木曜日, 1月 31, 2008

アニメ完成試写会成功!

1月も今日で終わり。先日の29日、大学スタジオでアニメ完成試写会を開いた。学内だけのお披露目であるが、先生方数名に学生諸君も混じり、総数20数名の会となった。ある先生などは、最初は学生の作品と言うことで、「そんなに構えて観ようとはしなかったのだが、ついつい引き込まれて、最後は劇場で観ているのと同じ感じになってしまった。すごく、完成度が高い!」と言ってくださった。また、この10年間の我がセミナーの取り組みを見詰め続けてくれたコンピューター・センターの重鎮さんは、「タブロイド版にしても、雑誌にしても、DVDにしても、このセミナーの作品は、必ず前作以上の質的向上があり、これはもの凄いことだと思う。今回のアニメでは、特にイラストの品質が、格段にアップしており、すごいですね!」と褒めてくださった。それぞれ、有り難い感想に、「やらせてよかった」と安堵することしきり。
 これで4年生は、関係者を集めての打ち上げ(2日土曜日らしい)となった。就職先の研修会なども2月中旬くらいから始まるらしい。学生生活最後の長期お休みを有意義にすごしてもらいたいものだ。マジ、この1月末時点でプロジェクト終了宣言を出せてよかった。

金曜日, 1月 25, 2008

アニメ「モッソラー」完成

来週の火曜日1時から四日市大学スタジオでアニメ完成試写会が行われることになった。「モッソラー 妄想人宇宙(ソラ)の大学デビュー」(41分22秒)の完成である。私もこの期に合わせて新しく生まれ変わりたいモノだ。そこで、garan.co.jpの元で10年以上にわたり展開してきたHPをこの3月末で閉鎖し、その代わりにこのブログを当面の発信拠点にしようかと、考えている。取りあえずは、その報告から。

日曜日, 7月 01, 2007

DVD「鉄コン筋クリート完全生産限定版」、DVD「Paprika デラックス・ボックス」、CD&DVD「ZARD Golden Best 15th Anniversary」、一挙まとめて!

なつかしい坂井泉水さんの透明感のある歌声をバックに書き進めよう! この15周年記念アルバムは昨年発売されたようだ。しかし、彼女の不慮の死、そしてその後巻き起こった一種の哀悼ムーブメントに駆られて、オリコンでも上位に入る売り上げを叩きだしているようだ。そう言えば、最近カフェでかかっているJポップ系のバックグランド・ミュージックにも、確かにZARDが復活している。
 実は、私の場合、ZARDを知ったのは比較的最近のことである。どこかで聞こえている歌声を、「これ、良くかかってるよね、で、誰なの?」と学生に聞いて教えてもらったのが、いまから4,5年前のこと。当時は、宇多田、MISIAにはまっており、深く考えてみようとは思わなかったのだ。しかし、凄く大勢のファンが根付いており、バブル崩壊で行方を失った日本社会の底辺に位置する人々の心をガッチリととらえていたのが、実は坂井さんの歌詞の世界だったのである。
 青山斎場で行われたお別れの会のビデオを見ていて、かつて日本でセレブのお葬式、いや、死そのものが社会現象にまでなり、花をたむける行為が広がることは、そうそうないことだと思った。尾崎豊、X JapanのHIDEなど、数えるほどしかないが、彼女の死のインパクトは、何かそれらとは明らかに一線を画しているように思える。90年代を語るときよく使われる「失われた10年」というキーフレーズ。そんな、停滞期、閉塞感に包まれた時代に、多くの人々に普遍的な希望を与えていたのが、坂井さん楽曲、特に歌詞に込められた「思い」だったのだ。
 宇多田を考えることは、純日本的な感性と世界との結びつきであり、それはネット時代の時流そのものを考えることでもあるわけだが、ZARDは、そのような時流とは、一歩も二歩も引いた位置から語りかけていたことが、今になって理解出来るのである。だから、ZARDの楽曲がいま我々にもたらしてくれるものは、何かの反省であったり、振り返りであったり、過去の等身大の自分自身を思い起こす作用をもっているように思う。
 先週の木曜日、DVD2セット到着。それからというものは、繰り返し見ている。やはり、メディアを教えるものとしては、制作者の施策ノートというべきメイキングや絵コンテをこれでもかと見せてくれるパッケージは有り難い。特に、鉄コンのマイケル監督が語りかけてくるメイキングには、「今、世界のクリエーター、それも完成のするどいクリエーターたちの息づかい、感じ方」は、こうなんだということを、たっぷり感じさせてくれる。それは、「バベル」のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトウ監督にも感じた「ある感じ方」に近いものを感じ取っている。
 一方、今敏監督の大人で正攻法のアニメ創りには、手堅い実写映像のあつかいに近いものを毎回勉強させてもらっている。その中でも、車で雨の中を移動中のシーンで、車のフロントガラスを流れる雨だれをストーリー展開の象徴的にシーンに作り替える発想を生むプロセスの説明には、ある種の安心を受けてしまった。ランダムに出てくるイメージを寄せ集めて絵コンテを描いているセミナー生たちにも、「それで良いんだよ」と自信をもって言える何かを教えている。ありがたい、メイキングだった。

日曜日, 6月 17, 2007

鳥越憲三郎著「古代中国と倭族」

中国史を勉強するようになり、その筋の著作に目を通すたびに、古代に編纂された「史記」などの通史が、ことごとく中原の漢文化、漢人中心主義になっており、史記以前の正確な歴史や文化を探る場合、この漢人中心主義のフィルターを上手に剥がしながら考察して行かなくてはならないことを意識づけられる。
 この書籍は長江文明の担い手で、その後、北からの軍事的圧力により、中国各地、それも中国の南方や朝鮮と経由して日本に稲作文化をもたらした倭族についての概説書である。ほとんどの話題は、安田環境史観の書籍で知っており、その意味では追認するような感覚で読み進むことが出来た。しかし、弥生文化の担い手となり、縄文人たちとの森の文化と共存していたはずの弥生人が、朝鮮半島を経由して日本の九州に至った説は、若干、安田環境史観との違いをみせており、その点が今後の勉強課題となる。もう少し、鳥越先生の古代日本論を読んでみなくてはならない。
 最も驚いたのは、北の圧力で南下したり、辺境へと流れて行かざるを得なかった倭族の行き先として、インドシナ半島地域、朝鮮、台湾、日本というのは理解できても、インドネシアのトラジャ族(スラウェシ島)までもが、倭族の末裔だとする説には、本当かなという疑念が浮かぶ。もっと勉強しなくてはならない。しかし、紀元前の頃からインドネシアはインドと中国方面を繋ぐ交流の中継基地だったという事実もあり、無視できない説だ。
 また、倭族が中国南方の山岳地帯に創ったてん(さんずいに眞)国では、稲作の豊穣を祈願する祭りに女性の生け贄を捧げる犠牲祭儀が執り行われており、この風習は日本へも伝わっていたとの記述があり、非常に興味を覚える。

