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水曜日, 2月 27, 2008

エリザベス ゴールデン・エイジ

2日前の月曜日、コロナワールドという福井のシネマコンプレックスでは、月曜は男性客半額サービスをしているというので、約半年ぶりにシネマを観た。観た映画は、シェカール・カプール監督作品「エリザベス:ゴールデン・エイジ」である。1998年に発表した「エリザベス」の次作である。エリザベス役は「バベル」でも素晴らしい演技を見せていたケイト・ブランシェットである。
 前作では、レスター伯ロバート・ダドリー、エセックス伯ロバート・デヴァルー(レスター伯とエセックス伯は義理の親子)たちとの愛人関係を清算しつつ、真のキングすなわち統治者としての自覚を持つに至る過程を描いていたが、今回はアマルダ開戦において、スペインの無敵艦隊を海賊上がりのドレーク提督たちが打ち破った頃に焦点が当てられており、ウォルター・ローリー卿(当時の愛人と言われている。彼はアメリカに女王を記念する土地を名付けている。バージニアがそれだ。処女王の威光を新大陸に知らしめようとしたらしい)やバチカンやスペインの意向を受けた暗殺者たちとの暗闘の結末を描いている。
 歴史的なことはさておき、前作の時も思ったのだが、イギリスの中世歴史を全く文化文明的素養に異なった環境下で育っているインド人監督がこの映画を成功に導いていることだ。しかも、これは推測だが、イギリス人やヨーロッパ人たちが観ても異論を口挟まないだけのヨーロッパ的水準で演出しきっている。これを日本の土壌にあてはめて想像してみると面白い。インドネシアから出てきた映画監督が、日本の戦国時代の時代劇を創ったとしよう。想像だけだが、こりゃ、無理だと思ってしまう。しかし、カプール監督は見事に、この文化文明のバリアを払いのけて、作品をモノにしている。
 確かに、日本人でも、イタリアで著名な企業の本社ビルの建設デザインを成功させたり、フェラーリをはじめとするプロトタイプ・マシーンのデザイン・チーフとして成功した人など、異文化異文明圏で業績をあげている方々は多々あるが、映画という非常に娯楽性が高く、観客すべて批評家といっても過言ではない領域では、何故か、日本人監督ハリウッドを制覇! とは、行かない。勿論、日本が得意とするアニメでは成功例はあるが、実写のシネマとなると、なかなか難しく、今後もこのような事例が日本人からでてくるとは思えないのだ。そして、私は、何故出てきそうにないのか、その理由を考えているのだが、なかなか答えがみつからない。
 などという感想を持った。娯楽作品としては、いま一つだが、前作と合わせて中世、それもシェークスピアが出てきた頃のイギリスの歴史を勉強するにはうってつけの映画と言える。

土曜日, 6月 09, 2007

山田洋次監督作品・藤沢周平原作3部作「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」「武士の一分」

世は藤沢周平流行(ばやり)である。NHK BSHiでは、各界の名士が藤沢作品との出会いと付き合い方を15分のドキュメンタリータッチで、ご本人の朗読付きで紹介する小番組を放送している程だから、その裾野の広さは相当大きいに違いない。このような思いに駆られて、昨年年末頃から作品を読みたい気持ちが募っていた。しかし、他の領域の書籍を、大学の授業準備、研究課題との摺り合わせながら読んでいたので、なかなか愉しむ機会が無く、半年が過ぎようとしている。
 そこで先週から、原典読書はさておいて、山田洋次監督3部作を一気に体験するDVDツアーを行った。まず、昨年公開され、木村拓哉が主演を演じたことでも話題となった「武士の一分」から始めた。続いて、真田広之主演の「たそがれ清兵衛」、永瀬正敏主演の「隠し剣鬼の爪」を連続鑑賞。どの話にも似たような共通性があることを発見し、「そうなのか、なるほど、なるほど」という感じである。
 どの話も、下級武士が主人公となっている。そして、赤貧の生活を慎ましやかに、精々として励みながら生きている。ところが一端藩に事件が起きると、この者たちは、翻弄され、愚弄され、生きるか死ぬかの窮地に立たされるのだ。ある主人公は藩命にさからったかつての盟友を成敗するお役を申しつけられ、ある者は藩の役として毒味をしていたことから失明し、生活は困窮し、そのために妻を不貞へと走らせてしまう。あるいは、心優しい性格から身分の違うかつての奉公人を嫁ぎ先から連れ出してしまい、世間から白い目で見られてしまう。それぞれ、人としての最も大切すべき誠意、慈愛、慈悲の心に溢れた主人公たちが、自分に降りかかった不条理を、それぞれの努力と勇気で乗り越えていくのだ。
 その姿が感動を呼ぶ。主人公たちは、決してヒーローではない。池波正太郎作品に出てくる鬼平のような英雄譚ではないところに、多くの人々が共感を覚えるのである。それは、「勝ち組、負け組」といった不条理な二分法がまかり通っている「今」だからこそ、輝きをもって受け入れられる素地を、私たちに示してくれるのだ。
 さて、助演陣、特に女優の存在にも触れてみたいのだが、山田洋次監督3部作の初期2作品には、宮沢りえ(たそがれ清兵衛)、松たか子(隠し剣鬼の爪)という名の売れた女優を配しいている。ご両人とも、水準以上の演技を披露しているとは思うのだが、私は、木村拓哉の相手役を務めた、檀れい(武士の一分)に注目した。この女優にはいままでの女優にない、極めて特異な華がありそうだ。私は彼女の次回作に注目したいと思う。彼女には、相当に大きな、スケール感の大きな役者としての潜在力を感じている。
 雨の夜長、雪の降る寒々しい夜、これらの作品を再度愉しむことにしょう。心を浄化してくれる、そんな世界が期待できるから。さて、小松菜の煮物でも創ろう。

