろう。
 来週の日曜日午後9時からNHKスペシャルで「グーグル特集」がある。学生たちに勧めなくてはならない。

土曜日, 1月 06, 2007

木全 賢著「デザインにひそむ<美しさ>の法則」ソフトバンク新書

工業デザイナーとして家電商品のデザインに関わってきた著者が、現代の工業デザインが意識している概念をやさしく解き明かした書である。黄金比率、白銀比率、3分割法など、デザイン的要素を考慮しなくてはならない領域で作業をする学生たちには是非読んで貰いたい書だ。とにかく、事例がシンプルで解りやすい。その「わかりやすさ」というユニバーサルな概念が、ときに地域性や民族的な風習によっても変わってくることなども少し触れられており、面白い。ただ、この書は深く知ろうと思う人々にとっては不満が残ることになろう。肝心の事例に不足しており、概念をおおざっぱに理解するには充分だが、さらに深く知ろうとするとするならば、最後に掲げられた参考図書へと進まなくてはならない。だから、あくまで、黄金比率とは何か、白銀比率とは何か、3分割法がクリエーター志望者の手始めに取り組むべきもっとも簡単なアプローチの出発点なのだということを教えてくれる、そのような動機付けとして、この書をライブラリーに入れておきたい。

日曜日, 12月 31, 2006

松本大洋原作アニメ映画「鉄コン筋クリート」〜マジ、ぶっ飛んだ!〜



この年末はアニメ・プロジェクトのため、アニメ関連のDVDや映画を観まくっている。28日の晩ははスタジオ・ジブリ作品「ラセターさん、ありがとう」を、29日の午後はアニメ映画「鉄コン筋クリート」を体験してきた。特に、「鉄コン筋クリート」には、ぶっ飛んだ!
鉄コン筋クリート・オフィシャル・サイトへのリンク
 しかし、日本のアニメも国際化したものだ。DVD「ラセターさん、ありがとう」は、「千と千尋」を北米大陸で公開するに当たって、現地でプロモーションに尽くしたピクサー社の重役で「トイ・ストーリー」や「ファインディング・ニモ」などの製作総指揮を執ったジョン・ラセターさんと北米大陸公開のためのプロモーションに現地入りした宮崎駿監督とのやりとりを記録したドキュメンタリーである。そして、ピクサー社内で宮崎作品が本当に愛されており、手本とされており、宮崎監督を偉大な手本、偉大なこの世界の導師として尊敬されている姿を描き出している。
 一方、「鉄コン筋クリート」は、鉄コンに魅せられたアメリカ人3Dクリエーターであるマイケル・アリアスが、執念のプロモーションの末に日本人協力者を結集してアニメ化したもので、その映像美、アニメの可能性を大きく拡大した映像技術など、プロモーション資料にもあるとおいり、「アニメ業界のマイルストーンとなる作品」だ。マスターは、正直言って、ぶっ飛んだ! 凄い!
 宝町に住むホームレスの二人少年、96(クロ)と46(シロ)が自分たちの棲息領域を侵そうとする暴力装置に立ち向かっていく話だが、シロやクロたちの頭の中ので浮かんでくるイメージやファンタジーが現実のストーリーのなかに挿入されてくる。その、現実からファンタジーの世界への切り替わりの映像が、今までにないタッチでグッとくるのである。その他にも、彼らの眼になって走っていくシーンなどはいままでにない表現であり、各所に新鮮なシーンが繰り広げられている。兎に角、アニメとしては、新鮮な映像美のてんこ盛りに、酔ってしまうくらいだ。マジ、すごい!
 確かに、宮崎作品の中でも、例えば、千と千尋のなかでも、ハクが抱えていた苦しみや矛盾、あるいは「ハウルの動く城」のハウルの抱えた業など、若者たちが都市化した社会のなかで抱え込んでいる苦悩、矛盾を解決できない苦悩などを、アニメの主役や脇役たちが、さまざまなアニメ的出来事を通してある種の解決を見つけていく訳だが、この「鉄コン筋クリート」の主役たちは、宮崎作品のヒーロー、ヒロインたちのように、綺麗で、上品で、優等生ではないのだが、実に、観る人たちをガァーーんと打ちのめす力を持っている。1993年というバブル崩壊のさなかにこの作品が世に出てきたというのも、興味をひかれる。今年の最後に、このようなすごい作品に出会えて、私は幸せである。

