月曜日, 11月 27, 2006

古森義久著「凛とした日本ーワシントンから外交を読むー」

中国が気に掛かる。そこで産経新聞北京総局長を務め、現在はワシントンを中心にジャーナリスト活動をしている古森氏の新刊本を昨晩から大学への道すがら読んでみた。21世紀は、アメリカと中国が覇権を競い合う世紀になることは間違いなく、中でも、中国の国際戦略や東アジア政策が、どこを、何を目指しているかが注目されるのである。
 古森氏は毎日新聞のサイゴン特派員から海外報道のキャリアを開始し、ワシントンや北京、一時ロンドンを拠点としたこともあり、日本きっての国際ジャーナリストである。ボーン賞受賞者でアジア報道を専門に行っていた産経新聞の近藤紘一さんの著書にも、サイゴン時代の古森氏が登場していて、10数年前に近藤著書にのめり込んでいた頃を思い出した。近藤は、民衆の生活レベルからの視点であったのに比べて、古森氏の視点はあくまで国際政治という余人にはうかがい知れない領域を扱っており、ときどき、気が向いたときに彼の書籍を購入していたように記憶している。語り口は、端的にして、少々堅いのだ。
 さて、中国であるが、本当にアメリカと軍事的に対峙し、世界に緊張が走るような事態になるのだろうか? 台湾問題、東シナ海海底油田開発問題、靖国批判に象徴される日本バッシングの真意は、このような観点で読み進むと、その危機感は想像以上だった。南京虐殺を描いたハリウッド映画の真偽などが、中国の国際情報操作の一環として、政府の意を受けて展開されている話などは、ビックリしてしまった。面白さをとおりこして、不気味な感じである。このガセネタは、繰り返しアメリカに存在する中国系団体から仕掛けられた反日キャンペーンらしいのだが、噂に尾ひれが付くと、本当に映画が出来てしまいそうな国際情勢もありそうで、苦々しいね。

日曜日, 11月 26, 2006

梅原猛、安田喜憲共著「長江文明の探求 ー森と文明の旅ー」新思索社

渇いた空気、単層化した自然、紺碧の空と青い海。地中海地方の風土は 目に浮かぶ。そんな地中海地方で地球環境考古学を開花させた一人の筆者は、日本の誇る碩学の師に巡り会ったことから、畑作牧畜の文明と稲作漁労の文明という概念を結実させた。その切っ掛けとなったのが、稲作漁労の文明をもとに都市まで持っていた長江文明だったのだ。この本は、師と弟子とが、21世紀最大の発見となろうとしている長江文明遺跡をともに探査しながら、この発見の持つ意味をお互いに語り尽くそうとした書である。
 安田先生はさらに、畑作牧畜の文明は「力と闘争の文明」であり、現在の危機的環境問題を生み出した文明として位置づけ、長江文明のような稲作漁労の文明は、自然から恵みを得ることを重視し、深い自然への洞察と勤勉で誠実な自然への働きかけを重視してきた「美と慈悲の文明」だと説いている。そして、環境問題に待ったなしの21世紀初頭にその存在が明らかになったことを、天からの啓示ださえ言っている。
 この書籍は学術書ではない。構えないスタイルで、師と弟子とが、長江文明発見のバックグランドを共に旅するその道程を、さまざまなエピソードを挿入しつつ解説している。当初、長江中域の質柔な風土を嫌って出掛けたがらない安田氏を引っ張り出した梅原先生が玉器を観て、高度な文明の存在を直感するが、その重大さに気がつかない安田先生をしかりつけるところなど、面白い。その重大さに気がついた安田先生は、それからというもの梅原先生と同行し会話を交わす際は、テープレコーダーを持参して、梅原先生の発言を最大漏らさず録音しているという。梅原先生の直観的に重大さを見極めるその力は、膨大な碩学に成り立つものだとも説いている。
 そんな二人の交流の軌跡も面白いのだが、愁眉は、なんと言っても「力と闘争の文明」である4大文明史観を打ち破る稲作漁労の文明、言い換えるならば、「美と慈悲の文明」の発見物語である。
 私事になるが、この夏の終わり頃、私は北京での博物館調査に出掛けた。初めての中国旅行である。オリンピックを控えた北京は、一昔前の東京のようの思えたが、空港に降り立ち、タクシーで北京市内へ向かう道中に直観的に思ったことがあった。それは、「この国はなんとアメリカ的なことか!」という感想なのである。それはホテルに入り、市内を徘徊し、テレビを観れば見るほど、その思いが強くなって行った。それが、何を意味するのか、帰国してから手当たり次第に勉強していた。そして、この安田文明史観に出会い、一挙に解決した。
 私が感じていたのは、「力と闘争の文明」そのものだったのである。北京郊外の巨大ビル群は、アメリカで言うと、ヒューストンやダラス、あるいは、中西部の都市のように、広大な敷地を、広大に構造化してそそり立っており、その景観、イメージからの感性は、まさにアメリカ的。そこに通底する感性、思想は同じじゃないか、という感想だったのである。その意味が、解らないから、この3ヶ月、勉強に、勉強していた。そして、大橋力先生の道場に出掛けて、安田先生のことを知り、書籍を猛読して、ようやく納得したのである。
 畑作牧畜の文明=「力と闘争の文明」は、家畜の餌となる草原を求めて、ときには遊動する場合もあり、そうなると空間認識力として、「俯瞰」する力や発想を、自然と身につけるという。ところが、稲作漁労の文明=「美と慈悲の文明」は、特に稲作を考えてみても、稲を植え、草を取り、穂を刈り取り、といったメンテナンスを、その地に張り付いて、絶えず地上に向かって視線を落としながら、地球を見つめながら過ごさなくてはならず、おのずと自省的、内観的空間認識となると説明している。なるほど、俯瞰の発想が強ければ、確かに宇宙へも平気で出掛けることになるのだ。