日曜日, 6月 03, 2007

井筒和幸監督作品「ゲロッパ」「パッチギ」

パッチギ関連で、井筒監督の代表作を2点、この週末鑑賞した。ゲロッパは、エンターテイメント映画として成功しており、パッチギ第1作も、先に紹介したとおり、優れた青春映画となっている。若手のタレント陣のなかには、今後のムービースターとして伸びて行くであろう事を予感させてくれる人材もいる。その若手を井筒学校で鍛え抜いている姿にも好感をもつ。
 しかし、何かが足りない気がするのだ。突き抜ける「何か」が。シネカノン・プロデュース作品としては、その突き抜ける「何か」を見事やり抜いているのが、今年の日本映画の祭典で数々の賞をを受賞している「フラガール」だ。この映画の最後に出てくる蒼井優のソロでのダンス・シーンは圧巻であり、観客は充分にカタルシスを楽しめて解放されるだけのインパクトがあるのだが、「ゲロッパ」「パッチギ」には、そこまでのパワーがないように感じている。

日曜日, 5月 27, 2007

「イムジン河」井筒和幸監督作品「パッチギ Love & Peace」クァク・ジェヨン監督作品「ラブストーリー」

今年の4月からNHK BS2では、原語(朝鮮語)による「チャングム」の再放送が流れている。金曜日午後8時頃から始まるこの再放送を、なんと私は、またもや、はまってしまって、見ている。確かに朝鮮語による映像には、日本語に吹き替えにはない迫力があり、語感に潜む別の情緒世界を味わえる。あの意地悪で、上昇志向の強いチェサングンさんの声が、やけに可愛かったりして、思わぬ魅力を発見できる再放送は、面白い。NHKだけで3回も再放送になったドラマなど、過去にあったであろうか?
 私は昭和26年生まれのラジオ世代だ。小学校6年の時、父親が早朝のNHK英会話の放送を聞かせるために買ってくれたトランジスターラジオから、ラジオとの付き合いが始まった。中学になる頃には、湯川礼子さんがDJを勤める番組でビートルズを知り、地球の裏側の流行を想像していた。高校受験時には、すっかり深夜放送族になっていた。ジェットストリームの始まりを心待ちして、深夜飛行に憧れていたものだ。
 深夜放送を聞く習慣は、高校生になるとさらに日常化した。そして、高校1年生のある頃、私が始めて音楽を強く認識したある曲が流れたのだ。3人組のフォーククルセーダーズが唄う「イムジン河」。こんなに胸を締め付けられるような旋律がこの世にあるのかと驚き、マジで、凄い発見をしたような気になり、毎晩この曲がかからないかと期待する日々が始まった。しかし、数回放送された頃には、「これからは放送出来なくなりました」という事態になり、曲の背景にある朝鮮半島を巡る複雑な政治情勢があることを知り、こんなことで放送が禁止になるなんて「おかしい」という思いに駆られたものだ。これが私の初めての政治意識に萌芽だったのかもしれない。
 私には、その後のフォーククルセーダーズの曲、例えば、「帰って来たヨッパライ」や「悲しくてやりきれない」、「青年は荒野を目指す」など、名曲がたくさんあるのだが、今も「イムジン河」だけは、別格の存在として、心に響いている。昭和42,3年頃から、東大紛争があった昭和44,5年頃にかけてのサブカルチュア・ムーブメントは、この「イムジン河」に象徴されているように思うのだ。今から、約30数年前の話である。
 この曲をフュチャーした映画が2005年に公開された井筒和幸監督作品「パッチギ!」である。この5月にはシリーズとも言える「パッチギ Love & Peace」が劇場公開されている。数日前、テレビ放映された第1作目「パッチギ!」をみて、引っかかった。全編にわたって「イムジン河」がテーマミュージックのように扱われていたからだ。そこで、現在公開されいる「パッチギ Love & Peace」も見てみたくなって、昨晩、レイトショーに行ってみた。観客は、私を含めて4人。折からの「パイレーツ・オブ・カリビアンⅢ」には長蛇の列ができているというのに。
