日曜日, 2月 04, 2007

塩野七生著「ローマ人の物語 第15巻 ローマ世界の終焉」

ついに最終巻、大演壇を迎えた。ローマ帝国が東西に分かれ、キリスト教カトリックの東ローマ帝国から分かれて蛮族支配の西ローマ帝国が滅びてしまい、ローマ的なるものが消え去ってしまった。長い物語であったが、ついに終わったのか。
 塩野さんはこの巻の始めに、そして後書きで、この著作を始めた理由を述べている。それは、あまりにも単純な動機なのだが、ローマの盛衰を知りたい、だった。そして私も同じく、世界史を習ってはいるが、古代社会から、もっと厳密に言うと、西欧社会の歴史を知るためにも、ローマ時代は欠かせなく、それで勉強することになったのだ。この時代にこの著作に巡り会えたのは幸運としか言いようがない。
 多神教、多文化、多民族を受け入れていたローマが一神教のキリスト教を国教化せざるを得なかった理由、そして、市民権は既得権ではなく獲得するものとして、名実共に「血税」を払って共同体の一員になっていく能動的な国家感など、どれも近世の政治形態、国家のあり方に考えを及ぼすとき、参考になり思考の幅を広げてくれる知識と発想に溢れていた。
 それにしても、印象に残っているのは、なんと謀殺、暗殺、自死などが多いことか。人間のむき出しの感情が行き着く先は、「殺す」という行為だった。昨日まで敵であった国家を属州として受け入れ、分断するが同じ国家の一員として遇して、共生的に全体国家を形成していた半面、当のローマ中枢指導層では、まさに謀殺が日常化していたのだ。これには、驚きを通り越して、嫌悪感さえ覚えてしまう。あのカイサル(シーザー)でさえ、殺されたのだ。
 しかし、絶対君主制へ移行していく過程で、神権を授与された皇帝という、「神のみの元で」で統治を委託されたという形を取らざるを得なかったという事実は、実に面白い。何故なら、頂点にたつ人は、言ってみれば現代でも誰からも信任されることのないという意味では同じだからだ。日本の皇室問題を考えていくとき、万世一系という観点は、ひょっとすると世界史的にも唯一の発想軸かも知れず、その意味では、確かに尊い。神々との間に立ち、メディエーターとして永遠に存在し、軍務や政務は、人民の意向によって変わって行かざるを得ないあり方を選択しているというのは、本当に貴重なあり方なのだということが、初めて理解出来たように思う。

0 件のコメント:

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...