日曜日, 12月 31, 2006

松本大洋原作アニメ映画「鉄コン筋クリート」〜マジ、ぶっ飛んだ!〜



この年末はアニメ・プロジェクトのため、アニメ関連のDVDや映画を観まくっている。28日の晩ははスタジオ・ジブリ作品「ラセターさん、ありがとう」を、29日の午後はアニメ映画「鉄コン筋クリート」を体験してきた。特に、「鉄コン筋クリート」には、ぶっ飛んだ!
鉄コン筋クリート・オフィシャル・サイトへのリンク
 しかし、日本のアニメも国際化したものだ。DVD「ラセターさん、ありがとう」は、「千と千尋」を北米大陸で公開するに当たって、現地でプロモーションに尽くしたピクサー社の重役で「トイ・ストーリー」や「ファインディング・ニモ」などの製作総指揮を執ったジョン・ラセターさんと北米大陸公開のためのプロモーションに現地入りした宮崎駿監督とのやりとりを記録したドキュメンタリーである。そして、ピクサー社内で宮崎作品が本当に愛されており、手本とされており、宮崎監督を偉大な手本、偉大なこの世界の導師として尊敬されている姿を描き出している。
 一方、「鉄コン筋クリート」は、鉄コンに魅せられたアメリカ人3Dクリエーターであるマイケル・アリアスが、執念のプロモーションの末に日本人協力者を結集してアニメ化したもので、その映像美、アニメの可能性を大きく拡大した映像技術など、プロモーション資料にもあるとおいり、「アニメ業界のマイルストーンとなる作品」だ。マスターは、正直言って、ぶっ飛んだ! 凄い!
 宝町に住むホームレスの二人少年、96(クロ)と46(シロ)が自分たちの棲息領域を侵そうとする暴力装置に立ち向かっていく話だが、シロやクロたちの頭の中ので浮かんでくるイメージやファンタジーが現実のストーリーのなかに挿入されてくる。その、現実からファンタジーの世界への切り替わりの映像が、今までにないタッチでグッとくるのである。その他にも、彼らの眼になって走っていくシーンなどはいままでにない表現であり、各所に新鮮なシーンが繰り広げられている。兎に角、アニメとしては、新鮮な映像美のてんこ盛りに、酔ってしまうくらいだ。マジ、すごい!
 確かに、宮崎作品の中でも、例えば、千と千尋のなかでも、ハクが抱えていた苦しみや矛盾、あるいは「ハウルの動く城」のハウルの抱えた業など、若者たちが都市化した社会のなかで抱え込んでいる苦悩、矛盾を解決できない苦悩などを、アニメの主役や脇役たちが、さまざまなアニメ的出来事を通してある種の解決を見つけていく訳だが、この「鉄コン筋クリート」の主役たちは、宮崎作品のヒーロー、ヒロインたちのように、綺麗で、上品で、優等生ではないのだが、実に、観る人たちをガァーーんと打ちのめす力を持っている。1993年というバブル崩壊のさなかにこの作品が世に出てきたというのも、興味をひかれる。今年の最後に、このようなすごい作品に出会えて、私は幸せである。

水曜日, 12月 27, 2006

クリント・イーストウッド監督作品「親父たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」2部作

クリント・イーストウッド監督作品「親父たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」2部作の意味することは何なのか? つい、このようなことを考えてしまう。というのも、日頃、ケーブルテレビでデスカバリーチャネルやヒストリーチャネルといったアメリカ教養系の番組を観ていると、明らかにアメリカの国際戦略に荷担した、さらに突っ込んで言ってしまえば、アメリカの一極支配をもくろむ上で、そのときどきに世界に向けて必要とされる洗脳情報を流していると私は認識している訳だが、この2部作もそのような系列下にあるのではないかと考えてしまうからだ。
 ケーブル系教養番組には、アメリカの対テロ戦争やアメリカ市民向けのプロパガンダ番組が相当数あり、それらの制作費は何らかの企業がスポンサーについていたり、あるいは国家予算がダイレクトについていたりするのではないかと疑ってしまいたくなる番組が相当ある。例えば、将来の戦争では、生身の人間が戦争をするのではなく、ロボットが戦い、生身の兵士たちはロボットたちを遙か後方から操作するだけで全く傷つかないのだとする未来物語が繰り返し放送されている。これは、イラク戦争などで厭戦気分になっているアメリカ国民への希望を創出しようとしているのではないかと疑うし、もう一方では、圧倒的な科学軍事力を誇示して、敵の戦意を挫こうとする目論見があるようにも思えるのだ。
 クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作は、戦争映画ではあるが、アメリカ側からの視点で創られた「親父たちの星条旗」は、国家の意思で「創られた英雄たち」のうそを背負わされた悲哀を通して、戦争の持つ非情さや馬鹿げた国会意志を訴えているし、「硫黄島からの手紙」ではアメリカ的合理主義を知っている栗林中将の硫黄島での戦いは持久戦をして戦を引き延ばすことが、本土決戦への時間的余裕をもたらすとの考え方で、自決や無謀な特攻をいさめている。この姿を通して、戦時の日本の精神主義に異議申し立てをしている。そして、それぞれ当時の世論とは逆の姿を描いている。
 ということは、クリント・イーストウッド監督は、アメリカの現在の政策には反対で、戦争の無意味さを描き出したかったのか? ミスティック・リバー、ミリオンダラー・ベィビーなどでアカデミー賞監督となったクリント・イーストウッド監督は、どの映画でも、表層ではなく深層に真実を見詰めようとする姿勢があり、気に掛かる監督になってきたものだ。しかし、どの映画も、アメリカのジレンマが感じられて、すっきりしないのだ。そのすっきりしないところが、いまのアメリカそのものを象徴してはいないだろうか?

