木曜日, 2月 08, 2007

森三樹三郎著「老子・荘子」講談社学術文庫:その1

最近、三つの方向から、「これは老子を勉強せざるを得ないな」と自覚していた。そこで、遅きに逸しているかもしれないが、基本から始めようと考え、この書籍と格闘している。全部読み終わった訳ではない。今回は、「勉強せざるを得ない」という思いに至ったプロセスだけを書き記しておきたい。
 昨年秋から中国関係の書籍を集中的に読んでいる。特に、長江文明関連の書籍、中でも安田喜憲さんの文明論を読んでいると、稲作漁労の文明の生命観には命の循環思想があり、それは生命が本来的にもつ力を信じて、それに忠実に生きようとする発想が潜んでいると、繰り返し主張されている。そして、その思想は中国南部から発した道教や道家思想に色濃く投影されていると主張されている。事実、長江文明の末裔たちの国家だったであろうとする魏や越などで牛を生け贄として五穀豊穣を祈る祭りが記載されている荘子注釈書などがあり、老子が理想とした農耕社会とは、長江文明のそれだったのではないかという推論を披露している。無為自然は長江文明型の生命観なのでは、という仮説である。
 一方、中国人で日本で比較文化を研究している王敏さんは自書の中で、儒家思想というのは欧米のキリスト教や中近東アラブ社会のイスラム教に性格が似ており、なにより論理的で言葉での理解がしやすく、政治との相性が良く、そういう意味では極めて宗教的だと解説されており、なるほどと思った。
 さらに、我が師である大橋力先生の近著「音と文明」においても、古代中国にあっては、言葉に重きを置くのは考え物であり、そのことへのアンチテーゼを出している老子の思想には一定の理解を示されている。
 こうなっては、私としては老子を勉強せざるを得ないのである。しかも、山城組の重臣で某教育委員会の重鎮から、年頭にメールで「天命を知る」などというキーフレーズをぶつけられては溜まったものではない。私は、「天命??」、何それ? なのであるから。
 読み出してみると、確かに勉強になる。いかに自分が儒家思想の重しに苦しんでいたことも理解できるようになる。我が父母は孔子的だったのだ。そして、気に入った逸話も幾つか出てきた。中国では、「昼は儒家で過ごし、勤めから帰って夜は道家で過ごす」というのがあると聞き及び、これだったら実践出来そうかな? などと悦に入っているのだ。柔弱の発想とか、「たりるを知るものは富む」とか。しかし、老子は一気読みするものではないな!? 少しずつ、感じながら読み進もう。

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