水曜日, 12月 27, 2006

クリント・イーストウッド監督作品「親父たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」2部作

クリント・イーストウッド監督作品「親父たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」2部作の意味することは何なのか? つい、このようなことを考えてしまう。というのも、日頃、ケーブルテレビでデスカバリーチャネルやヒストリーチャネルといったアメリカ教養系の番組を観ていると、明らかにアメリカの国際戦略に荷担した、さらに突っ込んで言ってしまえば、アメリカの一極支配をもくろむ上で、そのときどきに世界に向けて必要とされる洗脳情報を流していると私は認識している訳だが、この2部作もそのような系列下にあるのではないかと考えてしまうからだ。
 ケーブル系教養番組には、アメリカの対テロ戦争やアメリカ市民向けのプロパガンダ番組が相当数あり、それらの制作費は何らかの企業がスポンサーについていたり、あるいは国家予算がダイレクトについていたりするのではないかと疑ってしまいたくなる番組が相当ある。例えば、将来の戦争では、生身の人間が戦争をするのではなく、ロボットが戦い、生身の兵士たちはロボットたちを遙か後方から操作するだけで全く傷つかないのだとする未来物語が繰り返し放送されている。これは、イラク戦争などで厭戦気分になっているアメリカ国民への希望を創出しようとしているのではないかと疑うし、もう一方では、圧倒的な科学軍事力を誇示して、敵の戦意を挫こうとする目論見があるようにも思えるのだ。
 クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作は、戦争映画ではあるが、アメリカ側からの視点で創られた「親父たちの星条旗」は、国家の意思で「創られた英雄たち」のうそを背負わされた悲哀を通して、戦争の持つ非情さや馬鹿げた国会意志を訴えているし、「硫黄島からの手紙」ではアメリカ的合理主義を知っている栗林中将の硫黄島での戦いは持久戦をして戦を引き延ばすことが、本土決戦への時間的余裕をもたらすとの考え方で、自決や無謀な特攻をいさめている。この姿を通して、戦時の日本の精神主義に異議申し立てをしている。そして、それぞれ当時の世論とは逆の姿を描いている。
 ということは、クリント・イーストウッド監督は、アメリカの現在の政策には反対で、戦争の無意味さを描き出したかったのか? ミスティック・リバー、ミリオンダラー・ベィビーなどでアカデミー賞監督となったクリント・イーストウッド監督は、どの映画でも、表層ではなく深層に真実を見詰めようとする姿勢があり、気に掛かる監督になってきたものだ。しかし、どの映画も、アメリカのジレンマが感じられて、すっきりしないのだ。そのすっきりしないところが、いまのアメリカそのものを象徴してはいないだろうか?

劉 文兵(リィウ・ウェンビン)著「中国10億人の日本映画熱愛史」

セミナーに中国からの優秀な留学生が居るせいか、中国人研究者の日本での研究業績にただならぬ興味が沸いている。先に紹介した王 敏(ワン・ミン)さんやこの本の著者劉 文兵さんなど、実に多くの中国人研究者が日本を本拠として研究や文筆活動をしている。そして、実に素晴らしい文化論を展開しており、実はただならぬ危機感さえ抱くようになった。何故なら、日本人研究者で彼らのような比較文化論を展開している若手研究者がそれほど見あたらないからだ。
 この本では、文革後の中国の情報政策を横目で見ながら、日本映画の中でも「君よ憤怒の河を渉れ」「サンダカン八番娼館 望郷」「愛と死」などの名作が、文革後の後遺症にさいなまれる中国社会の民衆の鬱憤をはらす、言わばガス抜き作用として影響力をもっていたかが語られている。そして、文革後遺症を乗り越え、改革開放政策の中で、民衆の意識を前向きにし、民意にある種の方向性をもたせようとした中国指導部の情報政策との関わりや歴史を描き出している。その部分が、実に面白い。
 しかし、この著者の語り口は熱い。年少の頃、日本映画の内部上映会(党の中枢メンバーによる試写会)に潜り込もうとして、偽チケットまで創って見に行ったというのだから、その日本映画熱には脅かされる。そして、その日本で映画論を勉強し、このような書籍までも著すまでになったのだから、その意気込みと本人の夢たるや、猛烈なものを感じる。一冊の書籍の中に、まさに「熱」が籠もっているのだ。文化を語る学徒は、これくらい熱くなくちゃならないという、見本である。