劉 文兵(リィウ・ウェンビン)著「中国10億人の日本映画熱愛史」

セミナーに中国からの優秀な留学生が居るせいか、中国人研究者の日本での研究業績にただならぬ興味が沸いている。先に紹介した王 敏(ワン・ミン)さんやこの本の著者劉 文兵さんなど、実に多くの中国人研究者が日本を本拠として研究や文筆活動をしている。そして、実に素晴らしい文化論を展開しており、実はただならぬ危機感さえ抱くようになった。何故なら、日本人研究者で彼らのような比較文化論を展開している若手研究者がそれほど見あたらないからだ。
 この本では、文革後の中国の情報政策を横目で見ながら、日本映画の中でも「君よ憤怒の河を渉れ」「サンダカン八番娼館 望郷」「愛と死」などの名作が、文革後の後遺症にさいなまれる中国社会の民衆の鬱憤をはらす、言わばガス抜き作用として影響力をもっていたかが語られている。そして、文革後遺症を乗り越え、改革開放政策の中で、民衆の意識を前向きにし、民意にある種の方向性をもたせようとした中国指導部の情報政策との関わりや歴史を描き出している。その部分が、実に面白い。
 しかし、この著者の語り口は熱い。年少の頃、日本映画の内部上映会(党の中枢メンバーによる試写会)に潜り込もうとして、偽チケットまで創って見に行ったというのだから、その日本映画熱には脅かされる。そして、その日本で映画論を勉強し、このような書籍までも著すまでになったのだから、その意気込みと本人の夢たるや、猛烈なものを感じる。一冊の書籍の中に、まさに「熱」が籠もっているのだ。文化を語る学徒は、これくらい熱くなくちゃならないという、見本である。

日曜日, 12月 17, 2006

PERSON OF THE YEAR

TIMEマガジンが毎年年末に選ぶ「この年の人」に、「あなた」を選んだ。ウェブ2.0時代は、不特定多数総表現時代と言われており、みんなが投稿することで電子辞典を創ったり(ウキペディア)、ブログが個人的発信メディアとして全世界的に社会化していたり、YouTubeなどの動画投稿が大手メディアを浸食したりしてきたこの年の主役は、世界中の「あなた」だった。出版メディア論の受講生は現在全員ブログを展開している。学生たちを、タイムが選ぶ「あなた」の一人にすることが出来て、マスターは幸せである。

木曜日, 12月 14, 2006

安田喜憲編「龍の文明史」

国際日本文化研究センターの共同研究をまとめたものである。中国原産の「龍」は馬や鹿や豚などから体位各部位を借りた融合動物だった。その起源は、中国にあっては北方文化からのもので、超越的秩序を重視していた。一方、南方の長江文明に観られる太陽、鳥、蛇を奉る文化は、再生と循環のコスモロジーを象徴し、現世的秩序を重視する文明だった。
 このように、編者自らがイントロダクションで宣言しているように、龍がいかに歴史の中で、長江文明的な再生と循環の自然観や原生的秩序を重視する文明を追い詰め、北方的文明観を確立していったかを、8名の研究者と共に著した書籍である。
 私は、それらの中で、もう一つのダビンチ・コードともいうべき論文に大きな興味をいだいた。それは、モナリザのバックの背景が、中国山水画の二つの掛け軸で出来ており、レオナルド・ダビンチは中国の美術、特に当時ヨーロッパに流通し始めていた中国磁器に描かれた中国絵画をしきりに勉強していた現れだと説明した田中英道さんの論文である。また、ヨーロッパのドラゴンは翼を持っているが、中国の龍には翼が無いのに、ダビンチは自らのスケッチで、翼が無くて四つ足をもつドラゴンを描いていることなどを紹介している。
 そこで思った。ルネサンス期のヨーロッパの人々において、中国、あるいは、日本を含むアジアのイメージはどのようなものだったのか、ということである。ヨーロッパではドラゴンは、正邪の区別で言うと、邪の側であるのが常だが、龍は、悪さもすれば地球も助ける。正邪同居の存在だ。
 この書籍は堅い研究報告書ではあるが、龍を巡る歴史探索のイメージトレーニング書籍である。

土曜日, 12月 09, 2006

DVD宮部みゆき原作「BRAVE STORY」

宮崎アニメは全部制覇していても、他の作家の動画となると、大友克洋さんの「AKIRA」やアメリカのピクサー系、ディズニー系しかみたことがない。しかし、NHKBS2のデジスタなどで、新進気鋭のアニメや映像作品には接してきている。
 そんな私が学生たちのストーリーを「今風」にコーディネートするために、ここのところ、様々なアニメ作品をシリーズで勉強している。そうすると、どうしても嫌いなゲーム系のストーリーまでも勉強せざるを得なくなり、そこで触手はストップしていた。
 どうせ、このブレーブ・ストーリーもそういった系統なのかと思っていたが、作者が小説家で売れており、セミナー生(全員女性)に聞くと、大概知っているとの返答があるものだから、DVDを入手して確かめることにした。再生は、テレビじゃなくて、パソコン。
 なかなか面白かったが、現在の少年少女が抱く心の闇やトラウマなどの切っ掛けとなる設定が、例えば、両親の離婚や事件に巻き込まれての生き別れだったりするところが、生臭くって、正直言って、この部分だけは、「どうにか、ならないの?」という感想をもった。映像的には最新の技術を駆使しており、この面ではジブリ作品を超えているような気はするが、ストーリーそのものに深みがなく、もう少し重厚さがほしいと思ってしまう。もっとも、この夏に公開されたジブリ作品「ゲド戦記」よりは、格段にましだという評価ではあるが。☆3つで評価すると、1.5☆。
 などと、DVDを鑑賞するその横には、安田喜憲編「龍の文明」が置いてある。龍、ドラゴンは、ブレーブ・ストーリーにも出てきた。さてさて、数日後の読書感想文では、どのように書き連ねる感想をもつのだろう。いまから、自分で楽しい気持ちになっている。