土曜日, 6月 09, 2007

山田洋次監督作品・藤沢周平原作3部作「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」「武士の一分」

世は藤沢周平流行(ばやり)である。NHK BSHiでは、各界の名士が藤沢作品との出会いと付き合い方を15分のドキュメンタリータッチで、ご本人の朗読付きで紹介する小番組を放送している程だから、その裾野の広さは相当大きいに違いない。このような思いに駆られて、昨年年末頃から作品を読みたい気持ちが募っていた。しかし、他の領域の書籍を、大学の授業準備、研究課題との摺り合わせながら読んでいたので、なかなか愉しむ機会が無く、半年が過ぎようとしている。
 そこで先週から、原典読書はさておいて、山田洋次監督3部作を一気に体験するDVDツアーを行った。まず、昨年公開され、木村拓哉が主演を演じたことでも話題となった「武士の一分」から始めた。続いて、真田広之主演の「たそがれ清兵衛」、永瀬正敏主演の「隠し剣鬼の爪」を連続鑑賞。どの話にも似たような共通性があることを発見し、「そうなのか、なるほど、なるほど」という感じである。
 どの話も、下級武士が主人公となっている。そして、赤貧の生活を慎ましやかに、精々として励みながら生きている。ところが一端藩に事件が起きると、この者たちは、翻弄され、愚弄され、生きるか死ぬかの窮地に立たされるのだ。ある主人公は藩命にさからったかつての盟友を成敗するお役を申しつけられ、ある者は藩の役として毒味をしていたことから失明し、生活は困窮し、そのために妻を不貞へと走らせてしまう。あるいは、心優しい性格から身分の違うかつての奉公人を嫁ぎ先から連れ出してしまい、世間から白い目で見られてしまう。それぞれ、人としての最も大切すべき誠意、慈愛、慈悲の心に溢れた主人公たちが、自分に降りかかった不条理を、それぞれの努力と勇気で乗り越えていくのだ。
 その姿が感動を呼ぶ。主人公たちは、決してヒーローではない。池波正太郎作品に出てくる鬼平のような英雄譚ではないところに、多くの人々が共感を覚えるのである。それは、「勝ち組、負け組」といった不条理な二分法がまかり通っている「今」だからこそ、輝きをもって受け入れられる素地を、私たちに示してくれるのだ。
 さて、助演陣、特に女優の存在にも触れてみたいのだが、山田洋次監督3部作の初期2作品には、宮沢りえ(たそがれ清兵衛)、松たか子(隠し剣鬼の爪)という名の売れた女優を配しいている。ご両人とも、水準以上の演技を披露しているとは思うのだが、私は、木村拓哉の相手役を務めた、檀れい(武士の一分)に注目した。この女優にはいままでの女優にない、極めて特異な華がありそうだ。私は彼女の次回作に注目したいと思う。彼女には、相当に大きな、スケール感の大きな役者としての潜在力を感じている。
 雨の夜長、雪の降る寒々しい夜、これらの作品を再度愉しむことにしょう。心を浄化してくれる、そんな世界が期待できるから。さて、小松菜の煮物でも創ろう。

日曜日, 6月 03, 2007

井筒和幸監督作品「ゲロッパ」「パッチギ」

パッチギ関連で、井筒監督の代表作を2点、この週末鑑賞した。ゲロッパは、エンターテイメント映画として成功しており、パッチギ第1作も、先に紹介したとおり、優れた青春映画となっている。若手のタレント陣のなかには、今後のムービースターとして伸びて行くであろう事を予感させてくれる人材もいる。その若手を井筒学校で鍛え抜いている姿にも好感をもつ。
 しかし、何かが足りない気がするのだ。突き抜ける「何か」が。シネカノン・プロデュース作品としては、その突き抜ける「何か」を見事やり抜いているのが、今年の日本映画の祭典で数々の賞をを受賞している「フラガール」だ。この映画の最後に出てくる蒼井優のソロでのダンス・シーンは圧巻であり、観客は充分にカタルシスを楽しめて解放されるだけのインパクトがあるのだが、「ゲロッパ」「パッチギ」には、そこまでのパワーがないように感じている。