日曜日, 12月 17, 2006

PERSON OF THE YEAR

TIMEマガジンが毎年年末に選ぶ「この年の人」に、「あなた」を選んだ。ウェブ2.0時代は、不特定多数総表現時代と言われており、みんなが投稿することで電子辞典を創ったり(ウキペディア)、ブログが個人的発信メディアとして全世界的に社会化していたり、YouTubeなどの動画投稿が大手メディアを浸食したりしてきたこの年の主役は、世界中の「あなた」だった。出版メディア論の受講生は現在全員ブログを展開している。学生たちを、タイムが選ぶ「あなた」の一人にすることが出来て、マスターは幸せである。

木曜日, 12月 14, 2006

安田喜憲編「龍の文明史」

国際日本文化研究センターの共同研究をまとめたものである。中国原産の「龍」は馬や鹿や豚などから体位各部位を借りた融合動物だった。その起源は、中国にあっては北方文化からのもので、超越的秩序を重視していた。一方、南方の長江文明に観られる太陽、鳥、蛇を奉る文化は、再生と循環のコスモロジーを象徴し、現世的秩序を重視する文明だった。
 このように、編者自らがイントロダクションで宣言しているように、龍がいかに歴史の中で、長江文明的な再生と循環の自然観や原生的秩序を重視する文明を追い詰め、北方的文明観を確立していったかを、8名の研究者と共に著した書籍である。
 私は、それらの中で、もう一つのダビンチ・コードともいうべき論文に大きな興味をいだいた。それは、モナリザのバックの背景が、中国山水画の二つの掛け軸で出来ており、レオナルド・ダビンチは中国の美術、特に当時ヨーロッパに流通し始めていた中国磁器に描かれた中国絵画をしきりに勉強していた現れだと説明した田中英道さんの論文である。また、ヨーロッパのドラゴンは翼を持っているが、中国の龍には翼が無いのに、ダビンチは自らのスケッチで、翼が無くて四つ足をもつドラゴンを描いていることなどを紹介している。
 そこで思った。ルネサンス期のヨーロッパの人々において、中国、あるいは、日本を含むアジアのイメージはどのようなものだったのか、ということである。ヨーロッパではドラゴンは、正邪の区別で言うと、邪の側であるのが常だが、龍は、悪さもすれば地球も助ける。正邪同居の存在だ。
 この書籍は堅い研究報告書ではあるが、龍を巡る歴史探索のイメージトレーニング書籍である。

土曜日, 12月 09, 2006

DVD宮部みゆき原作「BRAVE STORY」

宮崎アニメは全部制覇していても、他の作家の動画となると、大友克洋さんの「AKIRA」やアメリカのピクサー系、ディズニー系しかみたことがない。しかし、NHKBS2のデジスタなどで、新進気鋭のアニメや映像作品には接してきている。
 そんな私が学生たちのストーリーを「今風」にコーディネートするために、ここのところ、様々なアニメ作品をシリーズで勉強している。そうすると、どうしても嫌いなゲーム系のストーリーまでも勉強せざるを得なくなり、そこで触手はストップしていた。
 どうせ、このブレーブ・ストーリーもそういった系統なのかと思っていたが、作者が小説家で売れており、セミナー生(全員女性)に聞くと、大概知っているとの返答があるものだから、DVDを入手して確かめることにした。再生は、テレビじゃなくて、パソコン。
 なかなか面白かったが、現在の少年少女が抱く心の闇やトラウマなどの切っ掛けとなる設定が、例えば、両親の離婚や事件に巻き込まれての生き別れだったりするところが、生臭くって、正直言って、この部分だけは、「どうにか、ならないの?」という感想をもった。映像的には最新の技術を駆使しており、この面ではジブリ作品を超えているような気はするが、ストーリーそのものに深みがなく、もう少し重厚さがほしいと思ってしまう。もっとも、この夏に公開されたジブリ作品「ゲド戦記」よりは、格段にましだという評価ではあるが。☆3つで評価すると、1.5☆。
 などと、DVDを鑑賞するその横には、安田喜憲編「龍の文明」が置いてある。龍、ドラゴンは、ブレーブ・ストーリーにも出てきた。さてさて、数日後の読書感想文では、どのように書き連ねる感想をもつのだろう。いまから、自分で楽しい気持ちになっている。