火曜日, 12月 05, 2006

佐藤優・手嶋龍一共著「インテリジェンス 武器なき戦争」幻冬舎新書

日本を代表するスパイ(?)のお二人による、日本の情報戦略を点検するための対談である。インテリジェンスとは、外交局面における国益を考慮して、諸外国事情に精通し、一度事が起こりそうになれば国家の行動指針となる情報評価を政府中枢にもたらす役割を担う人々である。佐藤氏はムネオ騒動で係争中であり、服役から娑婆へ戻ったばかり、かたや手嶋氏は、掴んだ情報をNHKでは発表できなくなって民間人となり、人気小説「ウルトラ・ダラー」を著した人である。
 そんな二人の対談は、インテリジェンス・オフィサーらしい伏線を縦横に巡らしての対談だ。二人ともそうとう狸を決め込んで、そうすることがその世界の安全を確保する上での常識的なあり方なのだという信念のもとに、ときに読者には、その意図する事例がどこにあるのか解らないような、曖昧模糊とした表現が各所に観られる。
 しかし、私事になるが、このところ手を出す書籍、書籍から読めと命じてくる書籍に、運命のような符合が出てくる。何かに繋がるいくつかの符合が、必ずと言っていいほど出てくるのには、驚きを通り越して、気味が悪くなる。それは、この夏の北京での博物館調査のころから続いている。
 私の父はハルピン学院の出身で、卒業後は、日ロ友好協会が後ろ盾したある学校の校長だった。そのハルピン学院とは、当時の日本外交の筋からすると、ロシア関係のインテリジェンス・オフィサー養成学校だったという、明らかな認識が示されていたのだ。佐藤氏も外務省の中で、そのような経歴の先輩たちから、先の大戦の前後のハルピン学院出身外交官たちが、バルト3国やロシア方面で、さまざまな活躍をしていたことを伝え聞いている。そのもっとも有名な外交官が、「命のビザ」の杉原千畝であるが、佐藤氏によると、当時の外交官は、インテリジェンス・オフィサーの側面が大きく、彼もその手の存在だったというのである。
 今夏の中国行きには個人的にはある一つのイメージを確かめたい気持ちがあった。それは、かつて親父が学生時代の一夏を潰して、馬でハルピンから北京まで旅したという逸話の原風景を観てみたいという思いだった。今となっては、ただ単なる若者の冒険心からの旅行だったのか、それとももっと特定の意図があったのか、聞けないわけだが、親父が旅した原風景を、一度は直に観てみたいのだ。
 この書籍の対談を読み、特に最後に出てくるロシア・スクールの話を読み進みながら、かつて存命時に言っていたことを思い出している。「パルピンにはもう一度行けても、ロシアには行けないな。ロシアへ行けば、俺のことを探り出して、監視されるだろうからな・・・」。子供のわたしには、全く意味不明だったのだが、ハルピン学院の素性を知り、なんとなく納得できる心境となった。

月曜日, 12月 04, 2006

王 敏(ワン・ミン)著「日中2000年の不理解」朝日新書

安田文明史観によれば、日本の文明は縄文文明、すなわち、森、自然に深く依存し、その中で培われたアミニズムがベースにあるという。そのベースに長江文明から伝来した稲作漁労の文明が乗り、独特の文明となっていると説明している。確かに、大陸からの文化、宗教などが後に怒濤のごとく入り込むのだが、大陸で形成されたそれらの文化や習俗は、日本という土壌で変質し独自の文化になっているという観点も述べられている。
 では、中国側から現在の日本文明をどのように解釈しているのか? この疑問に見事回答をあたえてくれた書が、この「日中2000年の不理解」である。筆者は、長らく日本に滞在しながら、中国側から観た日本文明の特質を、動物たちへの接し方や短歌和歌に表れる自然認識の特徴や、日本人が好む漢詩の傾向とその漢詩が中国ではどのような評価と認識を持って考えられているかを比較する事によって、日本文明の特質をえぐり出している。世界的には、日本と中国は同文同種の兄弟文化とされている訳だが、似て非なる日本文化を、事例を上げて検証した、実に楽しい書籍だ。
 そして、著者は日本文明の特質は、「感性で受け止める美意識に彩られた自然融合感」が基層にあると試論している。この提言、キーワーディングに大変納得してしまった。

