月曜日, 4月 30, 2007

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作品「バベル」

先週の金曜日頃から、このところ途絶えていた映像体験研修を集中的に行っている。主に、DVDと映画館へ出掛けての研修である。研修対象作品は、DVDでは宮崎アニメ「魔女の宅急便」「のだめ・カンタービレ」「プラダを着た悪魔」、映画館では「バベル」「クイーン」の5作品である。
 それぞれ勉強することはたくさんあったのだが、ここは「バベル」について考えておこう。監督は、メキシコ人のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、1962年生まれの45歳。これも話題作となり役者たちがアカデミー賞にノミネートされた「21グラム」の監督でもある。この映画の底流を流れるテーマは、「境界を形成するものは、言語、文化、人種、宗教ではなく、私たちの中にある」(公式HPの監督紹介コーナーから引用)だという。確かに、このような難しいテーマを見事に描ききった手腕には驚いた。しかし、さらに驚いたことは、このテーマをアメリカの映画界がこぞって受け入れ、アカデミー賞の作品賞の対象にもなったことだ。
 人間の奥底にある「境界」を創り出してしまうもの、いわば、人間としての「業」のようなものを普遍的に描こうとしているように思う。確かに監督自身の言葉や、そしてタイトルは、旧約聖書から借用した「バベル」。しかし、私にはもっと他にメッセージがあるのではないかと思った。それは、アメリカ型のグローバリゼーションがいま世界にもたらしている「傷」についての叫びである。傲慢で身勝手なアメリカ人夫婦をおそった被弾事故から、物語は同時進行的にモロッコの砂漠地帯とモロッコ人通訳の住む貧村、メキシコからの善良な出稼ぎ家政婦と彼女の息子や従兄弟たち、そして、不法入国が恒常的に問題化しているアメリカ・メキシコの国境砂漠地帯、銃撃に使われた銃の元所有者である日本人の父親と聾唖者である娘。住んでいるのは欧米化した都市文化とは明らかに異相の発展を遂げている東京。
 人の心の中に巣くう砂漠のような、乾いた、ザラザラしたもの。その象徴としての乾いた大地、はげ山と化しているモロッコの山岳地帯。晴れやかなはずの結婚式のフェスタが開かれるメキシコの貧村にも、砂埃が立ちこめ、祝祭の行く末に不安を投げかけている。それは、華やかでコンクリート・ジャングルと化した東京の繁栄の中にある実像として砂漠にも繋がる映像。見事な構成力で観る人々に気付かせてくれる何か。見事な映画としか、言葉がない。
 全体的にドキュメンタリータッチの映像が続く中、一カ所だけ、生っぽいシーンが出てくる。それは、メキシコからの家政婦がアメリカ人夫妻の二人の子供を自分の息子の結婚式に連れ出し、帰り道で国境を監視するポリスとトラブルを起こしてしまい、不法滞在がばれて、即刻国外退去を言い渡される留置場でのシーンである。この部分だけは、定式化したアメリカ裁判映画のタッチで、そのシーンだけが、やけに「生っぽく」描かれている。そのシーンだけは、実に異質なのだ。監督の明らかなメッセージといえるのではないだろうか。
 何故なら、観客をある種のカタルシスへ誘うシーン群、例えば、警官隊に追い詰められ、兄を死なせてしまい、ついには自ら銃撃犯であることを叫び、兄を助けてくれ叫ぶシーン、あるいは、孤独の局地から父親の懐に抱かれ、絆を回復していきそうなことを予感させるマンションのベランダでのシーン(役所広司と菊池凛子)、ハイウェイ国境の出口へ強制退去を強いられた母親を息子が出迎えるシーン、これらの、いわば安堵させるシーン群ですら、ドキュメンタリー風の映像美で綴られているからだ。
「バベル」公式HPへのリンク 

金曜日, 4月 20, 2007

リリー・フランキー著「東京タワー オカンとボクと、時々オトン」

書店の店員が推薦する書籍として、最初じわじわ、なかぱっぱ、一昨年の暮れには大ヒットとなった本である。そして「2006年本屋大賞」を受賞。なんでも、200万部を越す大ヒット本だ。私は、ずっと気に掛かっていたが、常に無視していた。しかし、あることから、ついに読んでしまった。その経緯から説明しよう。
 最初は、この冬の月9ドラマからだ。速見もこみち主演、助演が倍賞美津子の11話を全部完全に見通したのではないのだが、まだら状態で、とにかく観ていた。だいたいストーリーは掌握した。春には、日テレ系列から劇場映画となることも知っていた。そこで、テレビと映画では、どのような違いがあるのか、それを観てみたい。演出の違い、挿話の扱い方、演技人の共通性、あるいは非共通性など、観察ポイントはいろいろイメージ出来た。日テレVSフジテレビという観点もある。何より、全体を通してのトーンがどうなっているのかを、直に確かめたくなったのだ。
 先週の土曜日、暇を見つけて、劇場映画「東京タワー」を見に行った。こちらは、主演はライフカードのCMでおなじみのオダギリジョーさん。オカンは、樹木希林。オカンの若かりし頃の役は、樹木希林の実の娘である内田也哉子。内田也哉子は、樹木希林とロッカー内田裕也との間に出来た一人娘で、役者本木雅弘と結婚し、子供二人の母親でもある。そう! まず、このキャスティングが、気が利きすぎているのである。樹木希林、内田裕也……、と想像すれば、別居状態夫婦という立派すぎるイメージがあり、「リリーさんちと同じじゃないか!」と思ってしまう。これって、マーケティングなの? マジ、キャスティングなの??? という、観客にはまたとない興味を、持たせてくれるのである。
 映画を見終わり、私としては珍しく最後のクレジットロールまで付き合ってしまった。初日の昼の上演だった。土曜日と言うことで、中年の夫婦連れが多い。明らかに目を腫らした人を見てしまった。かくいう私も、自分の母親を思い出しながら、映画に没入してしまっていた。マジ、何年かぶりで、たぶん、20年ぶりくらいで、ドラマを見て、涙がポロポロ落ちていた。
 正直にいうと、この映画、出来すぎである。これは素晴らしく上質の映画になっている。何より、樹木希林さんの演技が秀逸なのだ。見事というほか、言葉がない。まさに、化け物役者。そして、その娘の演技も素晴らしいのである。その存在感は、リリーさんの恋人役を演じた松たかこを完全に食っていた。こりゃ、内田裕也オトンもメロメロになるに違いない。これがきっかけで、樹木希林との同居へと、よりを戻すのではなかろうか、とは巷の邪推である。
 こうなると、原作に当たらざるを得なくなり、読んでしまったと、いう訳である。読んでみたところ、さらに涙腺が緩くなってしまった。映画を観てから約28時間後の深夜には、涙で文字がぼろぼろになり、眼精疲労克服のためにやもをえず、就寝しなくてはならないくらいだった。書籍の帯に、ある書店員さんが書評を書いていたが、「リリーさん、これは反則だよ!」。私はこの本を、セミナー生に薦めようと思い、2冊購入。研究室に置いてある。
 さて、テレビドラマ、劇場映画、原本と確かめてきたわけだが、原書から逸脱した演出、脚色上の配慮から若干書籍のストーリーを膨らませて演出した部分など、実に面白い発見があった。特に、主人公のリリーさんと彼女、そしてオカンとの交流部分が、見事に脚色されている。こういうのって、リリーさんや元彼女の了承積み演出なのだろうか? でも、ここでテレビVS映画の勝負の軍配を決めなくちゃ成らないのだが、私は映画の方が、この書籍の持つ時代的な意味を良く汲み取って演出編集してあり、絶対的に支持したいと考えている。
 原作者リリー・フランキー:1963年生まれ。脚本松尾スズキ:1962年生まれ。監督松岡錠司1961年生まれ。素晴らしい才能が花を咲かせている。
 この作品を調べていて、もう一つ、嬉しい発見があった。私はセミナーでアニメプロジェクトのメンバーに8分間のアニメーション「岸辺の二人 Father and Daughter」を必ず参考作品として見せている。このアニメを観たあるメンバーなど、8分後には泣いてしまった子がいるくらい素晴らしい作品であるが、その絵本バージョンがくもん出版から発行されている。その翻訳が、内田也哉子さんだったのである。こういう、目に見えない「縁」を発見したとき、私は自分の感性の行方を再確認出来て、とても嬉しいのだ。信じるべき「何か」を確認できたようで、幸せである。
映画「東京タワー」オフィシャルサイト

