現サッカー日本代表監督の業績を本人や関係者からのインタビューで構成したバイオグラフィー的な一冊である。この原稿を書き出したこの瞬間、BSでは、ガンバVSレッズの事実上の優勝決定戦を放送し始めている。まさに、BGとしては最高の雰囲気の中で、読書感想文を書くこととする。
オシムさんの生まれ育った街はサラエボである。幼少の頃は、「ふたつの鐘の音はひとつの鐘のそれより美しい。そして3つの鐘が一斉に鳴る時、それはまるでオーケストラのようだ。それこそ私が聞きたい音だ」と回想しているように、イスラム教徒、カトリック教徒、東方正教徒の割合がほぼ同じくらい存在した、まさにマルチカルチャーシティだった。それが80年代後半から90年代中頃にかけて紛争地帯となり、NATOの爆撃を受け、民族、宗教の違いを乗り越えていた共生の都市は、崩壊した。
この最も激しい戦乱の時代、92年4月から94年秋までの約3年間、オシム夫妻と息子娘たちは、離ればなれの生活を余儀なくされる。オシムさんと次男はギリシャに、奥さんのアシマと娘のイルマは戦禍のサラエボにとどまったのである。このことがオシムさんにとって、「なぜ、あのときサラエボに居なかったのか」という一種の自責の念となっているらしい。そんな複雑な、そして悲酸な経験からくる人生感とは、そして日本の現状を、現代日本人を、どのようにオシムさんが考えているのか、興味津々で読んでみた。
後半に、奥さんのアシマさんが当時サラエボでどのように過ごしていたかを語っている。その内容を読みながら、何故か、昨晩読んでいた藤原正彦著「この国のけじめ」の前半部分に掲載されていた日露戦争時のロシア兵捕虜の話を思い出していた。藤原さんは、日本人が惻隠の情を日露戦争時までは保持していたのだが、大正になり、太平洋戦争時へと時代が進むにつれて、この大事な日本人の美徳を失っていくことを説明する材料として話題にしている。いかにロシア兵たちが、日本国内の捕虜収容所で厚遇を受け、大事にされていたか、松山収容所でのエピソードを伝えている。
県は「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮戦して敗れた心情を汲み取って、侮辱を与えるような行為は厳に慎め」と訓令をだし、捕虜たちを温泉に入れたり、地元の小学校の運動会に招待したり、終戦を待たずして亡くなった98名の捕虜には立派な墓をつくって、供養している。そこには、現在に至っても献花がたえないというのである。惻隠の情、慈悲の心が、戦時にあっても保たれていたのに、太平洋戦争後の日本は、アメリカの指導による民主主義と自由とを与えられ、日本人固有の美徳をすっかり放棄してしまったと、藤原さんは訴えているのだ。
そんなエピソードや主張を思い出しながら、アシマさんのサラエボでの日常を読んでみた。いつ何時狙撃されるかも知れない中を、生活水を求めてさまよい、ご近所の知り合いは次々と亡くなっていく。そんな明日をも知れない中を、敢然とサラエボに居続けたのだ。そのうち、健忘症になり、知り合いの名前を次々と覚え出せなくなったと言う。極度のストレスに耐え、生き延びてきた。狙撃兵たちのお遊びとのいえるシューティング・ゲームに、神経はずたずたにされてしまい、残忍さなどという生やさしい表現では語り尽くせない地獄模様が繰り広げられていた。
このようエピソードを読み進むうちに、一体私は92年頃から94年頃にかけて、世界のことをどのように認識していたかを自問せざるを得なくなった。思い出そうとすると、まず日本ではバブルが崩壊し、93年にはアメリカ・ワールド・カップ出場をかけたイラクとの予選での敗退があった。ドーハの悲劇として語り継がれている。Jリーグが開幕したのもあの頃だ。私は福井に戻り、一人取り残された親父の世話をするために、悪戦苦闘し始めていた頃だ。テレビではCNNを欠かさず観て、英語のヒアリング力を落とさないように努めていた。インターネットを仕事の手がかりにしようと、無理してIIJの東京のアクセス・ポイントへ、アナログ線でアクセスしていた頃だ。
確かに、CNNではボスニア紛争の報道はあった。しかしながら、第一次イラク戦争のような、全世界が耳目を立てて注視するような機運にはなかったような気がする。NATO軍が空爆を開始したと聞いても、何か不可思議な感じで聞き流していた。まるで、別世界の出来事。そんな、無反応な精神状態だったことが思い出される。
よく考えてみると、アルプスを挟んで、南側、西側には意識は行っても(ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、イギリスなど)、北側、東側には(ユーゴ、チェコ、ハンガリー、オーストリア、ルーマニア、ポーランド、ロシアなど)、意識を働かせる自分の土壌が無かったことが理解できる。全く、想像力の欠如もはなはだしい。
そのサラエボ市の名誉副市長にオシムさんは就任している。オシムさんの役割は、サラエボに2010年の冬季オリンピックを誘致するためのプロモーターとしての役割を担っているらしい。ただし、就任するにあたって条件を設定したそうだ。誰からも政治的勧誘をうけないことというのが、その条件だったらしい。
サラエボで、旧ユーゴスラビアの各地で、オシムさんは多民族、さまざまな宗教をもつ選手たちを束ね、クラブのゲームに、国家代表戦に、見事な実績を残している。サッカーという言語、サッカーという生活規範が、民族の壁、宗教の壁、ひいては文化や文明の壁をも乗り越えられることを体現した人物なのである。日本サッカー協会も、大変な人材を抱えた。それは決して否定的な意味ではなく、かつて戦国時代に日本にキリスト教を布教しにきたフランシスコ・ザビエルや、明治の田舎に先生として赴任してきたラフカディオ・ハーンのように、必ずや、現代日本人が気がつかない貴重な「何か」を残してくれそうなことだけは、確かに予感できるのである。オシム・ウォッチングを精力的につづけなくてはならない。