土曜日, 12月 02, 2006

「イビチャ・オシムの真実」 株式会社エンターブレイン刊

現サッカー日本代表監督の業績を本人や関係者からのインタビューで構成したバイオグラフィー的な一冊である。この原稿を書き出したこの瞬間、BSでは、ガンバVSレッズの事実上の優勝決定戦を放送し始めている。まさに、BGとしては最高の雰囲気の中で、読書感想文を書くこととする。
 オシムさんの生まれ育った街はサラエボである。幼少の頃は、「ふたつの鐘の音はひとつの鐘のそれより美しい。そして3つの鐘が一斉に鳴る時、それはまるでオーケストラのようだ。それこそ私が聞きたい音だ」と回想しているように、イスラム教徒、カトリック教徒、東方正教徒の割合がほぼ同じくらい存在した、まさにマルチカルチャーシティだった。それが80年代後半から90年代中頃にかけて紛争地帯となり、NATOの爆撃を受け、民族、宗教の違いを乗り越えていた共生の都市は、崩壊した。
 この最も激しい戦乱の時代、92年4月から94年秋までの約3年間、オシム夫妻と息子娘たちは、離ればなれの生活を余儀なくされる。オシムさんと次男はギリシャに、奥さんのアシマと娘のイルマは戦禍のサラエボにとどまったのである。このことがオシムさんにとって、「なぜ、あのときサラエボに居なかったのか」という一種の自責の念となっているらしい。そんな複雑な、そして悲酸な経験からくる人生感とは、そして日本の現状を、現代日本人を、どのようにオシムさんが考えているのか、興味津々で読んでみた。
 後半に、奥さんのアシマさんが当時サラエボでどのように過ごしていたかを語っている。その内容を読みながら、何故か、昨晩読んでいた藤原正彦著「この国のけじめ」の前半部分に掲載されていた日露戦争時のロシア兵捕虜の話を思い出していた。藤原さんは、日本人が惻隠の情を日露戦争時までは保持していたのだが、大正になり、太平洋戦争時へと時代が進むにつれて、この大事な日本人の美徳を失っていくことを説明する材料として話題にしている。いかにロシア兵たちが、日本国内の捕虜収容所で厚遇を受け、大事にされていたか、松山収容所でのエピソードを伝えている。
 県は「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮戦して敗れた心情を汲み取って、侮辱を与えるような行為は厳に慎め」と訓令をだし、捕虜たちを温泉に入れたり、地元の小学校の運動会に招待したり、終戦を待たずして亡くなった98名の捕虜には立派な墓をつくって、供養している。そこには、現在に至っても献花がたえないというのである。惻隠の情、慈悲の心が、戦時にあっても保たれていたのに、太平洋戦争後の日本は、アメリカの指導による民主主義と自由とを与えられ、日本人固有の美徳をすっかり放棄してしまったと、藤原さんは訴えているのだ。
 そんなエピソードや主張を思い出しながら、アシマさんのサラエボでの日常を読んでみた。いつ何時狙撃されるかも知れない中を、生活水を求めてさまよい、ご近所の知り合いは次々と亡くなっていく。そんな明日をも知れない中を、敢然とサラエボに居続けたのだ。そのうち、健忘症になり、知り合いの名前を次々と覚え出せなくなったと言う。極度のストレスに耐え、生き延びてきた。狙撃兵たちのお遊びとのいえるシューティング・ゲームに、神経はずたずたにされてしまい、残忍さなどという生やさしい表現では語り尽くせない地獄模様が繰り広げられていた。
 このようエピソードを読み進むうちに、一体私は92年頃から94年頃にかけて、世界のことをどのように認識していたかを自問せざるを得なくなった。思い出そうとすると、まず日本ではバブルが崩壊し、93年にはアメリカ・ワールド・カップ出場をかけたイラクとの予選での敗退があった。ドーハの悲劇として語り継がれている。Jリーグが開幕したのもあの頃だ。私は福井に戻り、一人取り残された親父の世話をするために、悪戦苦闘し始めていた頃だ。テレビではCNNを欠かさず観て、英語のヒアリング力を落とさないように努めていた。インターネットを仕事の手がかりにしようと、無理してIIJの東京のアクセス・ポイントへ、アナログ線でアクセスしていた頃だ。
 確かに、CNNではボスニア紛争の報道はあった。しかしながら、第一次イラク戦争のような、全世界が耳目を立てて注視するような機運にはなかったような気がする。NATO軍が空爆を開始したと聞いても、何か不可思議な感じで聞き流していた。まるで、別世界の出来事。そんな、無反応な精神状態だったことが思い出される。
 よく考えてみると、アルプスを挟んで、南側、西側には意識は行っても(ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、イギリスなど)、北側、東側には(ユーゴ、チェコ、ハンガリー、オーストリア、ルーマニア、ポーランド、ロシアなど)、意識を働かせる自分の土壌が無かったことが理解できる。全く、想像力の欠如もはなはだしい。
 そのサラエボ市の名誉副市長にオシムさんは就任している。オシムさんの役割は、サラエボに2010年の冬季オリンピックを誘致するためのプロモーターとしての役割を担っているらしい。ただし、就任するにあたって条件を設定したそうだ。誰からも政治的勧誘をうけないことというのが、その条件だったらしい。
 サラエボで、旧ユーゴスラビアの各地で、オシムさんは多民族、さまざまな宗教をもつ選手たちを束ね、クラブのゲームに、国家代表戦に、見事な実績を残している。サッカーという言語、サッカーという生活規範が、民族の壁、宗教の壁、ひいては文化や文明の壁をも乗り越えられることを体現した人物なのである。日本サッカー協会も、大変な人材を抱えた。それは決して否定的な意味ではなく、かつて戦国時代に日本にキリスト教を布教しにきたフランシスコ・ザビエルや、明治の田舎に先生として赴任してきたラフカディオ・ハーンのように、必ずや、現代日本人が気がつかない貴重な「何か」を残してくれそうなことだけは、確かに予感できるのである。オシム・ウォッチングを精力的につづけなくてはならない。
 

