日曜日, 2月 11, 2007

塩野七生著「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」

ローマ人の物語を15巻通読出来て、なにか長いトンネルをぬけたような気分となり、いよいよ、ルネサンス期を扱った作品を集中的に読破したいと思っている。フィレンチェには伽藍のスタッフ的な人材もおり、彼女への勉強ネタにと数冊を選び、アマゾンにて国際宅急便で手配したのだが、その中には自分も読んでみたいと思っていた作品も含まれており、改めて入手している。この1冊もそういう対象の書籍である。
 チェーザレを一晩かけて読み切ったが、中世を経たキリスト教社会というものが、いかに聖職者の世俗化が、あるいは腐敗が進んでいたかを思い知らされる。ローマ法王の息子という環境からイタリア統一を野望とした男の物語である。同時期を生きたレオナルド・ダ・ビンチやフィレンチェのマキアヴェッリとの交流もでてきており、大変興味深い歴史小説だった。
 しかし、最大の勉強どころは、巻末に掲載されている沢木耕太郎さんの解説である。彼は塩野さんのあるエッセイに吐露された真情を解析して、次のような観点を披露している。引用してみたい。
ーーー 興味深いのは、塩野七生がなぜこのような政治観をもつようになったのかということである。その点について、彼女は最近「サイレント・マジョリティ」という連載エッセイの中で、珍しく素直に自己を語っている。彼女はそこで、自らを昭和12年生まれの人間の一人として規定し、その世代的な特徴を<絶対的な何ものかを持っていない>ところに求めようとする。マルキシズムとも戦後民主主義ともある距離を置いて接せざるをえなかったその世代は、イデオロギーからの自由を手に入れ、同時にエモーショナルな行動に対する冷淡さを持つようになった、というのだ。(引用終わり)ーーーー
 ここで私が注目したのは、「国家の品格」の著者藤原正彦さんの主張の中にも、この戦後民主主義やマルキシズム史観に引きずられている日本のインテリの間違いを指摘しており、さらに、長江文明の研究者で今や文明論者でもある安田喜憲さんも同じようにマルキシズム史観に引きずられた文系学問の限界を指摘しているからである。
 戦後日本の思想をリードしてきた民主主義、マルキシズムに代表される社会主義というものが、確かに現在の70代、60代の知識人には濃厚に影響されていることは、大学などという閉鎖社会にいると、嫌と言うほど感じてしまう。中でも、「自由」とか、「民主主義」の弊害を強く感じる。そのようなことを沢木解説から、改めて感じている。そして、何故、塩野さんがイタリアから発信しようとしたかも、見えてくるというものだ。

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