徳川恒孝著「江戸の遺伝子ー世にも不思議な江戸時代」

徳川宗家第18代当主が解説する江戸時代。確かに不思議な語り口の本だった。元日本郵船社員として世界の各所に駐在した見識を江戸時代を構成する社会問題、文化のあり方、自然環境感を交互に交えつつ、日本的なるモノの特質を易しく解説している。その先に見えているのは、未曾有の環境問題であり、人口爆発の後に来る食料自給問題であり、心のあり方としての社会論である。
 環境学者安田先生の主張にも通じる側面を持つ話題としては、水田の収量を確保にかけた江戸の農業政策がいかに優れており、同時期のヨーロッパには見られない高品位の政策を江戸幕府はすすめていた話である。里山を綺麗に、丹念に整備し、灌漑用水を整備させ、これにかかる費用は藩の責任によって行わせた話などが端正に綴られており、気負う間もなく読了してしまった。戦国の世から中庸で平和な国家への変身に、いかに徳川は執政を司ったかを、品良く語られており、その語り口は、あくまで上品である。文章に、品位がにじみ出ており、さすが当主様だと、感心してしまった。
 史実として驚いたことは、ペリーの浦賀来訪を、長崎に出入りするオランダ人の幕府ご用係からすでに知っており(アメリカのミッションが来航し、捕鯨船の薪炭、食料飲料の補給基地として、日本に開港を迫る目的で)、これまで歴史を語るときにあたかも「突然浦賀沖」に出現し、日本国中大騒ぎになったがごとくの言い回しになっているが、これは謝りであることが示されており、実に面白い。
 あるいは、江戸時代が進むと武士階級は経済的に疲弊していったが、農工商は逆に潤い、自由闊達な社会へと社会が安定していった話などは、なるほどと思ってしまった。さらに、江戸時代は、全国津々浦々で私塾や藩校が盛んに教育を進めており、ヨーロッパの中世から近世にかけてのように、階級による教育の遮断的な状況が無かったことが、近代日本となり、欧米列強と即座に肩を並べうるキャッチアップが可能になった素地だったことも述べられており、納得である。
 現在、江戸の教育制度についての書籍をアマゾンに発注しており、しばし、江戸物で行こうと考えている。

日曜日, 5月 27, 2007

「イムジン河」井筒和幸監督作品「パッチギ Love & Peace」クァク・ジェヨン監督作品「ラブストーリー」

今年の4月からNHK BS2では、原語(朝鮮語)による「チャングム」の再放送が流れている。金曜日午後8時頃から始まるこの再放送を、なんと私は、またもや、はまってしまって、見ている。確かに朝鮮語による映像には、日本語に吹き替えにはない迫力があり、語感に潜む別の情緒世界を味わえる。あの意地悪で、上昇志向の強いチェサングンさんの声が、やけに可愛かったりして、思わぬ魅力を発見できる再放送は、面白い。NHKだけで3回も再放送になったドラマなど、過去にあったであろうか?
 私は昭和26年生まれのラジオ世代だ。小学校6年の時、父親が早朝のNHK英会話の放送を聞かせるために買ってくれたトランジスターラジオから、ラジオとの付き合いが始まった。中学になる頃には、湯川礼子さんがDJを勤める番組でビートルズを知り、地球の裏側の流行を想像していた。高校受験時には、すっかり深夜放送族になっていた。ジェットストリームの始まりを心待ちして、深夜飛行に憧れていたものだ。
 深夜放送を聞く習慣は、高校生になるとさらに日常化した。そして、高校1年生のある頃、私が始めて音楽を強く認識したある曲が流れたのだ。3人組のフォーククルセーダーズが唄う「イムジン河」。こんなに胸を締め付けられるような旋律がこの世にあるのかと驚き、マジで、凄い発見をしたような気になり、毎晩この曲がかからないかと期待する日々が始まった。しかし、数回放送された頃には、「これからは放送出来なくなりました」という事態になり、曲の背景にある朝鮮半島を巡る複雑な政治情勢があることを知り、こんなことで放送が禁止になるなんて「おかしい」という思いに駆られたものだ。これが私の初めての政治意識に萌芽だったのかもしれない。
 私には、その後のフォーククルセーダーズの曲、例えば、「帰って来たヨッパライ」や「悲しくてやりきれない」、「青年は荒野を目指す」など、名曲がたくさんあるのだが、今も「イムジン河」だけは、別格の存在として、心に響いている。昭和42,3年頃から、東大紛争があった昭和44,5年頃にかけてのサブカルチュア・ムーブメントは、この「イムジン河」に象徴されているように思うのだ。今から、約30数年前の話である。
 この曲をフュチャーした映画が2005年に公開された井筒和幸監督作品「パッチギ!」である。この5月にはシリーズとも言える「パッチギ Love & Peace」が劇場公開されている。数日前、テレビ放映された第1作目「パッチギ!」をみて、引っかかった。全編にわたって「イムジン河」がテーマミュージックのように扱われていたからだ。そこで、現在公開されいる「パッチギ Love & Peace」も見てみたくなって、昨晩、レイトショーに行ってみた。観客は、私を含めて4人。折からの「パイレーツ・オブ・カリビアンⅢ」には長蛇の列ができているというのに。
 見終わって、変な違和感に襲われた。それは、日韓に横たわるひずみそのもののように感じられた。在日の方々には申し訳ないが、無理して理解しよう、時代背景やエピソードを無理して日韓に横たわる問題にすり寄せようとし過ぎなのだ。ジメジメとした感傷が残ってしまい、爽やかになれなかった。第1作目の方が、はるかにストレートで、青春映画として成功していると思えてならない。その感情は帰宅しても消えず、口直しが必要になった。それも、ペヤングの焼きそばでは駄目なのだ。結局、口直しは、クァク・ジェヨン監督作品「ラブストーリー」となった。千五百円のレイトショーは何だったのだろう......。

日曜日, 5月 13, 2007

筒井康隆原作・今敏監督アニメ作品「Paprika(パプリカ)」

筒井康隆さんの小説が立て続けにアニメ化されている。「時をかける少女」と「Paprika」だ。どちらも話題作。世界の映画祭に招待上映され、評価が高まっている。なかでも私は、「Paprika」に期待している。監督は今敏さん。アニメ「千年女優」の監督さんだ。
 実は、「Paprika」に注目しだしたのは、その「千年女優」を観たからだ。アニメを見続けると、アニメ的ビジュアルの飛躍した表現に、ときどきうっとうしさを感じる局面があり、実写の映画を観ているときとは違った鑑賞のためのスタンスを無意識に取っている場合が多い。しかし、4ヶ月ほど前、DVDを手に入れて「千年女優」を観て、そういったうっとうしさを全く感じさせない展開に気がつき、今監督を注目するようになった。その監督の最新作として注目していたのだ。
 もう少し説明すると、アニメなのに、実写フィルムを観ているような感覚で観ることが出来るアニメを創っているのが今作品なのではないかと、勝手に仮説している訳だ。
 そして、つい最近、アップル・コンピューターのサイトにあるムービー・トレーラーでHDサイズの予告編を観て、ハマってしまった。しかし、短期間の劇場公開を逃してしまうと言う、誠に残念な出来事があり、DVDが発売されるのを待ち続ける日々だったのである。それが、5月23日に通常版だけでなく、HDバージョン(UMD版・Blu-ray版)も発売されるとの、アマゾンからのお知らせが届いたのである。即、予約した。一刻も早くアニメ・プロのメンバーに勉強させなくてはならない。
 大学では、月曜日の3限目に出版文化論を担当しているが、近年はすっかりパワーポイントのお世話になっており、授業開始前の昼休みにセットアップすることが日常化している。だいたい15分前にはセットを完了するのだが、テストのために、iTunesのデモ音源をPAしてみたり、QuickTimeのMovieTrailersを再生したりしている。そして、この「Paprika」を再生したときは、面白い反応が届いた。授業の終わりに女子学生2人組が私の所に来て、授業の質問かと思いきや、「あのアニメ、どういうアニメなんですか? どこへいけば観れるんですか?」と尋ねてきた。たった2分あまりの予告編で、こんな反応は今までにないこと。後日、その質問にきた学生が食堂で私を見つけ、「先生、悔し! 東京まで行かないと、見れない!」。いやはや、衝撃度は、マジすごかった。
>>>Paprika オフィシャル・サイトへはこちらから>>>