日曜日, 3月 11, 2007

華麗なる同期現象 安田喜憲著「日本よ、森の環境国家たれ」中公業書を読んで

ここ数日、塩野作品を離れて安田喜憲先生の「日本よ、森の環境国家たれ」を読んでいた。欧米型で一神教の文明と多神教で稲作漁労を主体とする文明とを、家畜の民の「動物文明」とし、森の民の「植物文明」と対比して論じる環境論には、いつもの事ながら、明解さとその科学性豊かな説得力に胸のすく思いだ。
 そんな中、3日前の夜、これも久しぶりに宮崎アニメ「天空の城ラピュタ」と「もののけ姫」を勉強していた。特に、「もののけ姫」の主題は、まさに安田文明史観と同じじゃないかと、驚嘆してしまった。自然を侵略し、自然を人間の従属下に置こうとする勢力と自然に畏敬の念を持ちつつ神々の怒りを鎮めようとするアシタカたちの対比は、動物文明と植物文明の対決の構図を見事に踏襲しているように思えてならないのだ。安田先生は「もののけ姫」をごらんになっておられるのだろうか? もしご存じであるならば、是非、感想を聞いてみたいものだ。確かに、安田先生は不死鳥にまつわる先見性ということで、手塚治虫作品「火の鳥」に言及されていたことは覚えているが、宮崎作品についても書いてもらいたいものだ。
 そんな感想を持ちつつ読み進めていたところ、ケーブル・テレビのヒストリーチャネルでNHK番組「その時歴史が動いた」の再放送が流れていた。南方熊楠の神社合祀令反対運動についてのものだった。エコロジーという共生社会の発想を日本で始めて知らしめたのが、この反対運動を通してのことだったことを知り、唖然とした。いまからすでに百年前に、エコロギーというキーワードを使って、鎮守の森のご神木を伐採し、山を裸にしていくことの危険性を説きまくったその姿は、何故か、安田先生や大橋力先生の姿と重なって見えてしまったのだ。
(※2004年7月放送の「その時歴史が動いた」 世界遺産 熊野の森を守れ 〜南方熊楠・日本初の自然保護運動〜)
 ここまで来ると、私の周辺で見聞きすることが、何か、華麗な同期現象に包まれているように思えてしまう。アニメの勉強でさえ、環境問題の一つの事例研究になってしまうわけだから。こういう日々を過ごせるいまの情報環境の素晴らしさに感謝したい。

金曜日, 3月 02, 2007

塩野七生著「海の都の物語 上下」

塩野さんのルネサンス著作集7巻のうち、のこるは、「ルネサンスの女たち」と「神の代理人」だけとなった。ヴェネツィアの一千年を通観する歴史概説書なのだが、そこは小説家としての興味から歴史を知ろうとする塩野さんらしいさまざまな逸話に彩られた実に読み応えのある800ページだった。
 蛮族の襲来に恐れた人々が馬に乗って襲って来れないラグーナ(潟)に立てこもったことからヴェネツィア共和国は始まっている。中世時代のヨーロッパは専制君主国が林立した時代だったが、ヴェネツィアは共和制を取り、政務をボランティアで行う一種の名誉職としての貴族たちが国会と元老院を運営し、さらに現在のアメリカ合衆国の国家安全保障委員会とCIAを兼ね備えた十人委員会なる国家最高決定機関を持ち、さらに国家の顔としての元首(ドージュ)を置いていた。しかも、元首にすら専横させないためのルールを張り巡らして、周知を集め、方針決定の精度をとことん追究するシステムを結実させていた。
 この政体のお陰で、通商国家として中世最大の経済大国として地中海世界に君臨するようになったのだ。この時期イタリア国内は、大小さまざまな都市国家の時代だったのだが、このような共和制を惹いたのはヴェネツィアだけだった。その独立性は、他国がことごとくヴァチカンへ擦り寄るなか、一定の距離を保ち、多文化を受け入れ、言論の自由を保障し、おおらかな気風を保ち続けていた。その半面、共同体への参加、奉仕、貢献を、子供の頃から徹底してしつける側面も持ち合わせていた。
 男子は少年時代から交易船の船員として海での仕事や戦闘要員としての訓練が義務づけられ、この訓練期間が終われば、貿易商人として地中海を股にかけた商業活動に従事し、壮年になっては本国に腰を落ち着けて国政に参加する。財をなし、貢献度の高い人は元老院メンバーとなり、無給で国政に参加を義務づけられていた。なんと、無給で。しかも、一朝事あらば、戦費負担は国民に先駆けて供出したというのだから、この時代のヴェネツィアの貴族たちは、ローマ帝国の戦士たちの伝統を引き継いでいたことになる。
 この物語は「ローマ人の物語」に先だって著述されている。その意味では、逆順で読んだ私には、「ローマ人の物語」で示された塩野史観のプロトタイプを観る思いだ。触れられている話題は、街の風俗から国政の最高決定のプロセス、外交に先立つ情報収集のためのスパイ活動や、実際にあった戦争戦記、それも海陸双方での戦いの始まりから顛末までなどなど、多岐にわたっており、息のつく暇もなく、没頭して読みまくった。面白い!
 さらに、出版文化論の話題まで頂戴してしまった。何故、ヴェネツィアは15世紀から18世紀にかけてヨーロッパの出版界をリードし続けたのか、その起因はなんだったのか。実に有り難い勉強をさせてもらった。