藤原正彦著「この国のけじめ」文藝春秋刊

「国家の品格」はすさまじい売り上げ部数を記録したらしい。日本国民の多くが、現在の政治に、国家のあり方に、そして日々日常生活で感じている「何か今の日本はおかしい。何かが狂ってきているのではないか」との疑念をいだいている人々に受け、ブームとなった訳だから、今の日本にも、日本の国家、民族としてのアイデンティティを危惧する人々がいかに多いかという査証になったわけだ。毎年選ばれる流行語大賞にも、「品格」という言葉が選ばれている。そのニュースが、先ほどの夕方のNHKニュースで流れた。
 その品格の書を著した著者のエッセイや書評など、短編の著述をまとめたのが、この「この国のけじめ」である。後書きにもあるように、これらの短編を書き進める中から「国家の品格」をまとめる構想も生まれてきたらしい。
 藤原さんは、お茶の水女子大の数学の教授である。その大学での話として、新入生が受ける少人数ゼミのことが書かれていた。読書ゼミの話である。もう8年も続いているらしい。しかも、毎年受講希望者が殺到して抽選だという。本書でも、そのゼミのシラバスに掲載した文章がそのまま載っているのだが、ここでも引用させてもらおう。なにせ、私自身がやってみたくなったためだ。この「やってみたくなった」には、両面がある。自分も大学で開講してみたい、がその一。もう一つは、自分も女子大生に混ざって、受講したい。しかし、受講できないから、その香りだけでも、心に留めたいのだ。
ーー115ページ後半から116ページにかけてーーー
 学生向けの開講科目便覧にはいつも次のように書く。「主に明治時代に書かれたものを読む。毎週1冊の文庫本を読み、それに関する感想、印象、批評を書き、授業時に提出する。授業時には、その本の内容について討議を行う。提出された文章は、添削され、コメントを付され、翌週の授業時に返却される。ゼミの目的は、読書に親しみ、作文能力を鍛え、論理的思考力を高めることである。受講条件は、文庫本を週1冊読むだけの根性、および文庫本を週一冊買うだけの財力」ーーー
 端的に書かれているが、実に味わい深い。戦後の民主的教育の名のもとでの教育界では、先の大戦へ向かっていった精神主義的な発想を教育現場のオリエンテーション資料に記述することを、どこかでためらう気風がある。だが「根性」などという、いまや時代的な表現を堂々としている。しかも、この文章を読むのは、女子大生ですぞ!
 さらに、文庫本一冊を買うだけの「財力」とあるではないか。大学での勉学には身銭を切って進めるものなのに、今の大学では、教材や書籍やパソコンは学校が用意するものとばかりに甘えた気風を毎日感じている私としては、そうだ、そうだ、本ぐらい自分で買わなくてどうする。バイトは遊び金を稼ぐため、バイトと学業の選択となると、バイトを優先する気風が強くなっている現状を愁いいていた私は、この身銭を切りなさいと突き放す態度に、いたく共感してしまった。
 さらにさらに、日本のエリート女性の中のそのまたエリートにならんとする才媛があつまるお茶大でも、例えば、新渡戸稲造の「武士道」をひぃひぃ言いながら、なかなか読みこなせなかったり、「名誉を守ることは生命より大切」との一文に、ほぼ全員が否定的な反応を示すという。アメリカ型自由主義に犯された彼女たちは不快感を露わにするというのだが、聡明な彼女たちであっても、市場経済主義の原理に翻弄され、歪んだ民主主義のレトリックの罠に掛かっている姿を報告している。もっとも、回を重ねるうちに、日本的なるものの輪郭を朧気ながらも理解するようになり、大学時代でもっとも印象に残る大学生活導入講座となっているらしい。
 という訳で、私は自分のセミナーの学生(2,3年生5名、うち一名は中国からの留学生)に、安田喜憲さんの「一神教の闇」をこの冬季の課題書籍としてプレゼントし、読書感想文を書かせる。先日、一足早いクリスマス・プレゼントとして渡したばかりであるだが、残念ながら「買って、読んで、レポートを書いてこい」とは言えなかった。情けない。

金曜日, 12月 01, 2006

着付けコンテスト団体優勝 優秀留学生の学長賞

3年生4名の女性陣は部活に、ボランティアに、そして留学生生活にと、学業だけでなく頑張っている。YUKAは着付け部で県コンテストに女子留学生と一緒に出場し、団体優勝。来年の全国大会に出場が決まり、NHKホールの大舞台を踏む。中国からの留学生のマは、学業優秀、留学生新聞のとりまとめ役として活躍し、晴れて学長賞。金一封を授与された。バイト生活の彼女にとって、さぞかし心強かったことだろう。他の二名もそれぞれ学業も、個人的活動もバリバリやっており、頼もしい限り。だからこそ、プロジェクトを上手く、ロス無く、進めてやりたいのだ。メモリー装着に必要な、00番プラスドライバーをネットで入手。アップル・サポートでメモリー装着の疑問点を解消。コラボ・サーバーにファイルのアップ、数点あり。すべて、深夜から早朝にかけての時間帯が記録されている。
 午後、スノータイヤの脱着のため、ディラーへ。営業さんが、我がスノータイヤのボルトを紛失したようだ。あぁ〜〜!

月曜日, 11月 27, 2006

古森義久著「凛とした日本ーワシントンから外交を読むー」

中国が気に掛かる。そこで産経新聞北京総局長を務め、現在はワシントンを中心にジャーナリスト活動をしている古森氏の新刊本を昨晩から大学への道すがら読んでみた。21世紀は、アメリカと中国が覇権を競い合う世紀になることは間違いなく、中でも、中国の国際戦略や東アジア政策が、どこを、何を目指しているかが注目されるのである。
 古森氏は毎日新聞のサイゴン特派員から海外報道のキャリアを開始し、ワシントンや北京、一時ロンドンを拠点としたこともあり、日本きっての国際ジャーナリストである。ボーン賞受賞者でアジア報道を専門に行っていた産経新聞の近藤紘一さんの著書にも、サイゴン時代の古森氏が登場していて、10数年前に近藤著書にのめり込んでいた頃を思い出した。近藤は、民衆の生活レベルからの視点であったのに比べて、古森氏の視点はあくまで国際政治という余人にはうかがい知れない領域を扱っており、ときどき、気が向いたときに彼の書籍を購入していたように記憶している。語り口は、端的にして、少々堅いのだ。
 さて、中国であるが、本当にアメリカと軍事的に対峙し、世界に緊張が走るような事態になるのだろうか? 台湾問題、東シナ海海底油田開発問題、靖国批判に象徴される日本バッシングの真意は、このような観点で読み進むと、その危機感は想像以上だった。南京虐殺を描いたハリウッド映画の真偽などが、中国の国際情報操作の一環として、政府の意を受けて展開されている話などは、ビックリしてしまった。面白さをとおりこして、不気味な感じである。このガセネタは、繰り返しアメリカに存在する中国系団体から仕掛けられた反日キャンペーンらしいのだが、噂に尾ひれが付くと、本当に映画が出来てしまいそうな国際情勢もありそうで、苦々しいね。