土曜日, 5月 05, 2007

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作品「アモーレス・ペロス」「21g」

「バベル」を観て、改めてイニャリトゥ監督作品を勉強しなくてはならないと決意。アマゾンで中古DVDを入手し、連続して鑑賞した。
 「アモーレス・ペロス」のDVDジャケットのキャッチに、「メキシコ映画界のクエンティン・タランティーノ」とある。「バベル」の成功で、この称号は外されるに違いない。いや、「21g」の成功で、すでにタランティーノを超えていたと思う。エンターティメント性の強いタランティーノとは明らかに違う方向性を持った監督だからだ。「バベル」を含む3作に共通していることは、社会の中の平均値に添って生きていくことが難しくなった人々から表出してくる生地の人間性を、大切に、美しく、詩的に扱おうとしている点だ。
 そのために、そのような極地に追い詰められた人々に、詩的なモチーフを背負わせて、そのモチーフの重なりを叙情的センスで丹念に編集し、時にはストーリーの時間軸さえ前後させてしまいながら、独特の映像空間を構築している。観客は、当初とまどい、疑い、自問し始め、そして、だんだんイニャリトゥ・ワールドへ引きずり込まれ、最後には、半分は謎解きが出来て、半分は不可解な感情や理性にさいなまれるという、まことに不思議な映像体験にさらされるのだ。決して不快ではない。だが、重い、息苦しい。このような、社会派、あるいは新感覚主義ともいえる手法で、重いテーマを持つ映画が、ハリウッドを頂点とするアメリカ映画産業界で受け入れられていること自体が、私には驚きなのだ。
 際だったモチーフとは、例えば、何らかの理由から平和な家庭生活を放棄し、ホームレスのような生活をしながら沢山の犬たちとの共同生活をする男。ところが、彼の唯一の収入源は請負殺人。あるいは、兄嫁に真剣に恋して、駆け落ちしたいがために兄を敵に売ってしまう弟。心臓疾患を持ち、移植でしか生き延びられなくなった男。しかし一端移植が成功すると、提供者の死について考えだし、心臓提供者の事故死によって残された妻と、関係を持ってしまう。また、死んだ夫の心臓を移植された男にしか心が開かなくなった女。母を自殺で亡くし、父親と二人で暮らす聾唖者の娘。性に訴えてでも、自分の抱えた孤独や社会の偏見からくる怒りを解消しようとする少女。どれも極端な設定なのだが、生地の人間性を、これでもかと言わんばかりにえぐり出すドラマ性。その手腕は、むしろ、心理描写に長けた小説家か、詩人のようである。
 このように考えてくると、イニャリトゥ監督にとって映画とは、まさに「詩」なのではないだろうか。言葉で綴られる小説や詩は、行間を読者の自由な想像力に委ねることを前提としている。それでは不十分だと言わんばかりに、映像での表現を追究する。この人は、映像こそが、混迷したイメージ世界に秩序を与え、あるいは、対抗出来る唯一の表現方法、メッセージ力なのだと確信しているに違いない。

月曜日, 4月 30, 2007

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作品「バベル」

先週の金曜日頃から、このところ途絶えていた映像体験研修を集中的に行っている。主に、DVDと映画館へ出掛けての研修である。研修対象作品は、DVDでは宮崎アニメ「魔女の宅急便」「のだめ・カンタービレ」「プラダを着た悪魔」、映画館では「バベル」「クイーン」の5作品である。
 それぞれ勉強することはたくさんあったのだが、ここは「バベル」について考えておこう。監督は、メキシコ人のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、1962年生まれの45歳。これも話題作となり役者たちがアカデミー賞にノミネートされた「21グラム」の監督でもある。この映画の底流を流れるテーマは、「境界を形成するものは、言語、文化、人種、宗教ではなく、私たちの中にある」(公式HPの監督紹介コーナーから引用)だという。確かに、このような難しいテーマを見事に描ききった手腕には驚いた。しかし、さらに驚いたことは、このテーマをアメリカの映画界がこぞって受け入れ、アカデミー賞の作品賞の対象にもなったことだ。
 人間の奥底にある「境界」を創り出してしまうもの、いわば、人間としての「業」のようなものを普遍的に描こうとしているように思う。確かに監督自身の言葉や、そしてタイトルは、旧約聖書から借用した「バベル」。しかし、私にはもっと他にメッセージがあるのではないかと思った。それは、アメリカ型のグローバリゼーションがいま世界にもたらしている「傷」についての叫びである。傲慢で身勝手なアメリカ人夫婦をおそった被弾事故から、物語は同時進行的にモロッコの砂漠地帯とモロッコ人通訳の住む貧村、メキシコからの善良な出稼ぎ家政婦と彼女の息子や従兄弟たち、そして、不法入国が恒常的に問題化しているアメリカ・メキシコの国境砂漠地帯、銃撃に使われた銃の元所有者である日本人の父親と聾唖者である娘。住んでいるのは欧米化した都市文化とは明らかに異相の発展を遂げている東京。
 人の心の中に巣くう砂漠のような、乾いた、ザラザラしたもの。その象徴としての乾いた大地、はげ山と化しているモロッコの山岳地帯。晴れやかなはずの結婚式のフェスタが開かれるメキシコの貧村にも、砂埃が立ちこめ、祝祭の行く末に不安を投げかけている。それは、華やかでコンクリート・ジャングルと化した東京の繁栄の中にある実像として砂漠にも繋がる映像。見事な構成力で観る人々に気付かせてくれる何か。見事な映画としか、言葉がない。
 全体的にドキュメンタリータッチの映像が続く中、一カ所だけ、生っぽいシーンが出てくる。それは、メキシコからの家政婦がアメリカ人夫妻の二人の子供を自分の息子の結婚式に連れ出し、帰り道で国境を監視するポリスとトラブルを起こしてしまい、不法滞在がばれて、即刻国外退去を言い渡される留置場でのシーンである。この部分だけは、定式化したアメリカ裁判映画のタッチで、そのシーンだけが、やけに「生っぽく」描かれている。そのシーンだけは、実に異質なのだ。監督の明らかなメッセージといえるのではないだろうか。
 何故なら、観客をある種のカタルシスへ誘うシーン群、例えば、警官隊に追い詰められ、兄を死なせてしまい、ついには自ら銃撃犯であることを叫び、兄を助けてくれ叫ぶシーン、あるいは、孤独の局地から父親の懐に抱かれ、絆を回復していきそうなことを予感させるマンションのベランダでのシーン(役所広司と菊池凛子)、ハイウェイ国境の出口へ強制退去を強いられた母親を息子が出迎えるシーン、これらの、いわば安堵させるシーン群ですら、ドキュメンタリー風の映像美で綴られているからだ。
「バベル」公式HPへのリンク 