日曜日, 2月 25, 2007

ロビン西原作/湯浅政明・森本晃司監督アニメ作品「MIND GAME」


2004年度に公開された作品で、コアなファンを惹きつけたアニメ作品である。理不尽で最悪の殺され方をした青年・西が黄泉の世界入り込み、ハチャメチャな幻想世界で現実社会への復帰を目指すのだが、そのプロセスの奇想天外なストーリーにハマってしまった。こういう作品を発見してくるようになった我がゼミ生たち。なかなかセンスが成長してきたものだ。頼もしい限り。27日のセミナーミーティングでは全員で鑑賞してもらいたいものだ。
 常々、私は彼女たちに、アニメなんだから、現実的にはあり得ないことでも、アニメだったら実現できるのだから、「飛んで」いいのだ、イメージをハチャメチャに膨らませていいのだ、ということを言い続けている。しかし、これまでの生活の中で染みついてしまっている既存イメージというものは、なかなか突き崩せない。門塀が灰色だという固定観念に染まっている貧困さをどうしたら気付いてくれるのか。悩むことが多々あり。そういう場合は、こういう作品に刺激されるべきなのだ。
 この作品を観て、イメージ、あるいは表現するに当たってのバリアというものは無いのだといことを、感覚的に理解してもらいたいのだ。要は、描きたい世界に、どこまで自分の想像力を膨らませ、それを着地させるためにいかに造形に腐心するのか。そういう努力でしかなにのだ。リラックスしていなくては、イメージの世界に遊ぶことなど、出来ない。堅苦しい規制的な発想では、到底無理。どう破るか。どう捻るか。どのように遊ぶか。という、まさにマインドのあり方の問題なのだ。
 今年は、鉄コンに目覚め、マインド・ゲームに勉強ネタを発見し、千年女優に手堅い制作方法を学び、我がセミナーのアニメへの挑戦は実に充実してきた。嬉しいね!
 上のイラストはDVDの特典として付いてきた湯浅・森本両氏の「OUR MIND GAME」と題されたポストカードである。イラストとしても、凄く、イイ!

水曜日, 2月 21, 2007

ジェームズ・キング著 栗原百代訳「中国が世界をメチャクチャにする」

原題はチャイナ・シェィクス・ザ・ワールドである。中国が世界を震撼させるとでもいう意味であろう。邦題は、いささか日本のテレビのバラエティ番組風であるが、その内容は、実に論理整然とした現代中国社会分析論である。やはり、第一線のジャーナリストの話は、私には肌合いが良いようだ。
 13億人とは、全世界の人口(65億)の約1/5である。その中国人たちが改革開放政策によって資本主義的経済社会を一党独裁政権下で推し進めたのだから、中国国内には一般的な、そう、欧米日本のような市場主義社会で民主主義国では絶対に起こりえない矛盾が醸成されてしまっても、当たり前と言えば当たり前。だが、その規模、影響力が前代未聞のスケールで展開しているのだから、たまったものではない。低賃金をいいことに、製造業では世界の工場と化した中国企業が、それまで製造業の本場として地位を確立していたアメリカやイタリアの手工業都市を直撃し、ことごとく廃業に追い込んでいる様には驚いた。
 さらに、国家からの規制などなきがごとし。欲望のおもむくままに、世界の資源を食い尽くしていく勢いには、経済社会を見続けてきた専門家には脅威と映るようだ。しかし、取り上げている事例がことごとく信頼性のある事例だけに、空恐ろしくなる。
 例えば、ここ福井の地からでも実感されることとして、酸性雨の問題がある。これは中国の空位汚染の影響である。その中国国内のエネルギー消費は半端ではなく、その中には非合法的にシベリアの森林地帯から木材を切り出して、工業製品やエネルギーそのものとして使用している実例が示されていた。黄河では水量が年々減少しており、中国本土中央部から北東、北西部へかけての水不足、砂漠化の問題は、黄河流域の工場地帯からの汚染水公害問題と相まって、危機レベルに来ていることなど、その深刻さが述べられている。
 読み応えのあるテーマがここ彼処に登場するが、最大の焦点は、欲望にまかせて肥大化する中国経済が、もはやエネルギーを中心にそのほとんどを世界からの輸入に依存していることで、そのことへの対抗手段として、西欧やアジアの国々が保護主義になることだと予測している点だ。そして、モラル欠如から、世界が中国離れする事態に至りそうなことを警告している点であろう。
 経済視点の書籍はあまりなじみがないのだが、この書籍は必読だった。読み応え、150パーセントの五つ星というレベルか。

火曜日, 2月 20, 2007

塩野七生著 ルネサンス歴史絵巻3部作

塩野さんのオペラ(作品)には、真面目に取り組んで読まないといけない歴史解説書とのいうべきガッチリした学術書的な作品と、実際にあった歴史上の出来事を背景とした、いわゆる時代小説と呼べる作品とがある。前者の代表作は「ローマ人の物語」やヴェネツィア共和国盛衰史を描いた「海の都の物語」であろう。これらを読み下すには、多少気合いが必要である。しかし、後者の時代小説、それもエンターテイメント性を考慮された作品は、気軽に構えて、楽しみながら読んでいける。それも、その時代の核となる学術書タイプのガッチリ作品を読んだ後であるならば、さらに楽しさも倍増して、その時代の空気感にひたりながら楽しめるというものだ。3部作を先の週末、東京との行き来の車中、テレビ鑑賞を潰して、一気に読んだ。
 「緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件」「銀色のフィレンツェ メディチ家殺人事件」「黄金のローマ 法王庁殺人事件」の3部作は、実にエンターテイメントだ。ただし、フィレンツェから入り、ローマにぬけ、ヴェネツィアへ戻った。本当は、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマへと進むべきなのだが、主役たちの最後を知りつつ、最初に戻って読むのも、おつなものである。ヴェネツィア共和国盛衰史「海の都の物語 上下」「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡」「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」を読み下した後であるならば、その時代のイタリア人になったかの錯覚を持ちながら楽しめるように出来ている。
 私の場合、残念ながら「海の国の物語 上下」だけは、いまだ手をつけていなかった。これから勉強するつもりだ。

水曜日, 2月 14, 2007

塩野七生著「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡」塩野七生ルネサンス著作集第7巻

権謀術数の代名詞となっているマキアヴェッリ。そのまがまがしいイメージから、正直言って毛嫌いしていた。何も知らないのに、だ。読んでみて、イメージが一変した。なんと生真面目で、理想主義者で、でもどこか嫌らしいく、人間的。何より、政治の基本を人間の持つ正邪両面を見据えた上で国家運営を考えたり、そして国益重視の外交だったりと、政治の技術に薄っぺらい正義感や宗教的倫理観などを介入させないクールで冷徹な観察眼に引きつけられた。
 それにしても塩野さんは、真っ正面から対象に向かっている。この姿勢がビンビン読者に伝わり、権謀術数の人も、ただの「男」として丸裸にしてしまっているのには、痛快ですらある。喜劇の脚本まで書いていたとは。塩野さんはこのテーマをローマ人の物語を書き終えるのが見えてきた頃から取り組んでいるのだが、確かにカエサルやアウグストゥスなどの権勢を知った上だと、より理解しやすい。その意味でも、私もようやくルネサンスを勉強するための入り口に近づいたようだ。次は、塩野七生ルネサンス著作集の1巻、2巻へと進みたい。