火曜日, 12月 05, 2006

佐藤優・手嶋龍一共著「インテリジェンス 武器なき戦争」幻冬舎新書

日本を代表するスパイ(?)のお二人による、日本の情報戦略を点検するための対談である。インテリジェンスとは、外交局面における国益を考慮して、諸外国事情に精通し、一度事が起こりそうになれば国家の行動指針となる情報評価を政府中枢にもたらす役割を担う人々である。佐藤氏はムネオ騒動で係争中であり、服役から娑婆へ戻ったばかり、かたや手嶋氏は、掴んだ情報をNHKでは発表できなくなって民間人となり、人気小説「ウルトラ・ダラー」を著した人である。
 そんな二人の対談は、インテリジェンス・オフィサーらしい伏線を縦横に巡らしての対談だ。二人ともそうとう狸を決め込んで、そうすることがその世界の安全を確保する上での常識的なあり方なのだという信念のもとに、ときに読者には、その意図する事例がどこにあるのか解らないような、曖昧模糊とした表現が各所に観られる。
 しかし、私事になるが、このところ手を出す書籍、書籍から読めと命じてくる書籍に、運命のような符合が出てくる。何かに繋がるいくつかの符合が、必ずと言っていいほど出てくるのには、驚きを通り越して、気味が悪くなる。それは、この夏の北京での博物館調査のころから続いている。
 私の父はハルピン学院の出身で、卒業後は、日ロ友好協会が後ろ盾したある学校の校長だった。そのハルピン学院とは、当時の日本外交の筋からすると、ロシア関係のインテリジェンス・オフィサー養成学校だったという、明らかな認識が示されていたのだ。佐藤氏も外務省の中で、そのような経歴の先輩たちから、先の大戦の前後のハルピン学院出身外交官たちが、バルト3国やロシア方面で、さまざまな活躍をしていたことを伝え聞いている。そのもっとも有名な外交官が、「命のビザ」の杉原千畝であるが、佐藤氏によると、当時の外交官は、インテリジェンス・オフィサーの側面が大きく、彼もその手の存在だったというのである。
 今夏の中国行きには個人的にはある一つのイメージを確かめたい気持ちがあった。それは、かつて親父が学生時代の一夏を潰して、馬でハルピンから北京まで旅したという逸話の原風景を観てみたいという思いだった。今となっては、ただ単なる若者の冒険心からの旅行だったのか、それとももっと特定の意図があったのか、聞けないわけだが、親父が旅した原風景を、一度は直に観てみたいのだ。
 この書籍の対談を読み、特に最後に出てくるロシア・スクールの話を読み進みながら、かつて存命時に言っていたことを思い出している。「パルピンにはもう一度行けても、ロシアには行けないな。ロシアへ行けば、俺のことを探り出して、監視されるだろうからな・・・」。子供のわたしには、全く意味不明だったのだが、ハルピン学院の素性を知り、なんとなく納得できる心境となった。

