「バベル」を観て、改めてイニャリトゥ監督作品を勉強しなくてはならないと決意。アマゾンで中古DVDを入手し、連続して鑑賞した。
「アモーレス・ペロス」のDVDジャケットのキャッチに、「メキシコ映画界のクエンティン・タランティーノ」とある。「バベル」の成功で、この称号は外されるに違いない。いや、「21g」の成功で、すでにタランティーノを超えていたと思う。エンターティメント性の強いタランティーノとは明らかに違う方向性を持った監督だからだ。「バベル」を含む3作に共通していることは、社会の中の平均値に添って生きていくことが難しくなった人々から表出してくる生地の人間性を、大切に、美しく、詩的に扱おうとしている点だ。
そのために、そのような極地に追い詰められた人々に、詩的なモチーフを背負わせて、そのモチーフの重なりを叙情的センスで丹念に編集し、時にはストーリーの時間軸さえ前後させてしまいながら、独特の映像空間を構築している。観客は、当初とまどい、疑い、自問し始め、そして、だんだんイニャリトゥ・ワールドへ引きずり込まれ、最後には、半分は謎解きが出来て、半分は不可解な感情や理性にさいなまれるという、まことに不思議な映像体験にさらされるのだ。決して不快ではない。だが、重い、息苦しい。このような、社会派、あるいは新感覚主義ともいえる手法で、重いテーマを持つ映画が、ハリウッドを頂点とするアメリカ映画産業界で受け入れられていること自体が、私には驚きなのだ。
際だったモチーフとは、例えば、何らかの理由から平和な家庭生活を放棄し、ホームレスのような生活をしながら沢山の犬たちとの共同生活をする男。ところが、彼の唯一の収入源は請負殺人。あるいは、兄嫁に真剣に恋して、駆け落ちしたいがために兄を敵に売ってしまう弟。心臓疾患を持ち、移植でしか生き延びられなくなった男。しかし一端移植が成功すると、提供者の死について考えだし、心臓提供者の事故死によって残された妻と、関係を持ってしまう。また、死んだ夫の心臓を移植された男にしか心が開かなくなった女。母を自殺で亡くし、父親と二人で暮らす聾唖者の娘。性に訴えてでも、自分の抱えた孤独や社会の偏見からくる怒りを解消しようとする少女。どれも極端な設定なのだが、生地の人間性を、これでもかと言わんばかりにえぐり出すドラマ性。その手腕は、むしろ、心理描写に長けた小説家か、詩人のようである。
このように考えてくると、イニャリトゥ監督にとって映画とは、まさに「詩」なのではないだろうか。言葉で綴られる小説や詩は、行間を読者の自由な想像力に委ねることを前提としている。それでは不十分だと言わんばかりに、映像での表現を追究する。この人は、映像こそが、混迷したイメージ世界に秩序を与え、あるいは、対抗出来る唯一の表現方法、メッセージ力なのだと確信しているに違いない。
「アモーレス・ペロス」のDVDジャケットのキャッチに、「メキシコ映画界のクエンティン・タランティーノ」とある。「バベル」の成功で、この称号は外されるに違いない。いや、「21g」の成功で、すでにタランティーノを超えていたと思う。エンターティメント性の強いタランティーノとは明らかに違う方向性を持った監督だからだ。「バベル」を含む3作に共通していることは、社会の中の平均値に添って生きていくことが難しくなった人々から表出してくる生地の人間性を、大切に、美しく、詩的に扱おうとしている点だ。
そのために、そのような極地に追い詰められた人々に、詩的なモチーフを背負わせて、そのモチーフの重なりを叙情的センスで丹念に編集し、時にはストーリーの時間軸さえ前後させてしまいながら、独特の映像空間を構築している。観客は、当初とまどい、疑い、自問し始め、そして、だんだんイニャリトゥ・ワールドへ引きずり込まれ、最後には、半分は謎解きが出来て、半分は不可解な感情や理性にさいなまれるという、まことに不思議な映像体験にさらされるのだ。決して不快ではない。だが、重い、息苦しい。このような、社会派、あるいは新感覚主義ともいえる手法で、重いテーマを持つ映画が、ハリウッドを頂点とするアメリカ映画産業界で受け入れられていること自体が、私には驚きなのだ。
際だったモチーフとは、例えば、何らかの理由から平和な家庭生活を放棄し、ホームレスのような生活をしながら沢山の犬たちとの共同生活をする男。ところが、彼の唯一の収入源は請負殺人。あるいは、兄嫁に真剣に恋して、駆け落ちしたいがために兄を敵に売ってしまう弟。心臓疾患を持ち、移植でしか生き延びられなくなった男。しかし一端移植が成功すると、提供者の死について考えだし、心臓提供者の事故死によって残された妻と、関係を持ってしまう。また、死んだ夫の心臓を移植された男にしか心が開かなくなった女。母を自殺で亡くし、父親と二人で暮らす聾唖者の娘。性に訴えてでも、自分の抱えた孤独や社会の偏見からくる怒りを解消しようとする少女。どれも極端な設定なのだが、生地の人間性を、これでもかと言わんばかりにえぐり出すドラマ性。その手腕は、むしろ、心理描写に長けた小説家か、詩人のようである。
このように考えてくると、イニャリトゥ監督にとって映画とは、まさに「詩」なのではないだろうか。言葉で綴られる小説や詩は、行間を読者の自由な想像力に委ねることを前提としている。それでは不十分だと言わんばかりに、映像での表現を追究する。この人は、映像こそが、混迷したイメージ世界に秩序を与え、あるいは、対抗出来る唯一の表現方法、メッセージ力なのだと確信しているに違いない。
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