日曜日, 2月 11, 2007

塩野七生著「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」

ローマ人の物語を15巻通読出来て、なにか長いトンネルをぬけたような気分となり、いよいよ、ルネサンス期を扱った作品を集中的に読破したいと思っている。フィレンチェには伽藍のスタッフ的な人材もおり、彼女への勉強ネタにと数冊を選び、アマゾンにて国際宅急便で手配したのだが、その中には自分も読んでみたいと思っていた作品も含まれており、改めて入手している。この1冊もそういう対象の書籍である。
 チェーザレを一晩かけて読み切ったが、中世を経たキリスト教社会というものが、いかに聖職者の世俗化が、あるいは腐敗が進んでいたかを思い知らされる。ローマ法王の息子という環境からイタリア統一を野望とした男の物語である。同時期を生きたレオナルド・ダ・ビンチやフィレンチェのマキアヴェッリとの交流もでてきており、大変興味深い歴史小説だった。
 しかし、最大の勉強どころは、巻末に掲載されている沢木耕太郎さんの解説である。彼は塩野さんのあるエッセイに吐露された真情を解析して、次のような観点を披露している。引用してみたい。
ーーー 興味深いのは、塩野七生がなぜこのような政治観をもつようになったのかということである。その点について、彼女は最近「サイレント・マジョリティ」という連載エッセイの中で、珍しく素直に自己を語っている。彼女はそこで、自らを昭和12年生まれの人間の一人として規定し、その世代的な特徴を<絶対的な何ものかを持っていない>ところに求めようとする。マルキシズムとも戦後民主主義ともある距離を置いて接せざるをえなかったその世代は、イデオロギーからの自由を手に入れ、同時にエモーショナルな行動に対する冷淡さを持つようになった、というのだ。(引用終わり)ーーーー
 ここで私が注目したのは、「国家の品格」の著者藤原正彦さんの主張の中にも、この戦後民主主義やマルキシズム史観に引きずられている日本のインテリの間違いを指摘しており、さらに、長江文明の研究者で今や文明論者でもある安田喜憲さんも同じようにマルキシズム史観に引きずられた文系学問の限界を指摘しているからである。
 戦後日本の思想をリードしてきた民主主義、マルキシズムに代表される社会主義というものが、確かに現在の70代、60代の知識人には濃厚に影響されていることは、大学などという閉鎖社会にいると、嫌と言うほど感じてしまう。中でも、「自由」とか、「民主主義」の弊害を強く感じる。そのようなことを沢木解説から、改めて感じている。そして、何故、塩野さんがイタリアから発信しようとしたかも、見えてくるというものだ。

木曜日, 2月 08, 2007

森三樹三郎著「老子・荘子」講談社学術文庫:その1

最近、三つの方向から、「これは老子を勉強せざるを得ないな」と自覚していた。そこで、遅きに逸しているかもしれないが、基本から始めようと考え、この書籍と格闘している。全部読み終わった訳ではない。今回は、「勉強せざるを得ない」という思いに至ったプロセスだけを書き記しておきたい。
 昨年秋から中国関係の書籍を集中的に読んでいる。特に、長江文明関連の書籍、中でも安田喜憲さんの文明論を読んでいると、稲作漁労の文明の生命観には命の循環思想があり、それは生命が本来的にもつ力を信じて、それに忠実に生きようとする発想が潜んでいると、繰り返し主張されている。そして、その思想は中国南部から発した道教や道家思想に色濃く投影されていると主張されている。事実、長江文明の末裔たちの国家だったであろうとする魏や越などで牛を生け贄として五穀豊穣を祈る祭りが記載されている荘子注釈書などがあり、老子が理想とした農耕社会とは、長江文明のそれだったのではないかという推論を披露している。無為自然は長江文明型の生命観なのでは、という仮説である。
 一方、中国人で日本で比較文化を研究している王敏さんは自書の中で、儒家思想というのは欧米のキリスト教や中近東アラブ社会のイスラム教に性格が似ており、なにより論理的で言葉での理解がしやすく、政治との相性が良く、そういう意味では極めて宗教的だと解説されており、なるほどと思った。
 さらに、我が師である大橋力先生の近著「音と文明」においても、古代中国にあっては、言葉に重きを置くのは考え物であり、そのことへのアンチテーゼを出している老子の思想には一定の理解を示されている。
 こうなっては、私としては老子を勉強せざるを得ないのである。しかも、山城組の重臣で某教育委員会の重鎮から、年頭にメールで「天命を知る」などというキーフレーズをぶつけられては溜まったものではない。私は、「天命??」、何それ? なのであるから。
 読み出してみると、確かに勉強になる。いかに自分が儒家思想の重しに苦しんでいたことも理解できるようになる。我が父母は孔子的だったのだ。そして、気に入った逸話も幾つか出てきた。中国では、「昼は儒家で過ごし、勤めから帰って夜は道家で過ごす」というのがあると聞き及び、これだったら実践出来そうかな? などと悦に入っているのだ。柔弱の発想とか、「たりるを知るものは富む」とか。しかし、老子は一気読みするものではないな!? 少しずつ、感じながら読み進もう。

日曜日, 2月 04, 2007

塩野七生著「ローマ人の物語 第15巻 ローマ世界の終焉」

ついに最終巻、大演壇を迎えた。ローマ帝国が東西に分かれ、キリスト教カトリックの東ローマ帝国から分かれて蛮族支配の西ローマ帝国が滅びてしまい、ローマ的なるものが消え去ってしまった。長い物語であったが、ついに終わったのか。
 塩野さんはこの巻の始めに、そして後書きで、この著作を始めた理由を述べている。それは、あまりにも単純な動機なのだが、ローマの盛衰を知りたい、だった。そして私も同じく、世界史を習ってはいるが、古代社会から、もっと厳密に言うと、西欧社会の歴史を知るためにも、ローマ時代は欠かせなく、それで勉強することになったのだ。この時代にこの著作に巡り会えたのは幸運としか言いようがない。
 多神教、多文化、多民族を受け入れていたローマが一神教のキリスト教を国教化せざるを得なかった理由、そして、市民権は既得権ではなく獲得するものとして、名実共に「血税」を払って共同体の一員になっていく能動的な国家感など、どれも近世の政治形態、国家のあり方に考えを及ぼすとき、参考になり思考の幅を広げてくれる知識と発想に溢れていた。
 それにしても、印象に残っているのは、なんと謀殺、暗殺、自死などが多いことか。人間のむき出しの感情が行き着く先は、「殺す」という行為だった。昨日まで敵であった国家を属州として受け入れ、分断するが同じ国家の一員として遇して、共生的に全体国家を形成していた半面、当のローマ中枢指導層では、まさに謀殺が日常化していたのだ。これには、驚きを通り越して、嫌悪感さえ覚えてしまう。あのカイサル(シーザー)でさえ、殺されたのだ。
 しかし、絶対君主制へ移行していく過程で、神権を授与された皇帝という、「神のみの元で」で統治を委託されたという形を取らざるを得なかったという事実は、実に面白い。何故なら、頂点にたつ人は、言ってみれば現代でも誰からも信任されることのないという意味では同じだからだ。日本の皇室問題を考えていくとき、万世一系という観点は、ひょっとすると世界史的にも唯一の発想軸かも知れず、その意味では、確かに尊い。神々との間に立ち、メディエーターとして永遠に存在し、軍務や政務は、人民の意向によって変わって行かざるを得ないあり方を選択しているというのは、本当に貴重なあり方なのだということが、初めて理解出来たように思う。