金曜日, 4月 20, 2007

リリー・フランキー著「東京タワー オカンとボクと、時々オトン」

書店の店員が推薦する書籍として、最初じわじわ、なかぱっぱ、一昨年の暮れには大ヒットとなった本である。そして「2006年本屋大賞」を受賞。なんでも、200万部を越す大ヒット本だ。私は、ずっと気に掛かっていたが、常に無視していた。しかし、あることから、ついに読んでしまった。その経緯から説明しよう。
 最初は、この冬の月9ドラマからだ。速見もこみち主演、助演が倍賞美津子の11話を全部完全に見通したのではないのだが、まだら状態で、とにかく観ていた。だいたいストーリーは掌握した。春には、日テレ系列から劇場映画となることも知っていた。そこで、テレビと映画では、どのような違いがあるのか、それを観てみたい。演出の違い、挿話の扱い方、演技人の共通性、あるいは非共通性など、観察ポイントはいろいろイメージ出来た。日テレVSフジテレビという観点もある。何より、全体を通してのトーンがどうなっているのかを、直に確かめたくなったのだ。
 先週の土曜日、暇を見つけて、劇場映画「東京タワー」を見に行った。こちらは、主演はライフカードのCMでおなじみのオダギリジョーさん。オカンは、樹木希林。オカンの若かりし頃の役は、樹木希林の実の娘である内田也哉子。内田也哉子は、樹木希林とロッカー内田裕也との間に出来た一人娘で、役者本木雅弘と結婚し、子供二人の母親でもある。そう! まず、このキャスティングが、気が利きすぎているのである。樹木希林、内田裕也……、と想像すれば、別居状態夫婦という立派すぎるイメージがあり、「リリーさんちと同じじゃないか!」と思ってしまう。これって、マーケティングなの? マジ、キャスティングなの??? という、観客にはまたとない興味を、持たせてくれるのである。
 映画を見終わり、私としては珍しく最後のクレジットロールまで付き合ってしまった。初日の昼の上演だった。土曜日と言うことで、中年の夫婦連れが多い。明らかに目を腫らした人を見てしまった。かくいう私も、自分の母親を思い出しながら、映画に没入してしまっていた。マジ、何年かぶりで、たぶん、20年ぶりくらいで、ドラマを見て、涙がポロポロ落ちていた。
 正直にいうと、この映画、出来すぎである。これは素晴らしく上質の映画になっている。何より、樹木希林さんの演技が秀逸なのだ。見事というほか、言葉がない。まさに、化け物役者。そして、その娘の演技も素晴らしいのである。その存在感は、リリーさんの恋人役を演じた松たかこを完全に食っていた。こりゃ、内田裕也オトンもメロメロになるに違いない。これがきっかけで、樹木希林との同居へと、よりを戻すのではなかろうか、とは巷の邪推である。
 こうなると、原作に当たらざるを得なくなり、読んでしまったと、いう訳である。読んでみたところ、さらに涙腺が緩くなってしまった。映画を観てから約28時間後の深夜には、涙で文字がぼろぼろになり、眼精疲労克服のためにやもをえず、就寝しなくてはならないくらいだった。書籍の帯に、ある書店員さんが書評を書いていたが、「リリーさん、これは反則だよ!」。私はこの本を、セミナー生に薦めようと思い、2冊購入。研究室に置いてある。
 さて、テレビドラマ、劇場映画、原本と確かめてきたわけだが、原書から逸脱した演出、脚色上の配慮から若干書籍のストーリーを膨らませて演出した部分など、実に面白い発見があった。特に、主人公のリリーさんと彼女、そしてオカンとの交流部分が、見事に脚色されている。こういうのって、リリーさんや元彼女の了承積み演出なのだろうか? でも、ここでテレビVS映画の勝負の軍配を決めなくちゃ成らないのだが、私は映画の方が、この書籍の持つ時代的な意味を良く汲み取って演出編集してあり、絶対的に支持したいと考えている。
 原作者リリー・フランキー:1963年生まれ。脚本松尾スズキ:1962年生まれ。監督松岡錠司1961年生まれ。素晴らしい才能が花を咲かせている。
 この作品を調べていて、もう一つ、嬉しい発見があった。私はセミナーでアニメプロジェクトのメンバーに8分間のアニメーション「岸辺の二人 Father and Daughter」を必ず参考作品として見せている。このアニメを観たあるメンバーなど、8分後には泣いてしまった子がいるくらい素晴らしい作品であるが、その絵本バージョンがくもん出版から発行されている。その翻訳が、内田也哉子さんだったのである。こういう、目に見えない「縁」を発見したとき、私は自分の感性の行方を再確認出来て、とても嬉しいのだ。信じるべき「何か」を確認できたようで、幸せである。
映画「東京タワー」オフィシャルサイト