日曜日, 11月 26, 2006

梅原猛、安田喜憲共著「長江文明の探求 ー森と文明の旅ー」新思索社

渇いた空気、単層化した自然、紺碧の空と青い海。地中海地方の風土は 目に浮かぶ。そんな地中海地方で地球環境考古学を開花させた一人の筆者は、日本の誇る碩学の師に巡り会ったことから、畑作牧畜の文明と稲作漁労の文明という概念を結実させた。その切っ掛けとなったのが、稲作漁労の文明をもとに都市まで持っていた長江文明だったのだ。この本は、師と弟子とが、21世紀最大の発見となろうとしている長江文明遺跡をともに探査しながら、この発見の持つ意味をお互いに語り尽くそうとした書である。
 安田先生はさらに、畑作牧畜の文明は「力と闘争の文明」であり、現在の危機的環境問題を生み出した文明として位置づけ、長江文明のような稲作漁労の文明は、自然から恵みを得ることを重視し、深い自然への洞察と勤勉で誠実な自然への働きかけを重視してきた「美と慈悲の文明」だと説いている。そして、環境問題に待ったなしの21世紀初頭にその存在が明らかになったことを、天からの啓示ださえ言っている。
 この書籍は学術書ではない。構えないスタイルで、師と弟子とが、長江文明発見のバックグランドを共に旅するその道程を、さまざまなエピソードを挿入しつつ解説している。当初、長江中域の質柔な風土を嫌って出掛けたがらない安田氏を引っ張り出した梅原先生が玉器を観て、高度な文明の存在を直感するが、その重大さに気がつかない安田先生をしかりつけるところなど、面白い。その重大さに気がついた安田先生は、それからというもの梅原先生と同行し会話を交わす際は、テープレコーダーを持参して、梅原先生の発言を最大漏らさず録音しているという。梅原先生の直観的に重大さを見極めるその力は、膨大な碩学に成り立つものだとも説いている。
 そんな二人の交流の軌跡も面白いのだが、愁眉は、なんと言っても「力と闘争の文明」である4大文明史観を打ち破る稲作漁労の文明、言い換えるならば、「美と慈悲の文明」の発見物語である。
 私事になるが、この夏の終わり頃、私は北京での博物館調査に出掛けた。初めての中国旅行である。オリンピックを控えた北京は、一昔前の東京のようの思えたが、空港に降り立ち、タクシーで北京市内へ向かう道中に直観的に思ったことがあった。それは、「この国はなんとアメリカ的なことか!」という感想なのである。それはホテルに入り、市内を徘徊し、テレビを観れば見るほど、その思いが強くなって行った。それが、何を意味するのか、帰国してから手当たり次第に勉強していた。そして、この安田文明史観に出会い、一挙に解決した。
 私が感じていたのは、「力と闘争の文明」そのものだったのである。北京郊外の巨大ビル群は、アメリカで言うと、ヒューストンやダラス、あるいは、中西部の都市のように、広大な敷地を、広大に構造化してそそり立っており、その景観、イメージからの感性は、まさにアメリカ的。そこに通底する感性、思想は同じじゃないか、という感想だったのである。その意味が、解らないから、この3ヶ月、勉強に、勉強していた。そして、大橋力先生の道場に出掛けて、安田先生のことを知り、書籍を猛読して、ようやく納得したのである。
 畑作牧畜の文明=「力と闘争の文明」は、家畜の餌となる草原を求めて、ときには遊動する場合もあり、そうなると空間認識力として、「俯瞰」する力や発想を、自然と身につけるという。ところが、稲作漁労の文明=「美と慈悲の文明」は、特に稲作を考えてみても、稲を植え、草を取り、穂を刈り取り、といったメンテナンスを、その地に張り付いて、絶えず地上に向かって視線を落としながら、地球を見つめながら過ごさなくてはならず、おのずと自省的、内観的空間認識となると説明している。なるほど、俯瞰の発想が強ければ、確かに宇宙へも平気で出掛けることになるのだ。

金曜日, 11月 24, 2006

佐藤和孝著「戦場でメシを食う」 新潮新書

著者佐藤和孝氏は独立系ジャーナリスト集団「ジャパンプレス」の主宰である。先の2001年同時多発テロに端を発するアフガン侵攻、イラク戦争において、現地からのライブ中継を行っていたジャーナリストと言えば、思い出す人も多いことだろう。日テレの「今日の出来事」での活躍を記憶する人も多いはずだ。 
 佐藤氏は二十数年にわたる戦場報道の前線において、さまざまな経験を積んでいるが、そのインサイドストーリーを、「食べること」に焦点を当てて、描き出している。地域の文化、とりわけ現地の庶民の食事に近い戦場食をとおして、次の瞬間絶体絶命の危機に立たされるとも限らない状況下でも食事をする人々と、彼らとの交流や実際に食した料理を、戦場というレストランでの話として伝えている。そして、その文章は、カメラマンとしての環境認識力に裏打ちされた秀逸な情景描写力となって、リアリティを生んでいる。
 特に気に入った一節を紹介したい。それはインドネシア・アチェ州で反政府ゲリラを取材したとき、ゲリラの仲間たちから出された食事をしているときの情景描写だ。
 ーー唇が腫れ上がり、胃が痺れる。汗腺が壊れてしまったかと思われるほど、全身から汗。内臓まで汗をかくのだ。熱帯の暑さと唐辛子。汗を流しながら食べるのも気持ちがいい。(173ページ)ーー
 私は、この「内臓まで汗をかくのだ」という表現が気に入ってしまった。こちらまで、胃のあたりがジンジンしてきそうである。インドネシアのサンバル(赤唐辛子味噌)の辛さは私も大好物だが。
 あるいは、旧ソビエト連邦のチェチェン紛争の取材に出掛けては、羊の焼き肉にこだわっている。
 ーー六十センチは優にある鉄の串に刺さった肉が運ばれてきた。その串にこぶし大の骨付き肉が四つ刺さっている。「ゲンコツ」が刺さっているようだ。肉は羊である。
 フォークで肉を串から抜き取る。火から下ろされたばかりの羊肉は、指でちぎれないほど熱い。かまわずかぶりつく。炭火で焼かれたその肉は程よく火が通り、歯ごたえはあるが柔らかい。咀嚼し肉のエキスを吸う。塩味がきき、炭の香りで燻された味が強烈に舌に残った。
(181ページ)ーー
 端的な表現の中に、味覚に対する強烈な感受性を感じるのだ。そのような鋭敏で研ぎ澄まされた感覚から、死の恐怖と戦いながら戦争報道してきた者の感性が生まれたのかもしれない。紛争地の政治情勢(争いの根源的理由)や、文明の衝突地帯の悲酸を、食べるという人間本来の基層から描き出した秀逸な戦争ジャーナリストのエッセイである。

