映画「硫黄島からの手紙」が今年度のアカデミー賞の監督賞、作品賞にノミネートされている。このブログでも取り上げたが、肝心の「硫黄島からの手紙」については、まだ何もコメントしてこなかった。観てはいるのだが。そこで、合わせて書いてみたい。
日本の俳優たちが日本語で演技したハリウッド映画。監督はアカデミー賞作品賞、監督賞受賞監督のクリント・イーストウッド。当初、この硫黄島2部作品をどのように考えればよいのか、正直言って確信がなかった。しかし、日米両サイドから硫黄島の戦いを描こうとするアイディアには、何か時代的な大きな目論見があるのではないか、あるいは、時代が「何か」を求め、その結果としてこのようなムーブメントが出現したのではないかとの思いの元に注目していた。
アメリカ側から描いた「親父たちの硫黄島」は、正直言って、あまり出来は良くないような印象があった。しかし、渡辺謙が栗林中将を演じた「硫黄島からの手紙」には何か感じるものがあり、その後の動向(アメリカでの反響など)をウォッチしながら考えていこうと思っていた。アカデミー賞にノミネートされるくらいだから、この映画の方がアメリカ側から描いた作品より、やはりインパクトがあったようだ。アカデミー賞の行方も楽しみだが、この映画を契機に、そしてこの映画に先行するように発行されていた栗林中将の戦いを書き下ろした梯久美子著「散るぞ悲しき」にも注目があつまり、かなり売れているようだと書評が伝えており、気に掛かる書籍として昨年の夏ぐらいから「詠んでみよう!」リストにブックされていた。
昨晩、セミナー関連書籍を購入しようとして書店に立ち寄り、肝心のセミナー用書籍は見つからなかったのだが、ひょいと平積みにされた単行本をみると、この書籍が目に飛び込んだ。しかし、その場を離れ、文藝春秋を探しに行ったところ、こんどは文藝春秋の表紙に1行大きく印刷された「栗林中将 衝撃の最後」というタイトルが飛び込んできた。そこで、2冊まとめ買いしたことは言うまでもない。昨晩8時頃から読み出し、午前1時頃には両方とも読み終わっていた。深く感動し、しばし身じろぎもせず、その感銘にひたっていた。
私は旧帝国陸軍の軍人たちについては、子供の頃から生理的に嫌いだった。精神主義的で、科学性がなく、何かというと天皇を持ち出し、その時代的な雰囲気がたまらなく嫌いだった。それに比べ、帝国海軍の方が、どちらかというと好きだった。科学性があり、時代を見詰めていた人材も多かったような印象があったからだ。日米開戦の端緒を開いた山本五十六大将はアメリカ駐在武官をしたくらいで、アメリカの国力を誰よりも知っていた。だから戦争を早期に講話へと持ち込まないといけないと考えていたことなど、当時海軍の方がグローバル・スタンダードだったのではないかと評価していたのだ。あるいは、「坂の上の雲」の秋山参謀の影響もあるかも知れない。彼もアメリカ駐在武官だった。
今回、陸軍にもアメリカを本当に解っており、精神主義に走らない合理性と並外れた人間性に溢れる栗林中将のような人がいたことを、初めて知り、驚いている。特に、生来の職業軍人のイメージを大きく変更を迫る逸話の数々に、日本人の精神性の深さを知ることとなった。すでに多くの評論や書籍で著されているように、家族思いであったり、普通は職業軍人であれば使わない「悲しき」などという表現を使っていたりしていて、完全に帝国陸軍の軍人イメージを払拭するものだったのである。
硫黄島から大本営に当てた最後の決別電報を、軍属として栗林中将に仕えた老いた貞岡信喜さんが誦じる場面から、この書き下ろしは始まっている。駄目だった。この部分からすでに涙が出てしまい、最後まで、なんども泣けてきて、しょうがなかった。アメリカの海兵隊を震撼させた軍人は、深い人間洞察に優れ、家族とのなにげない日常を心から愛した、心優しき日本人だった。この歳にして、またもや日本を再発見した思いに駆られている。
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