日曜日, 3月 11, 2007

華麗なる同期現象 安田喜憲著「日本よ、森の環境国家たれ」中公業書を読んで

ここ数日、塩野作品を離れて安田喜憲先生の「日本よ、森の環境国家たれ」を読んでいた。欧米型で一神教の文明と多神教で稲作漁労を主体とする文明とを、家畜の民の「動物文明」とし、森の民の「植物文明」と対比して論じる環境論には、いつもの事ながら、明解さとその科学性豊かな説得力に胸のすく思いだ。
 そんな中、3日前の夜、これも久しぶりに宮崎アニメ「天空の城ラピュタ」と「もののけ姫」を勉強していた。特に、「もののけ姫」の主題は、まさに安田文明史観と同じじゃないかと、驚嘆してしまった。自然を侵略し、自然を人間の従属下に置こうとする勢力と自然に畏敬の念を持ちつつ神々の怒りを鎮めようとするアシタカたちの対比は、動物文明と植物文明の対決の構図を見事に踏襲しているように思えてならないのだ。安田先生は「もののけ姫」をごらんになっておられるのだろうか? もしご存じであるならば、是非、感想を聞いてみたいものだ。確かに、安田先生は不死鳥にまつわる先見性ということで、手塚治虫作品「火の鳥」に言及されていたことは覚えているが、宮崎作品についても書いてもらいたいものだ。
 そんな感想を持ちつつ読み進めていたところ、ケーブル・テレビのヒストリーチャネルでNHK番組「その時歴史が動いた」の再放送が流れていた。南方熊楠の神社合祀令反対運動についてのものだった。エコロジーという共生社会の発想を日本で始めて知らしめたのが、この反対運動を通してのことだったことを知り、唖然とした。いまからすでに百年前に、エコロギーというキーワードを使って、鎮守の森のご神木を伐採し、山を裸にしていくことの危険性を説きまくったその姿は、何故か、安田先生や大橋力先生の姿と重なって見えてしまったのだ。
(※2004年7月放送の「その時歴史が動いた」 世界遺産 熊野の森を守れ 〜南方熊楠・日本初の自然保護運動〜)
 ここまで来ると、私の周辺で見聞きすることが、何か、華麗な同期現象に包まれているように思えてしまう。アニメの勉強でさえ、環境問題の一つの事例研究になってしまうわけだから。こういう日々を過ごせるいまの情報環境の素晴らしさに感謝したい。

金曜日, 3月 02, 2007

塩野七生著「海の都の物語 上下」

塩野さんのルネサンス著作集7巻のうち、のこるは、「ルネサンスの女たち」と「神の代理人」だけとなった。ヴェネツィアの一千年を通観する歴史概説書なのだが、そこは小説家としての興味から歴史を知ろうとする塩野さんらしいさまざまな逸話に彩られた実に読み応えのある800ページだった。
 蛮族の襲来に恐れた人々が馬に乗って襲って来れないラグーナ(潟)に立てこもったことからヴェネツィア共和国は始まっている。中世時代のヨーロッパは専制君主国が林立した時代だったが、ヴェネツィアは共和制を取り、政務をボランティアで行う一種の名誉職としての貴族たちが国会と元老院を運営し、さらに現在のアメリカ合衆国の国家安全保障委員会とCIAを兼ね備えた十人委員会なる国家最高決定機関を持ち、さらに国家の顔としての元首(ドージュ)を置いていた。しかも、元首にすら専横させないためのルールを張り巡らして、周知を集め、方針決定の精度をとことん追究するシステムを結実させていた。
 この政体のお陰で、通商国家として中世最大の経済大国として地中海世界に君臨するようになったのだ。この時期イタリア国内は、大小さまざまな都市国家の時代だったのだが、このような共和制を惹いたのはヴェネツィアだけだった。その独立性は、他国がことごとくヴァチカンへ擦り寄るなか、一定の距離を保ち、多文化を受け入れ、言論の自由を保障し、おおらかな気風を保ち続けていた。その半面、共同体への参加、奉仕、貢献を、子供の頃から徹底してしつける側面も持ち合わせていた。
 男子は少年時代から交易船の船員として海での仕事や戦闘要員としての訓練が義務づけられ、この訓練期間が終われば、貿易商人として地中海を股にかけた商業活動に従事し、壮年になっては本国に腰を落ち着けて国政に参加する。財をなし、貢献度の高い人は元老院メンバーとなり、無給で国政に参加を義務づけられていた。なんと、無給で。しかも、一朝事あらば、戦費負担は国民に先駆けて供出したというのだから、この時代のヴェネツィアの貴族たちは、ローマ帝国の戦士たちの伝統を引き継いでいたことになる。
 この物語は「ローマ人の物語」に先だって著述されている。その意味では、逆順で読んだ私には、「ローマ人の物語」で示された塩野史観のプロトタイプを観る思いだ。触れられている話題は、街の風俗から国政の最高決定のプロセス、外交に先立つ情報収集のためのスパイ活動や、実際にあった戦争戦記、それも海陸双方での戦いの始まりから顛末までなどなど、多岐にわたっており、息のつく暇もなく、没頭して読みまくった。面白い!
 さらに、出版文化論の話題まで頂戴してしまった。何故、ヴェネツィアは15世紀から18世紀にかけてヨーロッパの出版界をリードし続けたのか、その起因はなんだったのか。実に有り難い勉強をさせてもらった。