 見終わって、変な違和感に襲われた。それは、日韓に横たわるひずみそのもののように感じられた。在日の方々には申し訳ないが、無理して理解しよう、時代背景やエピソードを無理して日韓に横たわる問題にすり寄せようとし過ぎなのだ。ジメジメとした感傷が残ってしまい、爽やかになれなかった。第1作目の方が、はるかにストレートで、青春映画として成功していると思えてならない。その感情は帰宅しても消えず、口直しが必要になった。それも、ペヤングの焼きそばでは駄目なのだ。結局、口直しは、クァク・ジェヨン監督作品「ラブストーリー」となった。千五百円のレイトショーは何だったのだろう......。

土曜日, 5月 05, 2007

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作品「アモーレス・ペロス」「21g」

「バベル」を観て、改めてイニャリトゥ監督作品を勉強しなくてはならないと決意。アマゾンで中古DVDを入手し、連続して鑑賞した。
 「アモーレス・ペロス」のDVDジャケットのキャッチに、「メキシコ映画界のクエンティン・タランティーノ」とある。「バベル」の成功で、この称号は外されるに違いない。いや、「21g」の成功で、すでにタランティーノを超えていたと思う。エンターティメント性の強いタランティーノとは明らかに違う方向性を持った監督だからだ。「バベル」を含む3作に共通していることは、社会の中の平均値に添って生きていくことが難しくなった人々から表出してくる生地の人間性を、大切に、美しく、詩的に扱おうとしている点だ。
 そのために、そのような極地に追い詰められた人々に、詩的なモチーフを背負わせて、そのモチーフの重なりを叙情的センスで丹念に編集し、時にはストーリーの時間軸さえ前後させてしまいながら、独特の映像空間を構築している。観客は、当初とまどい、疑い、自問し始め、そして、だんだんイニャリトゥ・ワールドへ引きずり込まれ、最後には、半分は謎解きが出来て、半分は不可解な感情や理性にさいなまれるという、まことに不思議な映像体験にさらされるのだ。決して不快ではない。だが、重い、息苦しい。このような、社会派、あるいは新感覚主義ともいえる手法で、重いテーマを持つ映画が、ハリウッドを頂点とするアメリカ映画産業界で受け入れられていること自体が、私には驚きなのだ。
 際だったモチーフとは、例えば、何らかの理由から平和な家庭生活を放棄し、ホームレスのような生活をしながら沢山の犬たちとの共同生活をする男。ところが、彼の唯一の収入源は請負殺人。あるいは、兄嫁に真剣に恋して、駆け落ちしたいがために兄を敵に売ってしまう弟。心臓疾患を持ち、移植でしか生き延びられなくなった男。しかし一端移植が成功すると、提供者の死について考えだし、心臓提供者の事故死によって残された妻と、関係を持ってしまう。また、死んだ夫の心臓を移植された男にしか心が開かなくなった女。母を自殺で亡くし、父親と二人で暮らす聾唖者の娘。性に訴えてでも、自分の抱えた孤独や社会の偏見からくる怒りを解消しようとする少女。どれも極端な設定なのだが、生地の人間性を、これでもかと言わんばかりにえぐり出すドラマ性。その手腕は、むしろ、心理描写に長けた小説家か、詩人のようである。
 このように考えてくると、イニャリトゥ監督にとって映画とは、まさに「詩」なのではないだろうか。言葉で綴られる小説や詩は、行間を読者の自由な想像力に委ねることを前提としている。それでは不十分だと言わんばかりに、映像での表現を追究する。この人は、映像こそが、混迷したイメージ世界に秩序を与え、あるいは、対抗出来る唯一の表現方法、メッセージ力なのだと確信しているに違いない。