木曜日, 2月 01, 2007

塩野七生著「ローマ人の物語 第14巻 キリストの勝利」

ついに、キリスト教が名実共にローマ帝国の国教となった時代を活写している。もはや、おおらかな言論と行動の時代は去り、他宗教を受け入れず、古代からの神々を排斥していくキリスト教の本質がむき出しになった時代が、3世紀末のローマだったのである。書き進む塩野さんの情念も、ある種の諦観に至ったような雰囲気で書き進んでいる。
 一神教とは他宗教を受け入れない排他性で出来ている。このことをストレートに表現しており、この面では、胸のすく思いだ。そして、近現代にあっては、その排他性を最も具現化しているのが、イスラム教であるとも述べている。また、排他性が具現化するにあたって、その最たる行為が殉教であるとも言っている。
 しかし、ミラノの司教に転じたローマの元高級官僚アンブロシウスにデオドシウス帝が罪の許しを請う場面などでは、「もはや皇帝も一匹の羊になった」と言い切っている。あまりの直裁的な表現に唖然としながらも、書いている塩野さんとて、こんなローマなんか「うそ」であってほしいと願いながらの執筆ではなかったかと想像してしまう。だから、ローマ的な臭いを感じさせるユリアヌスや、皇帝への手紙を通して元老院に安置された勝利の女神像撤去を撤回して貰うために懇願したシンマクスを描くくだりが、妙に印象深く迫ってくるのだ。さて明日からは、最後の1巻「ローマ世界の終焉」を読み解いていこう。

火曜日, 1月 30, 2007

塩野七生著「ローマ人の物語12巻、13巻」

1年に1冊ずつ出版されてきた塩野さんの「ローマ人の物語」も昨年末に出版された15巻で完結した。この機会に、最終刊まで一気に読み込んでみたいと考え、先週末から12巻、昨晩からは13巻を通して読み終わった。明日には、アマゾンから14巻と最終巻が届く。
 私がこのシリーズに手を染め始めたのは、いまから4,5年前になる。大学のお休み期間中を利用して、休みごとに3,4巻づつ読み溜めてきた。その最大の理由は、もともと多神教国家だったローマ帝国が、なぜ、帝国末期にいたってキリスト教を擁護する側になったのか、その理由が知りたいからだ。そして、ローマ帝国の崩壊から15世紀のルネサンス革命までの約1000年の中世暗黒時代を迎える訳だが、その間、知識や文芸の中心が、言い換えるならば、キリスト教会のみがインテリジェンスの中心に座ってしまうのだが、どうしてそのような情報、知識の集中現象が起きてしまったのかという疑問なのである。
 以上の疑問は、私の出版文化論を構成する上でも大変重要なことである。出版文化を構成する場合、ルネサンス期に起こったグーテンベルグの印刷革命へ行き着く前に、どうしても中世について触れなくては成らず、そうなると、キリスト教会の情報センターとしての性格に触れざるを得ず、必然的に、その前の時代の治世から説き起こしていく必要に迫られるのだ。
 「ローマ人の物語13巻 最後の努力」を読み通して、第一の疑問、「なぜキリスト教を擁護する必要が出てきたのか」については、理解できたように思う。具体的には、混迷の3世紀を過ぎて、帝国に2名の皇帝、その後は4名の皇帝による共同統治時代を経て、コンスタンティヌス帝の時代になると、中世の絶対君主性に近い君主として存在するようになる。それまでの皇帝は、ローマ市民と元老院から信任を受けて、統治を委託された存在だったのである。ところが帝国があらゆる面で衰退し、北からの蛮族の侵入やオリエントのペルシャとの戦争などに忙殺されていく中で、皇帝はローマ防衛線(リメス)に張り付くようになり、どんどんローマの元老院との距離は遠くなっていく。その結果として、東西を2名の皇帝で守護していく体制や、4名の皇帝と副帝で統治していく体制となり、どんどんローマ的な価値観から離れて、絶対君主制へと近づいていくのだ。その最後に残ったのがコンスタンティヌスだったのである。
 コンスタンティヌスは、ローマ的ではなく、つまりローマ市民、元老院の信任を得て、つまりローマ的に言うのであれば、統治を委託されてではなく、自ら皇帝になった訳で、そうなると皇帝の信任をしてくれるもう一つ上の権威を必要としたようだ。そこで、キリスト教を擁護し、神の信任を受け、現世的な世界を統治するという体裁が必要となった。神から信任を与えられる戴冠式を挙行した最初の統治者となった。その後の王侯が、ことごとく、戴冠式を挙行するようになった原点だったのである。ローマの皇帝たちは、ローマの神々に祈ることはあっても、皇帝としての信任は、市民から、その代表たる元老院から受ければ、それで事足りたのだった。そして、帝都をローマではなく、コンスタンンティノポリス(現イスタンブール)ヘ建設し、キリスト教会は創っても、ローマのお神々をまつる神殿は一切建設しなかったのだ。
 しかし、世界の研究者たちの説を時折紹介しつつ塩野史観が書きつづられていくのだが、欧米の研究者の中にも、これほどまでにコンスタンティヌスがキリスト教を擁護しなかったならば、キリスト教が今日のように普及してはいなかったであろうとする認識が定着しているようだ。それほどまでに、コンスタンティヌスの行った改革は影響力を持っていたのだ。しかし、この施策の後、ローマは急激に衰退し、分裂し、暗黒の中世世界へと入っていくことになる。
 多民族を受け入れ、多宗教を受け入れ、市民権を既得権ではなく血税をあがなって獲得する獲得権としていたローマは、輝いていたように思う。太陽とともにあったように思う。自由で、多少奔放な雰囲気のあるローマが、コンスタンティヌスの登場で絶対君主制となり、輝きは、薄暗い教会に光るろうそくの炎のように、闇の中の存在になってしまうのだ。読み進みながら、だんだん寂しさが募ってきてしまった。