月曜日, 12月 04, 2006

王 敏(ワン・ミン)著「日中2000年の不理解」朝日新書

安田文明史観によれば、日本の文明は縄文文明、すなわち、森、自然に深く依存し、その中で培われたアミニズムがベースにあるという。そのベースに長江文明から伝来した稲作漁労の文明が乗り、独特の文明となっていると説明している。確かに、大陸からの文化、宗教などが後に怒濤のごとく入り込むのだが、大陸で形成されたそれらの文化や習俗は、日本という土壌で変質し独自の文化になっているという観点も述べられている。
 では、中国側から現在の日本文明をどのように解釈しているのか? この疑問に見事回答をあたえてくれた書が、この「日中2000年の不理解」である。筆者は、長らく日本に滞在しながら、中国側から観た日本文明の特質を、動物たちへの接し方や短歌和歌に表れる自然認識の特徴や、日本人が好む漢詩の傾向とその漢詩が中国ではどのような評価と認識を持って考えられているかを比較する事によって、日本文明の特質をえぐり出している。世界的には、日本と中国は同文同種の兄弟文化とされている訳だが、似て非なる日本文化を、事例を上げて検証した、実に楽しい書籍だ。
 そして、著者は日本文明の特質は、「感性で受け止める美意識に彩られた自然融合感」が基層にあると試論している。この提言、キーワーディングに大変納得してしまった。

土曜日, 12月 02, 2006

「イビチャ・オシムの真実」 株式会社エンターブレイン刊

現サッカー日本代表監督の業績を本人や関係者からのインタビューで構成したバイオグラフィー的な一冊である。この原稿を書き出したこの瞬間、BSでは、ガンバVSレッズの事実上の優勝決定戦を放送し始めている。まさに、BGとしては最高の雰囲気の中で、読書感想文を書くこととする。
 オシムさんの生まれ育った街はサラエボである。幼少の頃は、「ふたつの鐘の音はひとつの鐘のそれより美しい。そして3つの鐘が一斉に鳴る時、それはまるでオーケストラのようだ。それこそ私が聞きたい音だ」と回想しているように、イスラム教徒、カトリック教徒、東方正教徒の割合がほぼ同じくらい存在した、まさにマルチカルチャーシティだった。それが80年代後半から90年代中頃にかけて紛争地帯となり、NATOの爆撃を受け、民族、宗教の違いを乗り越えていた共生の都市は、崩壊した。
 この最も激しい戦乱の時代、92年4月から94年秋までの約3年間、オシム夫妻と息子娘たちは、離ればなれの生活を余儀なくされる。オシムさんと次男はギリシャに、奥さんのアシマと娘のイルマは戦禍のサラエボにとどまったのである。このことがオシムさんにとって、「なぜ、あのときサラエボに居なかったのか」という一種の自責の念となっているらしい。そんな複雑な、そして悲酸な経験からくる人生感とは、そして日本の現状を、現代日本人を、どのようにオシムさんが考えているのか、興味津々で読んでみた。
 後半に、奥さんのアシマさんが当時サラエボでどのように過ごしていたかを語っている。その内容を読みながら、何故か、昨晩読んでいた藤原正彦著「この国のけじめ」の前半部分に掲載されていた日露戦争時のロシア兵捕虜の話を思い出していた。藤原さんは、日本人が惻隠の情を日露戦争時までは保持していたのだが、大正になり、太平洋戦争時へと時代が進むにつれて、この大事な日本人の美徳を失っていくことを説明する材料として話題にしている。いかにロシア兵たちが、日本国内の捕虜収容所で厚遇を受け、大事にされていたか、松山収容所でのエピソードを伝えている。
