日曜日, 5月 27, 2007

「イムジン河」井筒和幸監督作品「パッチギ Love & Peace」クァク・ジェヨン監督作品「ラブストーリー」

今年の4月からNHK BS2では、原語(朝鮮語)による「チャングム」の再放送が流れている。金曜日午後8時頃から始まるこの再放送を、なんと私は、またもや、はまってしまって、見ている。確かに朝鮮語による映像には、日本語に吹き替えにはない迫力があり、語感に潜む別の情緒世界を味わえる。あの意地悪で、上昇志向の強いチェサングンさんの声が、やけに可愛かったりして、思わぬ魅力を発見できる再放送は、面白い。NHKだけで3回も再放送になったドラマなど、過去にあったであろうか?
 私は昭和26年生まれのラジオ世代だ。小学校6年の時、父親が早朝のNHK英会話の放送を聞かせるために買ってくれたトランジスターラジオから、ラジオとの付き合いが始まった。中学になる頃には、湯川礼子さんがDJを勤める番組でビートルズを知り、地球の裏側の流行を想像していた。高校受験時には、すっかり深夜放送族になっていた。ジェットストリームの始まりを心待ちして、深夜飛行に憧れていたものだ。
 深夜放送を聞く習慣は、高校生になるとさらに日常化した。そして、高校1年生のある頃、私が始めて音楽を強く認識したある曲が流れたのだ。3人組のフォーククルセーダーズが唄う「イムジン河」。こんなに胸を締め付けられるような旋律がこの世にあるのかと驚き、マジで、凄い発見をしたような気になり、毎晩この曲がかからないかと期待する日々が始まった。しかし、数回放送された頃には、「これからは放送出来なくなりました」という事態になり、曲の背景にある朝鮮半島を巡る複雑な政治情勢があることを知り、こんなことで放送が禁止になるなんて「おかしい」という思いに駆られたものだ。これが私の初めての政治意識に萌芽だったのかもしれない。
 私には、その後のフォーククルセーダーズの曲、例えば、「帰って来たヨッパライ」や「悲しくてやりきれない」、「青年は荒野を目指す」など、名曲がたくさんあるのだが、今も「イムジン河」だけは、別格の存在として、心に響いている。昭和42,3年頃から、東大紛争があった昭和44,5年頃にかけてのサブカルチュア・ムーブメントは、この「イムジン河」に象徴されているように思うのだ。今から、約30数年前の話である。
 この曲をフュチャーした映画が2005年に公開された井筒和幸監督作品「パッチギ!」である。この5月にはシリーズとも言える「パッチギ Love & Peace」が劇場公開されている。数日前、テレビ放映された第1作目「パッチギ!」をみて、引っかかった。全編にわたって「イムジン河」がテーマミュージックのように扱われていたからだ。そこで、現在公開されいる「パッチギ Love & Peace」も見てみたくなって、昨晩、レイトショーに行ってみた。観客は、私を含めて4人。折からの「パイレーツ・オブ・カリビアンⅢ」には長蛇の列ができているというのに。
 見終わって、変な違和感に襲われた。それは、日韓に横たわるひずみそのもののように感じられた。在日の方々には申し訳ないが、無理して理解しよう、時代背景やエピソードを無理して日韓に横たわる問題にすり寄せようとし過ぎなのだ。ジメジメとした感傷が残ってしまい、爽やかになれなかった。第1作目の方が、はるかにストレートで、青春映画として成功していると思えてならない。その感情は帰宅しても消えず、口直しが必要になった。それも、ペヤングの焼きそばでは駄目なのだ。結局、口直しは、クァク・ジェヨン監督作品「ラブストーリー」となった。千五百円のレイトショーは何だったのだろう......。