木曜日, 1月 25, 2007

梯久美子著「散るぞ悲しき」新潮社 


映画「硫黄島からの手紙」が今年度のアカデミー賞の監督賞、作品賞にノミネートされている。このブログでも取り上げたが、肝心の「硫黄島からの手紙」については、まだ何もコメントしてこなかった。観てはいるのだが。そこで、合わせて書いてみたい。
 日本の俳優たちが日本語で演技したハリウッド映画。監督はアカデミー賞作品賞、監督賞受賞監督のクリント・イーストウッド。当初、この硫黄島2部作品をどのように考えればよいのか、正直言って確信がなかった。しかし、日米両サイドから硫黄島の戦いを描こうとするアイディアには、何か時代的な大きな目論見があるのではないか、あるいは、時代が「何か」を求め、その結果としてこのようなムーブメントが出現したのではないかとの思いの元に注目していた。
 アメリカ側から描いた「親父たちの硫黄島」は、正直言って、あまり出来は良くないような印象があった。しかし、渡辺謙が栗林中将を演じた「硫黄島からの手紙」には何か感じるものがあり、その後の動向(アメリカでの反響など)をウォッチしながら考えていこうと思っていた。アカデミー賞にノミネートされるくらいだから、この映画の方がアメリカ側から描いた作品より、やはりインパクトがあったようだ。アカデミー賞の行方も楽しみだが、この映画を契機に、そしてこの映画に先行するように発行されていた栗林中将の戦いを書き下ろした梯久美子著「散るぞ悲しき」にも注目があつまり、かなり売れているようだと書評が伝えており、気に掛かる書籍として昨年の夏ぐらいから「詠んでみよう!」リストにブックされていた。
 昨晩、セミナー関連書籍を購入しようとして書店に立ち寄り、肝心のセミナー用書籍は見つからなかったのだが、ひょいと平積みにされた単行本をみると、この書籍が目に飛び込んだ。しかし、その場を離れ、文藝春秋を探しに行ったところ、こんどは文藝春秋の表紙に1行大きく印刷された「栗林中将 衝撃の最後」というタイトルが飛び込んできた。そこで、2冊まとめ買いしたことは言うまでもない。昨晩8時頃から読み出し、午前1時頃には両方とも読み終わっていた。深く感動し、しばし身じろぎもせず、その感銘にひたっていた。
 私は旧帝国陸軍の軍人たちについては、子供の頃から生理的に嫌いだった。精神主義的で、科学性がなく、何かというと天皇を持ち出し、その時代的な雰囲気がたまらなく嫌いだった。それに比べ、帝国海軍の方が、どちらかというと好きだった。科学性があり、時代を見詰めていた人材も多かったような印象があったからだ。日米開戦の端緒を開いた山本五十六大将はアメリカ駐在武官をしたくらいで、アメリカの国力を誰よりも知っていた。だから戦争を早期に講話へと持ち込まないといけないと考えていたことなど、当時海軍の方がグローバル・スタンダードだったのではないかと評価していたのだ。あるいは、「坂の上の雲」の秋山参謀の影響もあるかも知れない。彼もアメリカ駐在武官だった。
 今回、陸軍にもアメリカを本当に解っており、精神主義に走らない合理性と並外れた人間性に溢れる栗林中将のような人がいたことを、初めて知り、驚いている。特に、生来の職業軍人のイメージを大きく変更を迫る逸話の数々に、日本人の精神性の深さを知ることとなった。すでに多くの評論や書籍で著されているように、家族思いであったり、普通は職業軍人であれば使わない「悲しき」などという表現を使っていたりしていて、完全に帝国陸軍の軍人イメージを払拭するものだったのである。
 硫黄島から大本営に当てた最後の決別電報を、軍属として栗林中将に仕えた老いた貞岡信喜さんが誦じる場面から、この書き下ろしは始まっている。駄目だった。この部分からすでに涙が出てしまい、最後まで、なんども泣けてきて、しょうがなかった。アメリカの海兵隊を震撼させた軍人は、深い人間洞察に優れ、家族とのなにげない日常を心から愛した、心優しき日本人だった。この歳にして、またもや日本を再発見した思いに駆られている。

火曜日, 1月 23, 2007

王 敏(Wang Min)著「中国人の愛国心」PHP新書

昨年来、中国関係書籍を集中的に読破してきた。北京調査以降、中華文明を総合的に知る為に、まず陳舜臣さんの小説の中でも太平天国の乱以降の時代小説を集中的に読み込んだ。11月以降は、長江文明発見物語として、安田喜憲先生の書籍を読みこなし、さらに、中国から日本へ来て比較文化論を研究する社会科学系の学者の普及書を読み込んでいる。全ては、私が最も大事にしている出版文化論の勉強のためということもあるが、何故か、いまは中国に惹かれているのだ。
 日本の首相の靖国参拝問題から、中国では「愛国無罪」というプラカードを掲げた反日デモがあった。日本には先の侵略戦争にともなう人道的な責任があり、反日デモには常々過敏になっている半面、いつまで謝罪外交を続けなくてはならないのか、あるいは、自虐的な歴史認識をいつまでも持ち続けなくてはならない責任に、いささか、うんざりしている訳だ。しかし、その理由を突き詰めていくと、中国人のメンタリティや中国人が考える歴史というものに対する認識や彼らの思考回路について、我々日本人にはうかがい知ることの出来ない壁があることに気がつくはずだ。その壁され理解してしまえば、つまり理屈が解ってしまえば、ステップを踏めるというモノだ。そのようなステップを踏ませてくれる絶好の解説書である。
 例えば、中国人にとって国を愛するとはどういうことなのか。それがキーワード化された「愛国」とはどういう具体的な行動を指すのか。そのようなことをいままでどの日本人も正確には理解してこなかったように思う。この命題を、筆者は巧みな事例の引き方で、優しく解説している。四書五経の大学に出てくる「修身斉家治国平天下」から説き起こし、天意は民衆にあり、国家のために勉強することは即自分のためでもあるという中国古来の考え方を披露している。そして、その天意にそぐわない治世になった場合、ことごとく民衆は民意発揚のためデモや騒動を起こしてきた歴史を解説している。つまり、中国ではデモは日常茶飯事であり、それが中国全体の総意だと思いこむ愚かさを日本人に伝えようとしているのだ。天意に背く皇帝は、ことごとく民衆に追放されてきたとも解説している。
 私はこの書籍の一番すぐれている点であり、勉強になったところは、第5章の「中華文明vs西洋文明」である。近世に近付くに従って列強の干渉やキリスト教布教のための使節が中国に入り込む。これらの外来文化にどのように接してきたかを解説している。中華が世界で最もすぐれた文明であり、世界の中心であると自認していた中世から近世に至る過程で、外来文化に抵抗し、あるいは部分的に受容しながら近世へと向かうわけだが、そのプロセスが日本とはことなり、「抵抗と受容」という両極端な振れを持っていたことだ。日本のように、明治維新を境に、国学漢学から洋学へと一気に変更したわけだが、そのようにドラスティックに舵をとれなかった中国の姿を、歴史を追いながら解説している。この部分がとても説得力があり、とても勉強になる。
 太平天国の乱はキリスト教、すなわち外来文化を取り込んでの運動であり、次の義和団の乱は中国国産の文化に背を押された反乱でありといったように、外来を受け入れる側と中国古来の文化を守ろうとする側のせめぎ合いが、現在にまで続いている姿を、見事な解説で解き明かしており、この視点は中国史を見ていく場合の大きなよりどころになると確信した。今回は、素敵な学習となった。我がセミナーの中国人留学生に課題図書として渡さなくてはならない。彼女も大いに勉強になるはずだ。