 県は「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮戦して敗れた心情を汲み取って、侮辱を与えるような行為は厳に慎め」と訓令をだし、捕虜たちを温泉に入れたり、地元の小学校の運動会に招待したり、終戦を待たずして亡くなった98名の捕虜には立派な墓をつくって、供養している。そこには、現在に至っても献花がたえないというのである。惻隠の情、慈悲の心が、戦時にあっても保たれていたのに、太平洋戦争後の日本は、アメリカの指導による民主主義と自由とを与えられ、日本人固有の美徳をすっかり放棄してしまったと、藤原さんは訴えているのだ。
 そんなエピソードや主張を思い出しながら、アシマさんのサラエボでの日常を読んでみた。いつ何時狙撃されるかも知れない中を、生活水を求めてさまよい、ご近所の知り合いは次々と亡くなっていく。そんな明日をも知れない中を、敢然とサラエボに居続けたのだ。そのうち、健忘症になり、知り合いの名前を次々と覚え出せなくなったと言う。極度のストレスに耐え、生き延びてきた。狙撃兵たちのお遊びとのいえるシューティング・ゲームに、神経はずたずたにされてしまい、残忍さなどという生やさしい表現では語り尽くせない地獄模様が繰り広げられていた。
 このようエピソードを読み進むうちに、一体私は92年頃から94年頃にかけて、世界のことをどのように認識していたかを自問せざるを得なくなった。思い出そうとすると、まず日本ではバブルが崩壊し、93年にはアメリカ・ワールド・カップ出場をかけたイラクとの予選での敗退があった。ドーハの悲劇として語り継がれている。Jリーグが開幕したのもあの頃だ。私は福井に戻り、一人取り残された親父の世話をするために、悪戦苦闘し始めていた頃だ。テレビではCNNを欠かさず観て、英語のヒアリング力を落とさないように努めていた。インターネットを仕事の手がかりにしようと、無理してIIJの東京のアクセス・ポイントへ、アナログ線でアクセスしていた頃だ。
 確かに、CNNではボスニア紛争の報道はあった。しかしながら、第一次イラク戦争のような、全世界が耳目を立てて注視するような機運にはなかったような気がする。NATO軍が空爆を開始したと聞いても、何か不可思議な感じで聞き流していた。まるで、別世界の出来事。そんな、無反応な精神状態だったことが思い出される。
 よく考えてみると、アルプスを挟んで、南側、西側には意識は行っても(ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、イギリスなど)、北側、東側には(ユーゴ、チェコ、ハンガリー、オーストリア、ルーマニア、ポーランド、ロシアなど)、意識を働かせる自分の土壌が無かったことが理解できる。全く、想像力の欠如もはなはだしい。
 そのサラエボ市の名誉副市長にオシムさんは就任している。オシムさんの役割は、サラエボに2010年の冬季オリンピックを誘致するためのプロモーターとしての役割を担っているらしい。ただし、就任するにあたって条件を設定したそうだ。誰からも政治的勧誘をうけないことというのが、その条件だったらしい。
 サラエボで、旧ユーゴスラビアの各地で、オシムさんは多民族、さまざまな宗教をもつ選手たちを束ね、クラブのゲームに、国家代表戦に、見事な実績を残している。サッカーという言語、サッカーという生活規範が、民族の壁、宗教の壁、ひいては文化や文明の壁をも乗り越えられることを体現した人物なのである。日本サッカー協会も、大変な人材を抱えた。それは決して否定的な意味ではなく、かつて戦国時代に日本にキリスト教を布教しにきたフランシスコ・ザビエルや、明治の田舎に先生として赴任してきたラフカディオ・ハーンのように、必ずや、現代日本人が気がつかない貴重な「何か」を残してくれそうなことだけは、確かに予感できるのである。オシム・ウォッチングを精力的につづけなくてはならない。
 