木曜日, 11月 23, 2006

川勝平太著「美の文明」をつくる

文明としての日本論。日本文化というキーワードはたびたび見聞きしてきたのだが、日本に独自の文明があるのかという素朴な疑問を想起するのではないだろうか? 確かに、私自身も「日本文明」という論点を明確には持っていなかった。文化は意識してきたのだが、文明となると、自信がなかった。
 しかし、先の安田喜憲氏の著書やこの「美の文明」をつくるを読んで、一気に文化論から文明論へのシフトを余儀なくされている。川勝さんは後半部分で、日本は明治維新期に、日本を世界の中で自律させるには、まずは国民教育であり、それは「国学」でも、「漢学(中国文明)」でもなく、「洋学」にこそ求めるべきだとした約百数十年前の江藤晋平の文部行政指針から抜けだし、いまこそ、地域に根付いた学問体系を導入すべき時期に来ており、それは「洋学」に盲従した学者のそれではなく、例えば、漁師ながらに独学で地域の海の再生に取り組み、「漁師さんの森づくり 森は海の恋人」を著した畠山重篤さんや、やはり大学で建築学を学んでいないのに世界的建築家である安藤忠雄さんのような人たちの独自に打ち立てた体系を、新しい日本の学ぶべき固有の学問として考えていこうと提唱している。
 大橋力先生の門下生として、欧米的発想ではない、アジア、日本などに固有の価値体系を大事に、現在的な意味合いを問い直して来た一人として、この川勝氏の提言は、まことに的を得た考え方であった。環境考古学からいまや文明論者でもある安田氏の提唱する「美と慈悲の文明」、川勝氏の提唱する「美の文明」など、一連の熱い文明論を読み進むと、日本人、あるいは、アジアの住人として未曾有の環境時代に、待ったなしの環境問題克服の季節に、大きな勇気となって読者を励ましてくれる。「素晴らしい本物の文明論、いま、ここに咲き誇らん」の感ありである。

勤労感謝の日

もうすぐ師走。はい! 私は毎月、師走ですね。特に今年は学科の取りまとめ役なんぞをやらされてますので、もう、雑用一般引き受け係で、忙しいのです。メディアコミュニケーション学科の1年生のセミナー選択のための面接は今週末まで。昨日の3限目終了後は、廊下に学生が群がっていました。今年度から、セミナー担当先生、うちの場合7セミナーありますが、その7先生全員と面接をすることをルール化。スタンプラリーさながらの状況。各先生、新しい動きに少々驚いているのではないでしょうか。さて、来週月曜日夕刻には応募のアピールを書いた用紙を教務課に出すわけですが、果たしてどのような結果になることやら、心配です。などなど......。

水曜日, 11月 22, 2006

Podcast>.mac group site>Animation Project

うちのセミナー(電子出版セミナー)2,3年生の今年度の共同制作は、約2年間かけての長期プロジェクトを進めている。今、立ち上がりの大事な時期にさしかかっている。前期から夏休みも潰して、MEIREN&SORAの青春物語を台本化(原稿用紙約130枚の大作)し、総ページ数約380ページ近くの絵コンテを創り上げた。後期からは、この絵コンテを元に、ビデオコンテを創り、台詞の仮吹き込みをして絵柄と各カットのタイミングを計り、いよいよテスト・クリップを本格的に制作し始めたばかりである。
 ここで新兵器を導入した。.macで用意されているグループ用、コラボ用の機能である。グループの登録メンバーだけが使えるブログのような体裁になっており、連絡に、グループ作業用のiDiskへ作業ファイルを転送し、相互の作業の連携を深めている。また、テスト用に小さなQTムービーをポッドキャスト用のブログにして、段階をおってアーカイブ化していく手はずも整えた。web2.0時代の最新の方法論でこのプロジェクトを組織してみたいと考えている。