金曜日, 11月 24, 2006

佐藤和孝著「戦場でメシを食う」 新潮新書

著者佐藤和孝氏は独立系ジャーナリスト集団「ジャパンプレス」の主宰である。先の2001年同時多発テロに端を発するアフガン侵攻、イラク戦争において、現地からのライブ中継を行っていたジャーナリストと言えば、思い出す人も多いことだろう。日テレの「今日の出来事」での活躍を記憶する人も多いはずだ。 
 佐藤氏は二十数年にわたる戦場報道の前線において、さまざまな経験を積んでいるが、そのインサイドストーリーを、「食べること」に焦点を当てて、描き出している。地域の文化、とりわけ現地の庶民の食事に近い戦場食をとおして、次の瞬間絶体絶命の危機に立たされるとも限らない状況下でも食事をする人々と、彼らとの交流や実際に食した料理を、戦場というレストランでの話として伝えている。そして、その文章は、カメラマンとしての環境認識力に裏打ちされた秀逸な情景描写力となって、リアリティを生んでいる。
 特に気に入った一節を紹介したい。それはインドネシア・アチェ州で反政府ゲリラを取材したとき、ゲリラの仲間たちから出された食事をしているときの情景描写だ。
 ーー唇が腫れ上がり、胃が痺れる。汗腺が壊れてしまったかと思われるほど、全身から汗。内臓まで汗をかくのだ。熱帯の暑さと唐辛子。汗を流しながら食べるのも気持ちがいい。(173ページ)ーー
 私は、この「内臓まで汗をかくのだ」という表現が気に入ってしまった。こちらまで、胃のあたりがジンジンしてきそうである。インドネシアのサンバル(赤唐辛子味噌)の辛さは私も大好物だが。
 あるいは、旧ソビエト連邦のチェチェン紛争の取材に出掛けては、羊の焼き肉にこだわっている。
 ーー六十センチは優にある鉄の串に刺さった肉が運ばれてきた。その串にこぶし大の骨付き肉が四つ刺さっている。「ゲンコツ」が刺さっているようだ。肉は羊である。
 フォークで肉を串から抜き取る。火から下ろされたばかりの羊肉は、指でちぎれないほど熱い。かまわずかぶりつく。炭火で焼かれたその肉は程よく火が通り、歯ごたえはあるが柔らかい。咀嚼し肉のエキスを吸う。塩味がきき、炭の香りで燻された味が強烈に舌に残った。
(181ページ)ーー
 端的な表現の中に、味覚に対する強烈な感受性を感じるのだ。そのような鋭敏で研ぎ澄まされた感覚から、死の恐怖と戦いながら戦争報道してきた者の感性が生まれたのかもしれない。紛争地の政治情勢(争いの根源的理由)や、文明の衝突地帯の悲酸を、食べるという人間本来の基層から描き出した秀逸な戦争ジャーナリストのエッセイである。

