水曜日, 12月 27, 2006

クリント・イーストウッド監督作品「親父たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」2部作

クリント・イーストウッド監督作品「親父たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」2部作の意味することは何なのか? つい、このようなことを考えてしまう。というのも、日頃、ケーブルテレビでデスカバリーチャネルやヒストリーチャネルといったアメリカ教養系の番組を観ていると、明らかにアメリカの国際戦略に荷担した、さらに突っ込んで言ってしまえば、アメリカの一極支配をもくろむ上で、そのときどきに世界に向けて必要とされる洗脳情報を流していると私は認識している訳だが、この2部作もそのような系列下にあるのではないかと考えてしまうからだ。
 ケーブル系教養番組には、アメリカの対テロ戦争やアメリカ市民向けのプロパガンダ番組が相当数あり、それらの制作費は何らかの企業がスポンサーについていたり、あるいは国家予算がダイレクトについていたりするのではないかと疑ってしまいたくなる番組が相当ある。例えば、将来の戦争では、生身の人間が戦争をするのではなく、ロボットが戦い、生身の兵士たちはロボットたちを遙か後方から操作するだけで全く傷つかないのだとする未来物語が繰り返し放送されている。これは、イラク戦争などで厭戦気分になっているアメリカ国民への希望を創出しようとしているのではないかと疑うし、もう一方では、圧倒的な科学軍事力を誇示して、敵の戦意を挫こうとする目論見があるようにも思えるのだ。
 クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作は、戦争映画ではあるが、アメリカ側からの視点で創られた「親父たちの星条旗」は、国家の意思で「創られた英雄たち」のうそを背負わされた悲哀を通して、戦争の持つ非情さや馬鹿げた国会意志を訴えているし、「硫黄島からの手紙」ではアメリカ的合理主義を知っている栗林中将の硫黄島での戦いは持久戦をして戦を引き延ばすことが、本土決戦への時間的余裕をもたらすとの考え方で、自決や無謀な特攻をいさめている。この姿を通して、戦時の日本の精神主義に異議申し立てをしている。そして、それぞれ当時の世論とは逆の姿を描いている。
 ということは、クリント・イーストウッド監督は、アメリカの現在の政策には反対で、戦争の無意味さを描き出したかったのか? ミスティック・リバー、ミリオンダラー・ベィビーなどでアカデミー賞監督となったクリント・イーストウッド監督は、どの映画でも、表層ではなく深層に真実を見詰めようとする姿勢があり、気に掛かる監督になってきたものだ。しかし、どの映画も、アメリカのジレンマが感じられて、すっきりしないのだ。そのすっきりしないところが、いまのアメリカそのものを象徴してはいないだろうか?

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