日曜日, 1月 21, 2007

安田喜憲著・梅原猛/河合隼雄監修「大河文明の誕生」角川書店

昨年の11月頃から安田先生の書籍を集中的に読破してきた。いまでは文明論者として、さまざまな切り口を用意して西欧型文明論へ挑戦し、反省を求めている。例えば、中国原産の「龍」を軸とした展開や、縄文文明に代表される「森の文明」論や、非西欧社会ではいまだに生活に息づいているアニミズムの復権など、その論旨は自由奔放で、明解で、読んでいて快感さえ感ずるほどだ。
 この書籍は911同時多発テロの前年にあたる2000年に出版されている。日本のインテリジェンスを代表する二人の碩学の優が監修している。二人とも、国際日本文化研究センターの前所長、当時の所長という布陣だ。それだけに、この本の持つ価値は大きい。安田先生が環境考古学を提唱し始めたのは80年代の始め頃だった。湖沼の土壌に堆積した花粉などの化石の分布から、2万年前から現在までの気象変異を解析し、それも地球規模でその変異を解明し、いまから約5700年前の寒冷湿潤化が、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明を引き起こしていたこと明らかにした。寒冷湿潤化が、草原で遊牧していた民を大河流域で農耕する地域へと引き寄せ、交易や摩擦の末の支配によって、強力な支配権をもった都市へと変貌し、これが文明となったことを、実に解りやすく証明している。
 しかし、ここで問題になるのが、従来叫ばれていた四大文明のうちの黄河文明なのだ。黄河文明は、この5700年前の世界同時的文明化より約1000年遅れており、その意味が問われていた。その答えは、森の文明であり稲作と漁労によって生計を立てていた長江文明の発見によって、見事仮説は事実となる。さらにこの発見から、青森の三内丸山遺跡に代表される森の文明の同時性まで論を進めることを可能にしている。この書はそこまでの道程を、まるでミステリーを共に説き進むようなスリリングな展開で記述されており、一気に読み進むことが出来た。学術的内容を一般市民に普及する目的で書き上げられた書籍ではあるが、謎解きに夢中になる子供のように読んでしまった。最近、これほど知的興奮をした書籍が無かっただけに、読後の満足感は素晴らしいものがある。言い伝えとされる「ノアの箱船」の史実さえ、環境考古学的には実証されるのだ。実に面白い。
 私は出版文化論で、文字を使い出した四大文明を必ず取り上げている。しかし、これまでの講義では文字発明の項目へ進む前に、必ず無文字社会の存在を提起して、文字を持たなくとも社会や文化を継承し平和にくらしてきた諸民族の歴史があることを伝えてきた。文字というツール以外にもメディアは存在し、ある概念や空間認識をメディア化している事実を教えている。また、先史時代と歴史時代という対比で、自ら文字を使用して歴史を書き残してきた文明化された社会と、そうではない時代とを意識付けしてきた。このような解説手法に、もう一つの強力な論点を教えていただき、実は、嬉しくてならないのだ。やはり科学的なデータを示しての論議には説得力があるという点では、西欧由来のサイエンスは実に頼もしい。
 安田先生の環境考古学的発見は、即、地球史発見であり、その地球史に基づいて諸文明、地域の歴史を再検討すれば、新しい地球の歴史認識に辿り着けるだろうことは間違いない。まれにみる暖冬を喜ぶその先に見えている巨大な環境的試練を想像するとき、この書が提言する西欧的歴史認識からの脱却と新しい環境主義から導き出される人類の反省するべき課題が、待ったなしの緊迫感で迫ってくる。
 蛇足だが、安田先生の業績を勉強するなら、この書籍から始めるのが最も適切であるとの感想を持った。学生たちに勧めなくてはならない。

月曜日, 1月 15, 2007

安田喜憲著「龍の文明 太陽の文明」PHP新書

この本は、中華文明の象徴となっている龍の誕生から説き起こし、やがて寒冷化の気象変動の結果として龍をシンボルとした牧畜と畑作の文明(黄河文明)が、鳳凰と太陽をシンボルとする漁労と稲作の文明(長江文明)を衰亡させて中国の覇権主義、すなわち中華思想の核となってきたことを解説している。
 何よりの愁眉は、日本文明の危機を説いている第五章「東洋文明の復権」であろう。何故、日本の皇室は龍を受け入れず、菊を紋章としているのか。そして、過去にも覇権主義的な牧畜と畑作の文明による接触は有ったにもかかわらず、日本は長江文明の自然と一体となる発想をもった長江文明型の原理を採用してきたかが語られている部分である。その箇所を引用してみたい。
ー171pよりー 
 東アジアの稲作・漁労文明の中で変身した龍信仰は太陽や鳳凰とともに、
(1)自然への畏敬の念
(2)異なるものの共生と融合
(3)命あるものの再生と循環の世界観
(4)自然にやさしく生物多様性を維持
を現代にまで伝えている。この四つの稲作・漁労文明の世界観こそ二十一世紀の新たな東洋文明を構築するキーワードなのである。ー引用終わりー
 これに対して、牧畜・畑作の文明から生じているドラゴンは、覇権主義的で、環境をことごとく破壊し、人間の隷属化においてきた歴史を持っており、環境時代の世界がもっとも反省と修正を強いられている訳だが、これについても、見事なコンセプトを提示している。同じく、引用してみたい。
ー176-177pよりー
 このドラゴンを退治する世界観は、
(1)自然支配の世界観
(2)異なるものとの対決と不寛容
(3)直線的な週末の世界観
(4)森の徹底的な破壊と家畜以外の生物存在の拒否
 を現代にまで伝えている。この四つの世界観は、人間の幸せのみを考える人間中心主義を生み出して、はげしい自然破壊をもたらし、アニミズムに立脚した文明を邪悪な文明という名の下に歴史の闇の彼方に追放し、再生と循環を拒否する還元的な近代工業技術文明を構築した。ー引用終わりー
 そして最後に現在の中国との付き合い方について、国家レベル、民族レベルの話として、このままでは日本は中国の覇権主義的な文明に飲み込まれてしまい、それを嫌う民はボート・ピープルとなって太平洋に出て行かざるを得ないのではないかと愁いている。丁度、黄河文明に駆逐された長江文明を担っていた諸族が中国南方へ、台湾へ、あるいは、長江から離れた高地へと移住を余儀なくされたのと同じように、日本も中華覇権主義に犯されてしまうと危惧しているのだ。この部分、説得力があるだけに、戦慄を覚えてしまった。