木曜日, 11月 23, 2006

川勝平太著「美の文明」をつくる

文明としての日本論。日本文化というキーワードはたびたび見聞きしてきたのだが、日本に独自の文明があるのかという素朴な疑問を想起するのではないだろうか? 確かに、私自身も「日本文明」という論点を明確には持っていなかった。文化は意識してきたのだが、文明となると、自信がなかった。
 しかし、先の安田喜憲氏の著書やこの「美の文明」をつくるを読んで、一気に文化論から文明論へのシフトを余儀なくされている。川勝さんは後半部分で、日本は明治維新期に、日本を世界の中で自律させるには、まずは国民教育であり、それは「国学」でも、「漢学(中国文明)」でもなく、「洋学」にこそ求めるべきだとした約百数十年前の江藤晋平の文部行政指針から抜けだし、いまこそ、地域に根付いた学問体系を導入すべき時期に来ており、それは「洋学」に盲従した学者のそれではなく、例えば、漁師ながらに独学で地域の海の再生に取り組み、「漁師さんの森づくり 森は海の恋人」を著した畠山重篤さんや、やはり大学で建築学を学んでいないのに世界的建築家である安藤忠雄さんのような人たちの独自に打ち立てた体系を、新しい日本の学ぶべき固有の学問として考えていこうと提唱している。
 大橋力先生の門下生として、欧米的発想ではない、アジア、日本などに固有の価値体系を大事に、現在的な意味合いを問い直して来た一人として、この川勝氏の提言は、まことに的を得た考え方であった。環境考古学からいまや文明論者でもある安田氏の提唱する「美と慈悲の文明」、川勝氏の提唱する「美の文明」など、一連の熱い文明論を読み進むと、日本人、あるいは、アジアの住人として未曾有の環境時代に、待ったなしの環境問題克服の季節に、大きな勇気となって読者を励ましてくれる。「素晴らしい本物の文明論、いま、ここに咲き誇らん」の感ありである。

勤労感謝の日

もうすぐ師走。はい! 私は毎月、師走ですね。特に今年は学科の取りまとめ役なんぞをやらされてますので、もう、雑用一般引き受け係で、忙しいのです。メディアコミュニケーション学科の1年生のセミナー選択のための面接は今週末まで。昨日の3限目終了後は、廊下に学生が群がっていました。今年度から、セミナー担当先生、うちの場合7セミナーありますが、その7先生全員と面接をすることをルール化。スタンプラリーさながらの状況。各先生、新しい動きに少々驚いているのではないでしょうか。さて、来週月曜日夕刻には応募のアピールを書いた用紙を教務課に出すわけですが、果たしてどのような結果になることやら、心配です。などなど......。

水曜日, 11月 22, 2006

Podcast>.mac group site>Animation Project

うちのセミナー(電子出版セミナー)2,3年生の今年度の共同制作は、約2年間かけての長期プロジェクトを進めている。今、立ち上がりの大事な時期にさしかかっている。前期から夏休みも潰して、MEIREN&SORAの青春物語を台本化(原稿用紙約130枚の大作)し、総ページ数約380ページ近くの絵コンテを創り上げた。後期からは、この絵コンテを元に、ビデオコンテを創り、台詞の仮吹き込みをして絵柄と各カットのタイミングを計り、いよいよテスト・クリップを本格的に制作し始めたばかりである。
 ここで新兵器を導入した。.macで用意されているグループ用、コラボ用の機能である。グループの登録メンバーだけが使えるブログのような体裁になっており、連絡に、グループ作業用のiDiskへ作業ファイルを転送し、相互の作業の連携を深めている。また、テスト用に小さなQTムービーをポッドキャスト用のブログにして、段階をおってアーカイブ化していく手はずも整えた。web2.0時代の最新の方法論でこのプロジェクトを組織してみたいと考えている。

火曜日, 11月 21, 2006

安田喜憲著「一神教の闇」

すごい論者が現れた。環境考古学を打ち立て、地球レベルで古気象の変動と文明の盛衰の因果関係を解き明かしている著者。その科学的なスケール感に圧倒されながら読み進むと、現在人類が抱えている環境問題の根の深さ、人類存亡の危機がいかに深刻で、待ったなしのレベルにあるか、そして、その危機的環境破壊の現況ともいうべき砂漠から生まれた一神教(ユダヤ・キリスト教、イスラム教)が形成してきた「力と闘争の文明」への対応策や克服のビジョンなどが、生々しい現実感を伴って迫ってくる。
 私は小さいときより、宇宙より丸い地平の見えるこの地球に留まりながら物事を考えたいと思っていた。その思いは、科学雑誌ニュートンの編集者となり、宇宙論やNASAの宇宙開発の記事を扱うたびに強くなっていった。人類が宇宙までをも自分たち人類の生存圏として、未開拓のフロンティアと認識して出て行く必要があるのか、そんな疑問を強く持っていた。そして、この書を読んだことによって、その一つの回答を得たような、納得があった。やはり、自然を人間の従属下に置こうという発想からすると、地球レベルでの制圧が行き詰まり、「その先は宇宙へ」というフロンティア思想からの取り組みであり、宇宙開発推進者たちのその根底には、一神教的な「力と闘争の文明」の発想に裏打ちされた価値観がることをはっきりと理解出来たのである。
 そうなると、宇宙へ出ることの唯一の価値は、水の惑星地球という絶対的な環境をシャトルに乗った目で監視し、地球のあらゆる環境的指標をセンシングすることにのみ、現在的な価値があるということも理解されるのである。
 この「一神教の闇」中には、いまや盟友の感がある大橋力先生の「音と文明」からの引用や考えを賞賛のもとに随所に引用紹介している。その意味からも注目して読み進むと、「力と闘争の文明」史観、一神教史観しか持ち得ない西欧・アメリカ型の発想では、地球環境問題の解決は無理であり、古来、アニミズムの発想を色濃くもっていたアジア・モンスーン地区の我々にこそ、アジアの発想にこそ、将来性があるとが見えてくる。残念ながら、アフリカ地区からの提言がないことが気に掛かるが、「もったいない」という思想を資源再活用、循環型社会構築のキーワードにしようという発想を見いだした人がアフリカからの人材だったことを思い出して、安心している。(ノーベル平和賞受賞者 ワンガリ・マータイ) この書籍をセミナー生の冬休みの課題図書にしたいと考えている。先ほどアマゾンで発注した。どうですか?ナベさんも読んでみては!