日曜日, 2月 25, 2007

ロビン西原作/湯浅政明・森本晃司監督アニメ作品「MIND GAME」


2004年度に公開された作品で、コアなファンを惹きつけたアニメ作品である。理不尽で最悪の殺され方をした青年・西が黄泉の世界入り込み、ハチャメチャな幻想世界で現実社会への復帰を目指すのだが、そのプロセスの奇想天外なストーリーにハマってしまった。こういう作品を発見してくるようになった我がゼミ生たち。なかなかセンスが成長してきたものだ。頼もしい限り。27日のセミナーミーティングでは全員で鑑賞してもらいたいものだ。
 常々、私は彼女たちに、アニメなんだから、現実的にはあり得ないことでも、アニメだったら実現できるのだから、「飛んで」いいのだ、イメージをハチャメチャに膨らませていいのだ、ということを言い続けている。しかし、これまでの生活の中で染みついてしまっている既存イメージというものは、なかなか突き崩せない。門塀が灰色だという固定観念に染まっている貧困さをどうしたら気付いてくれるのか。悩むことが多々あり。そういう場合は、こういう作品に刺激されるべきなのだ。
 この作品を観て、イメージ、あるいは表現するに当たってのバリアというものは無いのだといことを、感覚的に理解してもらいたいのだ。要は、描きたい世界に、どこまで自分の想像力を膨らませ、それを着地させるためにいかに造形に腐心するのか。そういう努力でしかなにのだ。リラックスしていなくては、イメージの世界に遊ぶことなど、出来ない。堅苦しい規制的な発想では、到底無理。どう破るか。どう捻るか。どのように遊ぶか。という、まさにマインドのあり方の問題なのだ。
 今年は、鉄コンに目覚め、マインド・ゲームに勉強ネタを発見し、千年女優に手堅い制作方法を学び、我がセミナーのアニメへの挑戦は実に充実してきた。嬉しいね!
 上のイラストはDVDの特典として付いてきた湯浅・森本両氏の「OUR MIND GAME」と題されたポストカードである。イラストとしても、凄く、イイ!

水曜日, 2月 21, 2007

ジェームズ・キング著 栗原百代訳「中国が世界をメチャクチャにする」

原題はチャイナ・シェィクス・ザ・ワールドである。中国が世界を震撼させるとでもいう意味であろう。邦題は、いささか日本のテレビのバラエティ番組風であるが、その内容は、実に論理整然とした現代中国社会分析論である。やはり、第一線のジャーナリストの話は、私には肌合いが良いようだ。
 13億人とは、全世界の人口(65億)の約1/5である。その中国人たちが改革開放政策によって資本主義的経済社会を一党独裁政権下で推し進めたのだから、中国国内には一般的な、そう、欧米日本のような市場主義社会で民主主義国では絶対に起こりえない矛盾が醸成されてしまっても、当たり前と言えば当たり前。だが、その規模、影響力が前代未聞のスケールで展開しているのだから、たまったものではない。低賃金をいいことに、製造業では世界の工場と化した中国企業が、それまで製造業の本場として地位を確立していたアメリカやイタリアの手工業都市を直撃し、ことごとく廃業に追い込んでいる様には驚いた。
 さらに、国家からの規制などなきがごとし。欲望のおもむくままに、世界の資源を食い尽くしていく勢いには、経済社会を見続けてきた専門家には脅威と映るようだ。しかし、取り上げている事例がことごとく信頼性のある事例だけに、空恐ろしくなる。
 例えば、ここ福井の地からでも実感されることとして、酸性雨の問題がある。これは中国の空位汚染の影響である。その中国国内のエネルギー消費は半端ではなく、その中には非合法的にシベリアの森林地帯から木材を切り出して、工業製品やエネルギーそのものとして使用している実例が示されていた。黄河では水量が年々減少しており、中国本土中央部から北東、北西部へかけての水不足、砂漠化の問題は、黄河流域の工場地帯からの汚染水公害問題と相まって、危機レベルに来ていることなど、その深刻さが述べられている。
 読み応えのあるテーマがここ彼処に登場するが、最大の焦点は、欲望にまかせて肥大化する中国経済が、もはやエネルギーを中心にそのほとんどを世界からの輸入に依存していることで、そのことへの対抗手段として、西欧やアジアの国々が保護主義になることだと予測している点だ。そして、モラル欠如から、世界が中国離れする事態に至りそうなことを警告している点であろう。
 経済視点の書籍はあまりなじみがないのだが、この書籍は必読だった。読み応え、150パーセントの五つ星というレベルか。

火曜日, 2月 20, 2007

塩野七生著 ルネサンス歴史絵巻3部作

塩野さんのオペラ(作品)には、真面目に取り組んで読まないといけない歴史解説書とのいうべきガッチリした学術書的な作品と、実際にあった歴史上の出来事を背景とした、いわゆる時代小説と呼べる作品とがある。前者の代表作は「ローマ人の物語」やヴェネツィア共和国盛衰史を描いた「海の都の物語」であろう。これらを読み下すには、多少気合いが必要である。しかし、後者の時代小説、それもエンターテイメント性を考慮された作品は、気軽に構えて、楽しみながら読んでいける。それも、その時代の核となる学術書タイプのガッチリ作品を読んだ後であるならば、さらに楽しさも倍増して、その時代の空気感にひたりながら楽しめるというものだ。3部作を先の週末、東京との行き来の車中、テレビ鑑賞を潰して、一気に読んだ。
 「緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件」「銀色のフィレンツェ メディチ家殺人事件」「黄金のローマ 法王庁殺人事件」の3部作は、実にエンターテイメントだ。ただし、フィレンツェから入り、ローマにぬけ、ヴェネツィアへ戻った。本当は、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマへと進むべきなのだが、主役たちの最後を知りつつ、最初に戻って読むのも、おつなものである。ヴェネツィア共和国盛衰史「海の都の物語 上下」「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡」「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」を読み下した後であるならば、その時代のイタリア人になったかの錯覚を持ちながら楽しめるように出来ている。
 私の場合、残念ながら「海の国の物語 上下」だけは、いまだ手をつけていなかった。これから勉強するつもりだ。

