金曜日, 10月 03, 2008

自然に手を入れると言うことは……

里山が注目されている。人間が手入れをするから里山の生態系が維持され、山林や山の幸がとぎれることなく人々を長年にわたって潤してくれる。しかし、一端手を入れた自然を何かのきっかけで放置すると、自然は人間の恣意性を遙かに上回る猛威を持ってさまざまな植生が繁茂し、自然は自然のバランスを取ろうとする。そうなってしまうと、もう人間は手足も出ないくらいに、草木のジャングルが出現する。このような風情は、人の出入りが無くなった工場跡、人の棲まわなくなった民家の周辺で良く見受けられることだ。
 ここから学ぶことは、一端自然に手を入れたならば、つかず離れずの精神で、あくまで気長に自然とのコミュニケーションを絶やさず、自然と対話をし続けることなのだ。声を出して話しかけることを言っているのではない。例えば、草を刈り、お花を植えたとする。ならば、お花の回りくらいは草取りを欠かさず続けるとか、庭の樹木が繁茂する季節が来たならば、樹木にも夏向きに選定を施し、軽くしてやることとかを言っているのだ。
 我が造園の師匠の渡邊氏によると、昔風の土間の玄関先を持つ農家では、毎日、ほうきで枯れ葉などを集めるほうき掃除をしている。こうして毎日ほうきをかけるだけで、草は生えないそうだ。この精神が日本的な庭園創りの根底にある。インドネシア・バリ島の朝の風情もほうき掃除で落ち葉を集めることだ。
 そう言えば、幼い頃草取りを習慣付けられた記憶が甦ってきた。それは、こんな感じのものだ。小学校から帰って、カバンを家に置き、遊びに行こうとすると、「外へでたら、兎に角、草を10本抜きなさい。抜いた草は石の上に置いておけば枯れ草になり、たき火でもやせる。1回10本でも10回やれば100本。草取りは、たえず飽きないでやるもんだよ」。
 猫のみ騒動で旧宅へ出掛ける機会が増え、こんな感想を持つようになった。そして、世に言うガーデニング・ブームを疑問に思うようになった。管理されすぎのお庭には、何故か、心が響かない理由も見えてきた。その理由の一つには、日本の風土古来の植生を壊していく植栽が多いからかも知れない。外来の草花を多く植えれば、旧来の生態系が変化し、それに伴い、昆虫や野鳥の飛来も変わってしまう。昆虫が媒介した種子や種付け作業がなくなれば、草花は自然消滅していく。人間の趣味を維持し、継続的に楽しもうとガーデニングに励めば励むほど、本来の生態系から解離していくわけだ。これは、とんでもないパラドックスに気がついてしまった。旧宅の生態系をどのように維持するのか。これは相当深刻な、しかし、楽しみな課題になりそうである。

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