藤原正彦著「この国のけじめ」文藝春秋刊

「国家の品格」はすさまじい売り上げ部数を記録したらしい。日本国民の多くが、現在の政治に、国家のあり方に、そして日々日常生活で感じている「何か今の日本はおかしい。何かが狂ってきているのではないか」との疑念をいだいている人々に受け、ブームとなった訳だから、今の日本にも、日本の国家、民族としてのアイデンティティを危惧する人々がいかに多いかという査証になったわけだ。毎年選ばれる流行語大賞にも、「品格」という言葉が選ばれている。そのニュースが、先ほどの夕方のNHKニュースで流れた。
 その品格の書を著した著者のエッセイや書評など、短編の著述をまとめたのが、この「この国のけじめ」である。後書きにもあるように、これらの短編を書き進める中から「国家の品格」をまとめる構想も生まれてきたらしい。
 藤原さんは、お茶の水女子大の数学の教授である。その大学での話として、新入生が受ける少人数ゼミのことが書かれていた。読書ゼミの話である。もう8年も続いているらしい。しかも、毎年受講希望者が殺到して抽選だという。本書でも、そのゼミのシラバスに掲載した文章がそのまま載っているのだが、ここでも引用させてもらおう。なにせ、私自身がやってみたくなったためだ。この「やってみたくなった」には、両面がある。自分も大学で開講してみたい、がその一。もう一つは、自分も女子大生に混ざって、受講したい。しかし、受講できないから、その香りだけでも、心に留めたいのだ。
ーー115ページ後半から116ページにかけてーーー
 学生向けの開講科目便覧にはいつも次のように書く。「主に明治時代に書かれたものを読む。毎週1冊の文庫本を読み、それに関する感想、印象、批評を書き、授業時に提出する。授業時には、その本の内容について討議を行う。提出された文章は、添削され、コメントを付され、翌週の授業時に返却される。ゼミの目的は、読書に親しみ、作文能力を鍛え、論理的思考力を高めることである。受講条件は、文庫本を週1冊読むだけの根性、および文庫本を週一冊買うだけの財力」ーーー
 端的に書かれているが、実に味わい深い。戦後の民主的教育の名のもとでの教育界では、先の大戦へ向かっていった精神主義的な発想を教育現場のオリエンテーション資料に記述することを、どこかでためらう気風がある。だが「根性」などという、いまや時代的な表現を堂々としている。しかも、この文章を読むのは、女子大生ですぞ!
 さらに、文庫本一冊を買うだけの「財力」とあるではないか。大学での勉学には身銭を切って進めるものなのに、今の大学では、教材や書籍やパソコンは学校が用意するものとばかりに甘えた気風を毎日感じている私としては、そうだ、そうだ、本ぐらい自分で買わなくてどうする。バイトは遊び金を稼ぐため、バイトと学業の選択となると、バイトを優先する気風が強くなっている現状を愁いいていた私は、この身銭を切りなさいと突き放す態度に、いたく共感してしまった。
 さらにさらに、日本のエリート女性の中のそのまたエリートにならんとする才媛があつまるお茶大でも、例えば、新渡戸稲造の「武士道」をひぃひぃ言いながら、なかなか読みこなせなかったり、「名誉を守ることは生命より大切」との一文に、ほぼ全員が否定的な反応を示すという。アメリカ型自由主義に犯された彼女たちは不快感を露わにするというのだが、聡明な彼女たちであっても、市場経済主義の原理に翻弄され、歪んだ民主主義のレトリックの罠に掛かっている姿を報告している。もっとも、回を重ねるうちに、日本的なるものの輪郭を朧気ながらも理解するようになり、大学時代でもっとも印象に残る大学生活導入講座となっているらしい。
 という訳で、私は自分のセミナーの学生(2,3年生5名、うち一名は中国からの留学生)に、安田喜憲さんの「一神教の闇」をこの冬季の課題書籍としてプレゼントし、読書感想文を書かせる。先日、一足早いクリスマス・プレゼントとして渡したばかりであるだが、残念ながら「買って、読んで、レポートを書いてこい」とは言えなかった。情けない。

金曜日, 12月 01, 2006

着付けコンテスト団体優勝 優秀留学生の学長賞

3年生4名の女性陣は部活に、ボランティアに、そして留学生生活にと、学業だけでなく頑張っている。YUKAは着付け部で県コンテストに女子留学生と一緒に出場し、団体優勝。来年の全国大会に出場が決まり、NHKホールの大舞台を踏む。中国からの留学生のマは、学業優秀、留学生新聞のとりまとめ役として活躍し、晴れて学長賞。金一封を授与された。バイト生活の彼女にとって、さぞかし心強かったことだろう。他の二名もそれぞれ学業も、個人的活動もバリバリやっており、頼もしい限り。だからこそ、プロジェクトを上手く、ロス無く、進めてやりたいのだ。メモリー装着に必要な、00番プラスドライバーをネットで入手。アップル・サポートでメモリー装着の疑問点を解消。コラボ・サーバーにファイルのアップ、数点あり。すべて、深夜から早朝にかけての時間帯が記録されている。
 午後、スノータイヤの脱着のため、ディラーへ。営業さんが、我がスノータイヤのボルトを紛失したようだ。あぁ〜〜!

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...