月曜日, 4月 30, 2007

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作品「バベル」

先週の金曜日頃から、このところ途絶えていた映像体験研修を集中的に行っている。主に、DVDと映画館へ出掛けての研修である。研修対象作品は、DVDでは宮崎アニメ「魔女の宅急便」「のだめ・カンタービレ」「プラダを着た悪魔」、映画館では「バベル」「クイーン」の5作品である。
 それぞれ勉強することはたくさんあったのだが、ここは「バベル」について考えておこう。監督は、メキシコ人のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、1962年生まれの45歳。これも話題作となり役者たちがアカデミー賞にノミネートされた「21グラム」の監督でもある。この映画の底流を流れるテーマは、「境界を形成するものは、言語、文化、人種、宗教ではなく、私たちの中にある」(公式HPの監督紹介コーナーから引用)だという。確かに、このような難しいテーマを見事に描ききった手腕には驚いた。しかし、さらに驚いたことは、このテーマをアメリカの映画界がこぞって受け入れ、アカデミー賞の作品賞の対象にもなったことだ。
 人間の奥底にある「境界」を創り出してしまうもの、いわば、人間としての「業」のようなものを普遍的に描こうとしているように思う。確かに監督自身の言葉や、そしてタイトルは、旧約聖書から借用した「バベル」。しかし、私にはもっと他にメッセージがあるのではないかと思った。それは、アメリカ型のグローバリゼーションがいま世界にもたらしている「傷」についての叫びである。傲慢で身勝手なアメリカ人夫婦をおそった被弾事故から、物語は同時進行的にモロッコの砂漠地帯とモロッコ人通訳の住む貧村、メキシコからの善良な出稼ぎ家政婦と彼女の息子や従兄弟たち、そして、不法入国が恒常的に問題化しているアメリカ・メキシコの国境砂漠地帯、銃撃に使われた銃の元所有者である日本人の父親と聾唖者である娘。住んでいるのは欧米化した都市文化とは明らかに異相の発展を遂げている東京。
 人の心の中に巣くう砂漠のような、乾いた、ザラザラしたもの。その象徴としての乾いた大地、はげ山と化しているモロッコの山岳地帯。晴れやかなはずの結婚式のフェスタが開かれるメキシコの貧村にも、砂埃が立ちこめ、祝祭の行く末に不安を投げかけている。それは、華やかでコンクリート・ジャングルと化した東京の繁栄の中にある実像として砂漠にも繋がる映像。見事な構成力で観る人々に気付かせてくれる何か。見事な映画としか、言葉がない。
 全体的にドキュメンタリータッチの映像が続く中、一カ所だけ、生っぽいシーンが出てくる。それは、メキシコからの家政婦がアメリカ人夫妻の二人の子供を自分の息子の結婚式に連れ出し、帰り道で国境を監視するポリスとトラブルを起こしてしまい、不法滞在がばれて、即刻国外退去を言い渡される留置場でのシーンである。この部分だけは、定式化したアメリカ裁判映画のタッチで、そのシーンだけが、やけに「生っぽく」描かれている。そのシーンだけは、実に異質なのだ。監督の明らかなメッセージといえるのではないだろうか。
 何故なら、観客をある種のカタルシスへ誘うシーン群、例えば、警官隊に追い詰められ、兄を死なせてしまい、ついには自ら銃撃犯であることを叫び、兄を助けてくれ叫ぶシーン、あるいは、孤独の局地から父親の懐に抱かれ、絆を回復していきそうなことを予感させるマンションのベランダでのシーン(役所広司と菊池凛子)、ハイウェイ国境の出口へ強制退去を強いられた母親を息子が出迎えるシーン、これらの、いわば安堵させるシーン群ですら、ドキュメンタリー風の映像美で綴られているからだ。
「バベル」公式HPへのリンク 