日曜日, 1月 14, 2007

梅田望夫・平野啓一郎対談共著「ウェブ人間論」新潮新書

「ウェブ進化論」の著者と京都大学在学中に「日蝕」で芥川賞を受賞した若き小説家平野啓一郎との対談集である。「文系対理系の対決か」との先入観のもとに読み出したのだが、両者ともインターネットが社会にもたらしてきた価値の変容の様を、一様に肯定的に認めることろから対談は始まっていた。
 私は梅田さんの「ウェブ進化論」を読んで、グーグル、アマゾン、iPodのアップルをはじめとするウェブ2.0時代の代表格たちが進めているネットを介した社会改革のその先にあるビジョンに「神の領域」を設定していた点を、論説の不備、ビジョンの不徹底と感じていた。また、グーグルの情報へのアクセスを誰もがたやすく、情報の価値をネットのアクセス統計から順位を定めるアルゴリズムを開発し、その目指すところは、「世界政府」のような存在になることだと解説した点に、疑義を持っていた。
 今回の対談を読む限り、そのような言葉を使った結果として、リアル社会が誤解したかも知れないポイントを、平野さんの限りない執念のような問いかけで、梅田さんの真意、より実態に近い説明が成されたように感じた。
 両者とも大変な教養の持ち主である。しかし、現在の50代以上の世の権威筋が対談する内容より密度の濃い議論が交わされており、その点について、この世代は実によく勉強しているのだと驚いてしまった。日本では90年代初頭にバブルの崩壊があり、丁度その時期に大学生活を送っていた75年生まれの平野さんは、はてなやミクシーの社長たちと同じ歳で、ともに社会に対して大きな閉塞感を背負わされた世代だ。そのような閉塞感から、方や小説家、文学者として、独自に自己世界を解放していった平野さん。方や、30代始め頃、日本ではだめで、シリコンバレーから考えていこうとして、向こうに移住した上田さん。両者には、いまの世界をより良くしたいという志が見受けられ、ネットで稼ぐだけ、小説で稼ぐだけ、ではないことが解り、これは新鮮だった。
 最終的に、ネットの進化で、人間はどのように変容していくのかということが最大のテーマになっている。両者とも、ある種の変容が出てくるに違いないと確信してはいるが、その具体像については語り切れていない。模索中であるという、その実像が示されており、ビジョン追究の途中段階として読むべきだろう。
 来週の日曜日午後9時からNHKスペシャルで「グーグル特集」がある。学生たちに勧めなくてはならない。

土曜日, 1月 06, 2007

木全 賢著「デザインにひそむ<美しさ>の法則」ソフトバンク新書

工業デザイナーとして家電商品のデザインに関わってきた著者が、現代の工業デザインが意識している概念をやさしく解き明かした書である。黄金比率、白銀比率、3分割法など、デザイン的要素を考慮しなくてはならない領域で作業をする学生たちには是非読んで貰いたい書だ。とにかく、事例がシンプルで解りやすい。その「わかりやすさ」というユニバーサルな概念が、ときに地域性や民族的な風習によっても変わってくることなども少し触れられており、面白い。ただ、この書は深く知ろうと思う人々にとっては不満が残ることになろう。肝心の事例に不足しており、概念をおおざっぱに理解するには充分だが、さらに深く知ろうとするとするならば、最後に掲げられた参考図書へと進まなくてはならない。だから、あくまで、黄金比率とは何か、白銀比率とは何か、3分割法がクリエーター志望者の手始めに取り組むべきもっとも簡単なアプローチの出発点なのだということを教えてくれる、そのような動機付けとして、この書をライブラリーに入れておきたい。

日曜日, 12月 31, 2006

松本大洋原作アニメ映画「鉄コン筋クリート」〜マジ、ぶっ飛んだ!〜



この年末はアニメ・プロジェクトのため、アニメ関連のDVDや映画を観まくっている。28日の晩ははスタジオ・ジブリ作品「ラセターさん、ありがとう」を、29日の午後はアニメ映画「鉄コン筋クリート」を体験してきた。特に、「鉄コン筋クリート」には、ぶっ飛んだ!
鉄コン筋クリート・オフィシャル・サイトへのリンク
 しかし、日本のアニメも国際化したものだ。DVD「ラセターさん、ありがとう」は、「千と千尋」を北米大陸で公開するに当たって、現地でプロモーションに尽くしたピクサー社の重役で「トイ・ストーリー」や「ファインディング・ニモ」などの製作総指揮を執ったジョン・ラセターさんと北米大陸公開のためのプロモーションに現地入りした宮崎駿監督とのやりとりを記録したドキュメンタリーである。そして、ピクサー社内で宮崎作品が本当に愛されており、手本とされており、宮崎監督を偉大な手本、偉大なこの世界の導師として尊敬されている姿を描き出している。
 一方、「鉄コン筋クリート」は、鉄コンに魅せられたアメリカ人3Dクリエーターであるマイケル・アリアスが、執念のプロモーションの末に日本人協力者を結集してアニメ化したもので、その映像美、アニメの可能性を大きく拡大した映像技術など、プロモーション資料にもあるとおいり、「アニメ業界のマイルストーンとなる作品」だ。マスターは、正直言って、ぶっ飛んだ! 凄い!
 宝町に住むホームレスの二人少年、96(クロ)と46(シロ)が自分たちの棲息領域を侵そうとする暴力装置に立ち向かっていく話だが、シロやクロたちの頭の中ので浮かんでくるイメージやファンタジーが現実のストーリーのなかに挿入されてくる。その、現実からファンタジーの世界への切り替わりの映像が、今までにないタッチでグッとくるのである。その他にも、彼らの眼になって走っていくシーンなどはいままでにない表現であり、各所に新鮮なシーンが繰り広げられている。兎に角、アニメとしては、新鮮な映像美のてんこ盛りに、酔ってしまうくらいだ。マジ、すごい!
 確かに、宮崎作品の中でも、例えば、千と千尋のなかでも、ハクが抱えていた苦しみや矛盾、あるいは「ハウルの動く城」のハウルの抱えた業など、若者たちが都市化した社会のなかで抱え込んでいる苦悩、矛盾を解決できない苦悩などを、アニメの主役や脇役たちが、さまざまなアニメ的出来事を通してある種の解決を見つけていく訳だが、この「鉄コン筋クリート」の主役たちは、宮崎作品のヒーロー、ヒロインたちのように、綺麗で、上品で、優等生ではないのだが、実に、観る人たちをガァーーんと打ちのめす力を持っている。1993年というバブル崩壊のさなかにこの作品が世に出てきたというのも、興味をひかれる。今年の最後に、このようなすごい作品に出会えて、私は幸せである。

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...