オシムさんの生まれ育った街はサラエボである。幼少の頃は、「ふたつの鐘の音はひとつの鐘のそれより美しい。そして3つの鐘が一斉に鳴る時、それはまるでオーケストラのようだ。それこそ私が聞きたい音だ」と回想しているように、イスラム教徒、カトリック教徒、東方正教徒の割合がほぼ同じくらい存在した、まさにマルチカルチャーシティだった。それが80年代後半から90年代中頃にかけて紛争地帯となり、NATOの爆撃を受け、民族、宗教の違いを乗り越えていた共生の都市は、崩壊した。
この最も激しい戦乱の時代、92年4月から94年秋までの約3年間、オシム夫妻と息子娘たちは、離ればなれの生活を余儀なくされる。オシムさんと次男はギリシャに、奥さんのアシマと娘のイルマは戦禍のサラエボにとどまったのである。このことがオシムさんにとって、「なぜ、あのときサラエボに居なかったのか」という一種の自責の念となっているらしい。そんな複雑な、そして悲酸な経験からくる人生感とは、そして日本の現状を、現代日本人を、どのようにオシムさんが考えているのか、興味津々で読んでみた。
後半に、奥さんのアシマさんが当時サラエボでどのように過ごしていたかを語っている。その内容を読みながら、何故か、昨晩読んでいた藤原正彦著「この国のけじめ」の前半部分に掲載されていた日露戦争時のロシア兵捕虜の話を思い出していた。藤原さんは、日本人が惻隠の情を日露戦争時までは保持していたのだが、大正になり、太平洋戦争時へと時代が進むにつれて、この大事な日本人の美徳を失っていくことを説明する材料として話題にしている。いかにロシア兵たちが、日本国内の捕虜収容所で厚遇を受け、大事にされていたか、松山収容所でのエピソードを伝えている。
県は「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮戦して敗れた心情を汲み取って、侮辱を与えるような行為は厳に慎め」と訓令をだし、捕虜たちを温泉に入れたり、地元の小学校の運動会に招待したり、終戦を待たずして亡くなった98名の捕虜には立派な墓をつくって、供養している。そこには、現在に至っても献花がたえないというのである。惻隠の情、慈悲の心が、戦時にあっても保たれていたのに、太平洋戦争後の日本は、アメリカの指導による民主主義と自由とを与えられ、日本人固有の美徳をすっかり放棄してしまったと、藤原さんは訴えているのだ。
そんなエピソードや主張を思い出しながら、アシマさんのサラエボでの日常を読んでみた。いつ何時狙撃されるかも知れない中を、生活水を求めてさまよい、ご近所の知り合いは次々と亡くなっていく。そんな明日をも知れない中を、敢然とサラエボに居続けたのだ。そのうち、健忘症になり、知り合いの名前を次々と覚え出せなくなったと言う。極度のストレスに耐え、生き延びてきた。狙撃兵たちのお遊びとのいえるシューティング・ゲームに、神経はずたずたにされてしまい、残忍さなどという生やさしい表現では語り尽くせない地獄模様が繰り広げられていた。
このようエピソードを読み進むうちに、一体私は92年頃から94年頃にかけて、世界のことをどのように認識していたかを自問せざるを得なくなった。思い出そうとすると、まず日本ではバブルが崩壊し、93年にはアメリカ・ワールド・カップ出場をかけたイラクとの予選での敗退があった。ドーハの悲劇として語り継がれている。Jリーグが開幕したのもあの頃だ。私は福井に戻り、一人取り残された親父の世話をするために、悪戦苦闘し始めていた頃だ。テレビではCNNを欠かさず観て、英語のヒアリング力を落とさないように努めていた。インターネットを仕事の手がかりにしようと、無理してIIJの東京のアクセス・ポイントへ、アナログ線でアクセスしていた頃だ。
確かに、CNNではボスニア紛争の報道はあった。しかしながら、第一次イラク戦争のような、全世界が耳目を立てて注視するような機運にはなかったような気がする。NATO軍が空爆を開始したと聞いても、何か不可思議な感じで聞き流していた。まるで、別世界の出来事。そんな、無反応な精神状態だったことが思い出される。
よく考えてみると、アルプスを挟んで、南側、西側には意識は行っても(ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、イギリスなど)、北側、東側には(ユーゴ、チェコ、ハンガリー、オーストリア、ルーマニア、ポーランド、ロシアなど)、意識を働かせる自分の土壌が無かったことが理解できる。全く、想像力の欠如もはなはだしい。
そのサラエボ市の名誉副市長にオシムさんは就任している。オシムさんの役割は、サラエボに2010年の冬季オリンピックを誘致するためのプロモーターとしての役割を担っているらしい。ただし、就任するにあたって条件を設定したそうだ。誰からも政治的勧誘をうけないことというのが、その条件だったらしい。
サラエボで、旧ユーゴスラビアの各地で、オシムさんは多民族、さまざまな宗教をもつ選手たちを束ね、クラブのゲームに、国家代表戦に、見事な実績を残している。サッカーという言語、サッカーという生活規範が、民族の壁、宗教の壁、ひいては文化や文明の壁をも乗り越えられることを体現した人物なのである。日本サッカー協会も、大変な人材を抱えた。それは決して否定的な意味ではなく、かつて戦国時代に日本にキリスト教を布教しにきたフランシスコ・ザビエルや、明治の田舎に先生として赴任してきたラフカディオ・ハーンのように、必ずや、現代日本人が気がつかない貴重な「何か」を残してくれそうなことだけは、確かに予感できるのである。オシム・ウォッチングを精力的につづけなくてはならない。
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