水曜日, 12月 27, 2006

クリント・イーストウッド監督作品「親父たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」2部作

クリント・イーストウッド監督作品「親父たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」2部作の意味することは何なのか? つい、このようなことを考えてしまう。というのも、日頃、ケーブルテレビでデスカバリーチャネルやヒストリーチャネルといったアメリカ教養系の番組を観ていると、明らかにアメリカの国際戦略に荷担した、さらに突っ込んで言ってしまえば、アメリカの一極支配をもくろむ上で、そのときどきに世界に向けて必要とされる洗脳情報を流していると私は認識している訳だが、この2部作もそのような系列下にあるのではないかと考えてしまうからだ。
 ケーブル系教養番組には、アメリカの対テロ戦争やアメリカ市民向けのプロパガンダ番組が相当数あり、それらの制作費は何らかの企業がスポンサーについていたり、あるいは国家予算がダイレクトについていたりするのではないかと疑ってしまいたくなる番組が相当ある。例えば、将来の戦争では、生身の人間が戦争をするのではなく、ロボットが戦い、生身の兵士たちはロボットたちを遙か後方から操作するだけで全く傷つかないのだとする未来物語が繰り返し放送されている。これは、イラク戦争などで厭戦気分になっているアメリカ国民への希望を創出しようとしているのではないかと疑うし、もう一方では、圧倒的な科学軍事力を誇示して、敵の戦意を挫こうとする目論見があるようにも思えるのだ。
 クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作は、戦争映画ではあるが、アメリカ側からの視点で創られた「親父たちの星条旗」は、国家の意思で「創られた英雄たち」のうそを背負わされた悲哀を通して、戦争の持つ非情さや馬鹿げた国会意志を訴えているし、「硫黄島からの手紙」ではアメリカ的合理主義を知っている栗林中将の硫黄島での戦いは持久戦をして戦を引き延ばすことが、本土決戦への時間的余裕をもたらすとの考え方で、自決や無謀な特攻をいさめている。この姿を通して、戦時の日本の精神主義に異議申し立てをしている。そして、それぞれ当時の世論とは逆の姿を描いている。
 ということは、クリント・イーストウッド監督は、アメリカの現在の政策には反対で、戦争の無意味さを描き出したかったのか? ミスティック・リバー、ミリオンダラー・ベィビーなどでアカデミー賞監督となったクリント・イーストウッド監督は、どの映画でも、表層ではなく深層に真実を見詰めようとする姿勢があり、気に掛かる監督になってきたものだ。しかし、どの映画も、アメリカのジレンマが感じられて、すっきりしないのだ。そのすっきりしないところが、いまのアメリカそのものを象徴してはいないだろうか?

日曜日, 11月 19, 2006

嫌われ松子の一生

中嶋哲也監督作品。公開されたときから気になっていて、DVD化されたのを契機に早速観た。色調の新鮮さ、いや、こういう色調をようやく日本映画でも追究するようになったのかという感想がまず浮かんできた。さらに、CGを効果的に挿入しての演出は、ともすると悲惨な話を、どこかほんわりとしたテーストに持ち上げ、花のある作品になっている。画面の構成でも、その花を手前に持ってきて、「色」を置こうとする意識が働いているように思う。そこが、演出なんだろうけどね。
 なぜ、色にこだわるのか。今、セミナーの学生たちが苦闘している。アニメの原画創りに挑戦しているわけだが、その原画の質の追究に意識が向かってはいても、どのように動画化するのかという、その先の技術的な側面への不安があるようで、肝心要の原画の質の追究という側面に腰が据わっていないのだ。そんな感想を持ちながら、嫌われ松子を観ていたから、一層いろにこだわってしまった。
 映画としては、後半のストーリーを「収めて行く局面」にもたつきがあり、モニターを導入していたならば、もっと「すっきり終わって欲しい」との要望が出たはずだ。そこをそのようにはしなかった点が気になるが、おいの回想と松子の過去から死ぬまでの経過を今と昔を行きつ戻りつ編集し構成しているストーリー立ては面白かった。楽しめる構成になっていただけに、最後のどのように殺されたかのシーンはあってもなくても、いや、無いほうがさらにミステリーになって良かったんじゃないかまで思ってしまうのだ。
 難癖をつけてもしょうがない。私は、このような斬新な映像表現を持ち込んだこの作品を繰り返し勉強していくことは確かであり、良い作品であることは疑う余地のないところである。

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...