日曜日, 5月 13, 2007

筒井康隆原作・今敏監督アニメ作品「Paprika(パプリカ)」

筒井康隆さんの小説が立て続けにアニメ化されている。「時をかける少女」と「Paprika」だ。どちらも話題作。世界の映画祭に招待上映され、評価が高まっている。なかでも私は、「Paprika」に期待している。監督は今敏さん。アニメ「千年女優」の監督さんだ。
 実は、「Paprika」に注目しだしたのは、その「千年女優」を観たからだ。アニメを見続けると、アニメ的ビジュアルの飛躍した表現に、ときどきうっとうしさを感じる局面があり、実写の映画を観ているときとは違った鑑賞のためのスタンスを無意識に取っている場合が多い。しかし、4ヶ月ほど前、DVDを手に入れて「千年女優」を観て、そういったうっとうしさを全く感じさせない展開に気がつき、今監督を注目するようになった。その監督の最新作として注目していたのだ。
 もう少し説明すると、アニメなのに、実写フィルムを観ているような感覚で観ることが出来るアニメを創っているのが今作品なのではないかと、勝手に仮説している訳だ。
 そして、つい最近、アップル・コンピューターのサイトにあるムービー・トレーラーでHDサイズの予告編を観て、ハマってしまった。しかし、短期間の劇場公開を逃してしまうと言う、誠に残念な出来事があり、DVDが発売されるのを待ち続ける日々だったのである。それが、5月23日に通常版だけでなく、HDバージョン(UMD版・Blu-ray版)も発売されるとの、アマゾンからのお知らせが届いたのである。即、予約した。一刻も早くアニメ・プロのメンバーに勉強させなくてはならない。
 大学では、月曜日の3限目に出版文化論を担当しているが、近年はすっかりパワーポイントのお世話になっており、授業開始前の昼休みにセットアップすることが日常化している。だいたい15分前にはセットを完了するのだが、テストのために、iTunesのデモ音源をPAしてみたり、QuickTimeのMovieTrailersを再生したりしている。そして、この「Paprika」を再生したときは、面白い反応が届いた。授業の終わりに女子学生2人組が私の所に来て、授業の質問かと思いきや、「あのアニメ、どういうアニメなんですか? どこへいけば観れるんですか?」と尋ねてきた。たった2分あまりの予告編で、こんな反応は今までにないこと。後日、その質問にきた学生が食堂で私を見つけ、「先生、悔し! 東京まで行かないと、見れない!」。いやはや、衝撃度は、マジすごかった。
>>>Paprika オフィシャル・サイトへはこちらから>>>

土曜日, 5月 05, 2007

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作品「アモーレス・ペロス」「21g」

「バベル」を観て、改めてイニャリトゥ監督作品を勉強しなくてはならないと決意。アマゾンで中古DVDを入手し、連続して鑑賞した。
 「アモーレス・ペロス」のDVDジャケットのキャッチに、「メキシコ映画界のクエンティン・タランティーノ」とある。「バベル」の成功で、この称号は外されるに違いない。いや、「21g」の成功で、すでにタランティーノを超えていたと思う。エンターティメント性の強いタランティーノとは明らかに違う方向性を持った監督だからだ。「バベル」を含む3作に共通していることは、社会の中の平均値に添って生きていくことが難しくなった人々から表出してくる生地の人間性を、大切に、美しく、詩的に扱おうとしている点だ。
 そのために、そのような極地に追い詰められた人々に、詩的なモチーフを背負わせて、そのモチーフの重なりを叙情的センスで丹念に編集し、時にはストーリーの時間軸さえ前後させてしまいながら、独特の映像空間を構築している。観客は、当初とまどい、疑い、自問し始め、そして、だんだんイニャリトゥ・ワールドへ引きずり込まれ、最後には、半分は謎解きが出来て、半分は不可解な感情や理性にさいなまれるという、まことに不思議な映像体験にさらされるのだ。決して不快ではない。だが、重い、息苦しい。このような、社会派、あるいは新感覚主義ともいえる手法で、重いテーマを持つ映画が、ハリウッドを頂点とするアメリカ映画産業界で受け入れられていること自体が、私には驚きなのだ。
 際だったモチーフとは、例えば、何らかの理由から平和な家庭生活を放棄し、ホームレスのような生活をしながら沢山の犬たちとの共同生活をする男。ところが、彼の唯一の収入源は請負殺人。あるいは、兄嫁に真剣に恋して、駆け落ちしたいがために兄を敵に売ってしまう弟。心臓疾患を持ち、移植でしか生き延びられなくなった男。しかし一端移植が成功すると、提供者の死について考えだし、心臓提供者の事故死によって残された妻と、関係を持ってしまう。また、死んだ夫の心臓を移植された男にしか心が開かなくなった女。母を自殺で亡くし、父親と二人で暮らす聾唖者の娘。性に訴えてでも、自分の抱えた孤独や社会の偏見からくる怒りを解消しようとする少女。どれも極端な設定なのだが、生地の人間性を、これでもかと言わんばかりにえぐり出すドラマ性。その手腕は、むしろ、心理描写に長けた小説家か、詩人のようである。
 このように考えてくると、イニャリトゥ監督にとって映画とは、まさに「詩」なのではないだろうか。言葉で綴られる小説や詩は、行間を読者の自由な想像力に委ねることを前提としている。それでは不十分だと言わんばかりに、映像での表現を追究する。この人は、映像こそが、混迷したイメージ世界に秩序を与え、あるいは、対抗出来る唯一の表現方法、メッセージ力なのだと確信しているに違いない。

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...