メディア論2の今年度課題は……

1限目の講義は出版メディア論2。従来、メディア・リテラシー啓発のための講義にしているが、今年度の最終課題は、12月中旬から受講生全員にブログを開設させ、ブロガー生活をやってもらい、その結果報告をレポート形式で試験するという段取りにした。そそ、このブログも、そのための準備だったのである。

月曜日, 11月 20, 2006

5時起き、10時20分には大学 ブログにコメント有り

朝、メールを見れば、昨晩から今朝にかけて学生諸君、いろいろ手直ししたり、シミュレーション・クリップを創ったりしていたようだ。5時55分という良い頃(語呂)の時間にメールで感想やら、意見やらを返信し、MLにもCC:で流し、6時20分にはタクシーを呼んで福井駅へ。7時14分のしらさぎで名古屋へ。車中は就寝タイム。
 朝方の駅は通勤通学客や遠方へ出掛けるお年寄りグループなどが週明け一番の爽やかな表情であつまっていた。そして、大学へ来てブログを確認したところ、ナベさんからコメントが入っていた。音信不通気味の2年間。生きているようだ。嫌われ松子の件について、コメント。感謝!
 先週から今週末まで、1年生はセミナー選びの面接期間中。今回は7セミナー7先生全員と面接し、面接確認のスタンプ・ラリーに参加しないと、セミナーへの配属をできないというルールにしてある。先週の学生たちの出足はそこそこであった。今週の様子はどうなることか。

日曜日, 11月 19, 2006

嫌われ松子の一生

中嶋哲也監督作品。公開されたときから気になっていて、DVD化されたのを契機に早速観た。色調の新鮮さ、いや、こういう色調をようやく日本映画でも追究するようになったのかという感想がまず浮かんできた。さらに、CGを効果的に挿入しての演出は、ともすると悲惨な話を、どこかほんわりとしたテーストに持ち上げ、花のある作品になっている。画面の構成でも、その花を手前に持ってきて、「色」を置こうとする意識が働いているように思う。そこが、演出なんだろうけどね。
 なぜ、色にこだわるのか。今、セミナーの学生たちが苦闘している。アニメの原画創りに挑戦しているわけだが、その原画の質の追究に意識が向かってはいても、どのように動画化するのかという、その先の技術的な側面への不安があるようで、肝心要の原画の質の追究という側面に腰が据わっていないのだ。そんな感想を持ちながら、嫌われ松子を観ていたから、一層いろにこだわってしまった。
 映画としては、後半のストーリーを「収めて行く局面」にもたつきがあり、モニターを導入していたならば、もっと「すっきり終わって欲しい」との要望が出たはずだ。そこをそのようにはしなかった点が気になるが、おいの回想と松子の過去から死ぬまでの経過を今と昔を行きつ戻りつ編集し構成しているストーリー立ては面白かった。楽しめる構成になっていただけに、最後のどのように殺されたかのシーンはあってもなくても、いや、無いほうがさらにミステリーになって良かったんじゃないかまで思ってしまうのだ。
 難癖をつけてもしょうがない。私は、このような斬新な映像表現を持ち込んだこの作品を繰り返し勉強していくことは確かであり、良い作品であることは疑う余地のないところである。

土曜日, 11月 18, 2006

簡単に出来ちゃうんですよ!

これは学生たちに教えなくて、どうするの、て感じですよ。こういう活動を気安く、ちょっと真面目に、でも楽しみしてくれる学生たちが一人でも出てくれば、それで充分。自己表現のきっかけになって欲しいのです。

学生とともに

私は四日市大学環境情報学部メディアコミュニケーション学科で電子出版を教えている。ネット時代のリテラシーとは。 その答えにたどり着くためにも、辿り着くための道筋を知るためにも、ブログを学生たちと一緒にやってみることにした。さて、どんな結末になるのか、楽しみである!

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...