火曜日, 11月 21, 2006

安田喜憲著「一神教の闇」

すごい論者が現れた。環境考古学を打ち立て、地球レベルで古気象の変動と文明の盛衰の因果関係を解き明かしている著者。その科学的なスケール感に圧倒されながら読み進むと、現在人類が抱えている環境問題の根の深さ、人類存亡の危機がいかに深刻で、待ったなしのレベルにあるか、そして、その危機的環境破壊の現況ともいうべき砂漠から生まれた一神教(ユダヤ・キリスト教、イスラム教)が形成してきた「力と闘争の文明」への対応策や克服のビジョンなどが、生々しい現実感を伴って迫ってくる。
 私は小さいときより、宇宙より丸い地平の見えるこの地球に留まりながら物事を考えたいと思っていた。その思いは、科学雑誌ニュートンの編集者となり、宇宙論やNASAの宇宙開発の記事を扱うたびに強くなっていった。人類が宇宙までをも自分たち人類の生存圏として、未開拓のフロンティアと認識して出て行く必要があるのか、そんな疑問を強く持っていた。そして、この書を読んだことによって、その一つの回答を得たような、納得があった。やはり、自然を人間の従属下に置こうという発想からすると、地球レベルでの制圧が行き詰まり、「その先は宇宙へ」というフロンティア思想からの取り組みであり、宇宙開発推進者たちのその根底には、一神教的な「力と闘争の文明」の発想に裏打ちされた価値観がることをはっきりと理解出来たのである。
 そうなると、宇宙へ出ることの唯一の価値は、水の惑星地球という絶対的な環境をシャトルに乗った目で監視し、地球のあらゆる環境的指標をセンシングすることにのみ、現在的な価値があるということも理解されるのである。
 この「一神教の闇」中には、いまや盟友の感がある大橋力先生の「音と文明」からの引用や考えを賞賛のもとに随所に引用紹介している。その意味からも注目して読み進むと、「力と闘争の文明」史観、一神教史観しか持ち得ない西欧・アメリカ型の発想では、地球環境問題の解決は無理であり、古来、アニミズムの発想を色濃くもっていたアジア・モンスーン地区の我々にこそ、アジアの発想にこそ、将来性があるとが見えてくる。残念ながら、アフリカ地区からの提言がないことが気に掛かるが、「もったいない」という思想を資源再活用、循環型社会構築のキーワードにしようという発想を見いだした人がアフリカからの人材だったことを思い出して、安心している。(ノーベル平和賞受賞者 ワンガリ・マータイ) この書籍をセミナー生の冬休みの課題図書にしたいと考えている。先ほどアマゾンで発注した。どうですか?ナベさんも読んでみては!

メディア論2の今年度課題は……

1限目の講義は出版メディア論2。従来、メディア・リテラシー啓発のための講義にしているが、今年度の最終課題は、12月中旬から受講生全員にブログを開設させ、ブロガー生活をやってもらい、その結果報告をレポート形式で試験するという段取りにした。そそ、このブログも、そのための準備だったのである。

月曜日, 11月 20, 2006

5時起き、10時20分には大学 ブログにコメント有り

朝、メールを見れば、昨晩から今朝にかけて学生諸君、いろいろ手直ししたり、シミュレーション・クリップを創ったりしていたようだ。5時55分という良い頃(語呂)の時間にメールで感想やら、意見やらを返信し、MLにもCC:で流し、6時20分にはタクシーを呼んで福井駅へ。7時14分のしらさぎで名古屋へ。車中は就寝タイム。
 朝方の駅は通勤通学客や遠方へ出掛けるお年寄りグループなどが週明け一番の爽やかな表情であつまっていた。そして、大学へ来てブログを確認したところ、ナベさんからコメントが入っていた。音信不通気味の2年間。生きているようだ。嫌われ松子の件について、コメント。感謝!
 先週から今週末まで、1年生はセミナー選びの面接期間中。今回は7セミナー7先生全員と面接し、面接確認のスタンプ・ラリーに参加しないと、セミナーへの配属をできないというルールにしてある。先週の学生たちの出足はそこそこであった。今週の様子はどうなることか。

日曜日, 11月 19, 2006

嫌われ松子の一生

中嶋哲也監督作品。公開されたときから気になっていて、DVD化されたのを契機に早速観た。色調の新鮮さ、いや、こういう色調をようやく日本映画でも追究するようになったのかという感想がまず浮かんできた。さらに、CGを効果的に挿入しての演出は、ともすると悲惨な話を、どこかほんわりとしたテーストに持ち上げ、花のある作品になっている。画面の構成でも、その花を手前に持ってきて、「色」を置こうとする意識が働いているように思う。そこが、演出なんだろうけどね。
 なぜ、色にこだわるのか。今、セミナーの学生たちが苦闘している。アニメの原画創りに挑戦しているわけだが、その原画の質の追究に意識が向かってはいても、どのように動画化するのかという、その先の技術的な側面への不安があるようで、肝心要の原画の質の追究という側面に腰が据わっていないのだ。そんな感想を持ちながら、嫌われ松子を観ていたから、一層いろにこだわってしまった。
 映画としては、後半のストーリーを「収めて行く局面」にもたつきがあり、モニターを導入していたならば、もっと「すっきり終わって欲しい」との要望が出たはずだ。そこをそのようにはしなかった点が気になるが、おいの回想と松子の過去から死ぬまでの経過を今と昔を行きつ戻りつ編集し構成しているストーリー立ては面白かった。楽しめる構成になっていただけに、最後のどのように殺されたかのシーンはあってもなくても、いや、無いほうがさらにミステリーになって良かったんじゃないかまで思ってしまうのだ。
 難癖をつけてもしょうがない。私は、このような斬新な映像表現を持ち込んだこの作品を繰り返し勉強していくことは確かであり、良い作品であることは疑う余地のないところである。

土曜日, 11月 18, 2006

簡単に出来ちゃうんですよ!

これは学生たちに教えなくて、どうするの、て感じですよ。こういう活動を気安く、ちょっと真面目に、でも楽しみしてくれる学生たちが一人でも出てくれば、それで充分。自己表現のきっかけになって欲しいのです。

学生とともに

私は四日市大学環境情報学部メディアコミュニケーション学科で電子出版を教えている。ネット時代のリテラシーとは。 その答えにたどり着くためにも、辿り着くための道筋を知るためにも、ブログを学生たちと一緒にやってみることにした。さて、どんな結末になるのか、楽しみである!

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...