水曜日, 2月 14, 2007

塩野七生著「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡」塩野七生ルネサンス著作集第7巻

権謀術数の代名詞となっているマキアヴェッリ。そのまがまがしいイメージから、正直言って毛嫌いしていた。何も知らないのに、だ。読んでみて、イメージが一変した。なんと生真面目で、理想主義者で、でもどこか嫌らしいく、人間的。何より、政治の基本を人間の持つ正邪両面を見据えた上で国家運営を考えたり、そして国益重視の外交だったりと、政治の技術に薄っぺらい正義感や宗教的倫理観などを介入させないクールで冷徹な観察眼に引きつけられた。
 それにしても塩野さんは、真っ正面から対象に向かっている。この姿勢がビンビン読者に伝わり、権謀術数の人も、ただの「男」として丸裸にしてしまっているのには、痛快ですらある。喜劇の脚本まで書いていたとは。塩野さんはこのテーマをローマ人の物語を書き終えるのが見えてきた頃から取り組んでいるのだが、確かにカエサルやアウグストゥスなどの権勢を知った上だと、より理解しやすい。その意味でも、私もようやくルネサンスを勉強するための入り口に近づいたようだ。次は、塩野七生ルネサンス著作集の1巻、2巻へと進みたい。

日曜日, 2月 11, 2007

塩野七生著「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」

ローマ人の物語を15巻通読出来て、なにか長いトンネルをぬけたような気分となり、いよいよ、ルネサンス期を扱った作品を集中的に読破したいと思っている。フィレンチェには伽藍のスタッフ的な人材もおり、彼女への勉強ネタにと数冊を選び、アマゾンにて国際宅急便で手配したのだが、その中には自分も読んでみたいと思っていた作品も含まれており、改めて入手している。この1冊もそういう対象の書籍である。
 チェーザレを一晩かけて読み切ったが、中世を経たキリスト教社会というものが、いかに聖職者の世俗化が、あるいは腐敗が進んでいたかを思い知らされる。ローマ法王の息子という環境からイタリア統一を野望とした男の物語である。同時期を生きたレオナルド・ダ・ビンチやフィレンチェのマキアヴェッリとの交流もでてきており、大変興味深い歴史小説だった。
 しかし、最大の勉強どころは、巻末に掲載されている沢木耕太郎さんの解説である。彼は塩野さんのあるエッセイに吐露された真情を解析して、次のような観点を披露している。引用してみたい。
ーーー 興味深いのは、塩野七生がなぜこのような政治観をもつようになったのかということである。その点について、彼女は最近「サイレント・マジョリティ」という連載エッセイの中で、珍しく素直に自己を語っている。彼女はそこで、自らを昭和12年生まれの人間の一人として規定し、その世代的な特徴を<絶対的な何ものかを持っていない>ところに求めようとする。マルキシズムとも戦後民主主義ともある距離を置いて接せざるをえなかったその世代は、イデオロギーからの自由を手に入れ、同時にエモーショナルな行動に対する冷淡さを持つようになった、というのだ。(引用終わり)ーーーー
 ここで私が注目したのは、「国家の品格」の著者藤原正彦さんの主張の中にも、この戦後民主主義やマルキシズム史観に引きずられている日本のインテリの間違いを指摘しており、さらに、長江文明の研究者で今や文明論者でもある安田喜憲さんも同じようにマルキシズム史観に引きずられた文系学問の限界を指摘しているからである。
 戦後日本の思想をリードしてきた民主主義、マルキシズムに代表される社会主義というものが、確かに現在の70代、60代の知識人には濃厚に影響されていることは、大学などという閉鎖社会にいると、嫌と言うほど感じてしまう。中でも、「自由」とか、「民主主義」の弊害を強く感じる。そのようなことを沢木解説から、改めて感じている。そして、何故、塩野さんがイタリアから発信しようとしたかも、見えてくるというものだ。

木曜日, 2月 08, 2007

森三樹三郎著「老子・荘子」講談社学術文庫:その1

最近、三つの方向から、「これは老子を勉強せざるを得ないな」と自覚していた。そこで、遅きに逸しているかもしれないが、基本から始めようと考え、この書籍と格闘している。全部読み終わった訳ではない。今回は、「勉強せざるを得ない」という思いに至ったプロセスだけを書き記しておきたい。
 昨年秋から中国関係の書籍を集中的に読んでいる。特に、長江文明関連の書籍、中でも安田喜憲さんの文明論を読んでいると、稲作漁労の文明の生命観には命の循環思想があり、それは生命が本来的にもつ力を信じて、それに忠実に生きようとする発想が潜んでいると、繰り返し主張されている。そして、その思想は中国南部から発した道教や道家思想に色濃く投影されていると主張されている。事実、長江文明の末裔たちの国家だったであろうとする魏や越などで牛を生け贄として五穀豊穣を祈る祭りが記載されている荘子注釈書などがあり、老子が理想とした農耕社会とは、長江文明のそれだったのではないかという推論を披露している。無為自然は長江文明型の生命観なのでは、という仮説である。
 一方、中国人で日本で比較文化を研究している王敏さんは自書の中で、儒家思想というのは欧米のキリスト教や中近東アラブ社会のイスラム教に性格が似ており、なにより論理的で言葉での理解がしやすく、政治との相性が良く、そういう意味では極めて宗教的だと解説されており、なるほどと思った。
 さらに、我が師である大橋力先生の近著「音と文明」においても、古代中国にあっては、言葉に重きを置くのは考え物であり、そのことへのアンチテーゼを出している老子の思想には一定の理解を示されている。
 こうなっては、私としては老子を勉強せざるを得ないのである。しかも、山城組の重臣で某教育委員会の重鎮から、年頭にメールで「天命を知る」などというキーフレーズをぶつけられては溜まったものではない。私は、「天命??」、何それ? なのであるから。
 読み出してみると、確かに勉強になる。いかに自分が儒家思想の重しに苦しんでいたことも理解できるようになる。我が父母は孔子的だったのだ。そして、気に入った逸話も幾つか出てきた。中国では、「昼は儒家で過ごし、勤めから帰って夜は道家で過ごす」というのがあると聞き及び、これだったら実践出来そうかな? などと悦に入っているのだ。柔弱の発想とか、「たりるを知るものは富む」とか。しかし、老子は一気読みするものではないな!? 少しずつ、感じながら読み進もう。

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...