月曜日, 2月 08, 2016

ケーブル・テレビをいつ捨てるのか?

このところ、動画配信サービスのhuluやNETFLIX、そしてNHK  Ondemandを頻繁に使っている。メディア・ウォッチャーとしてのリサーチの側面もあるが、一般的な自宅での余暇の過ごし方として、果たしてこれらがケーブルテレビの多チャンネル視聴に変わりうるものなのかを見極めたいという願望もあってのことだ。私も、そろそろ結論を出したいと思うようになった。
ケーブルテレビで一番気がかりなチャネルはCNN。だが、ひとたび世界的な大事件が起きると、CNNもBBC Worldも、ネットでの同時中継を開始して、その画像は本放送と変わらない質で、タイムラグもほとんどなく視聴者に届けている。これはNHKも同じ体制になってきている。だから、CNNはネットで十分だと言える。
問題は、BSプレミアムのようなBS系の番組だ。一部はオンデマンドで見逃し視聴が可能だが、中にはオンデマンドのラインアップに上がってこない番組もあり、BSと地デジは残したい。BSの場合、以前は小型パラボラ型のアンテナ+チューナーで視聴していた時代もあったが、ケーブルテレビを外す場合、このスタイルに戻ることを想定すると、実は少々不安だ。なぜなら、アンテナからの視聴には天候条件にかなり左右されてしまうことを経験しているからだ。特に、冬の時期、曇天で雨や雪の時は、受像が乱れ気味になる。これはかなりストレスになる。となると、ケーブルは残すべきという結論になるが、ネットの進展を考えると、各ケーブル・チャネルの行く末はネットと合体するしかなさそうに思えるのだ。
各ケーブル・チャネルのネット上のプロモーション・サイトでは、時にネット同時中継をやったりしているし、huluのようにFoxチャネルをすでにライブで流しているスタイルも出てきている。となると、どこかの時点で視聴するメディア・インフラを選択する時代が確実にやってくることになりそうだ。
私は昨年12月に新しいMacBookProを使い出した。画質としては2880ピクセルまで表示可能な機種で、大型モニターへの出力にはHDMI端子が付いている。だから、現行のフルHD品質で映画やドラマを見ることが出来る。この1ヶ月半、huluやNETFLIXの視聴は、すべてこのスタイルで楽しんできた。Wi-Fiルーターと居間は約8メートルほど離れているが、全く問題なくMacBookPro>大型液晶テレビで視聴できる。写真データなどを映し出して、少し離れた位置からの画質や構図の確認も行ってみたが、なかなか使い勝手がある。グーグルTVやアップルTVなどの企画も出揃っているが、要は、私のようにどこで切り分けて視聴スタイルを決めていくかの問題のように思える。
さて、話題は変わって4Kテレビの件だが、昨年12月初旬に大学の研究室で、4Kモニターを導入した。その時思わぬ情報に出会って、世間は私が考えている以上に前進してしまっているのだと、驚愕したことがあった。それは、各メーカーからの液晶テレビ、55インチ以上の大型モニターは、全メーカー、すべて4Kを映し出すことができるようになっているというのだ。55インチ以上の大型モニターはすべて4K対応済みなのだ。
確かに、YoutubeもVIMEOも、4K作品に対応しており、適切なモニターさえあれば、4K作品は視聴可能になっている。また、ストック映像を制作している写真家や映像作家さんたち、最近は4Kで制作することに主軸を移そうとしているらしい。となると、4K時代は以外と早くやってきそうなのだ。その時、旧来のインフラを持つ放送局やケーブルテレビのインフラが即応できるのかという疑問が浮かぶ。
新技術や新しいスペックはできる領域から始めてしまえという発想で進んできたネットの世界の方が、素早く対応できそうに思えてならない。映画でさえ、劇場公開とネット公開をシンクロさせる作品が出始めている。ネットでの公開を先行させ、モニターし、劇場公開版への修正案を求める動きだったありそうだ。
より安く、より確実に、高品質で視聴できる自己環境を整えることは、仕事への応用、仕事上の情報収集の面でも求められること。だからと言って、すべてのインフラを自己環境に置くことは、経済的ではない。通信や放送関連への出費比率が高まる傾向の今、これは家計上も重要なことになってきている。この観点も見逃せない。
この20年の放送インフラの文化的な変遷を思うとき、FMも、地デジも、BSも、通販のキャンペーン枠がどんどん増えてきていることが悩ましい。特に、運転中主に聞いているFMにこれが入ってくるとうんざりする。かつて、雑誌が広告を載せる台と化してしまった例もあるが、FMやテレビも、その轍を踏むのであろうか。

月曜日, 9月 14, 2015

テレビドラマと映画制作の境界線が崩れてきた

先週の土曜日の朝、14年を経過した同時多発テロ関連の記事をみてみようと考えワシントン・ポスト紙のサイトを覗いてみました。すると、当時ワシントンDC地区上空を防衛できる空軍のF16戦闘機のパイロットたちの証言が取り上げられていて、当時下された命令はやはり民間機を阻止せよとの命令であったこと、しかし、打ち落とせるミサイルなどが実装されていなくて、飛び立った2機は体当たりで阻止する決意をしていたことなどがエピソードとして記事になっていました。これも、面白い話題だったのですが、私が最も注目した話題は、トロント映画祭に集結した映画人たち、すなわち、プロデューサーや監督、シナリオライターたちが、ことごとく心配している案件として、今の時代、本当に芸術性の高い作品を創り難くなっており、映画制作がテレビドラマのようなシリーズ作品化する傾向になっていることを憂いているという状況を伝えていました。その情勢を逆説的に説明しており、なるほどと思った次第です。
つまり、「大手ケーブルテレビ系や、最近ではネットのオンデマンド系の大手が独自のドラマ制作に力を入れてきており、そのような中から非常に質の高いドラマ・シリーズが次々を生まれてきている。例えば、"House of Cards"(ハウス・オブ・カード)や"Breaking Bad"のようなヒット作を指しているのだが、それらはかつて映画が取り組んだような品質でつくられており、監督を始めとするスタッフ陣もこぞって映画からこの領域に進出してきている」。
だから、劇場上映を目的とする映画が、どんどん低品質化してきており、映画・ムービーの将来性が不透明になりつつあるという説明でした。
この意味、凄く実感しています。というのも、hulu体験が約1年間、NETFLIZ体験約10日間くらいですが、欧米、とくにアメリカとイギリスで制作されたドラマシリーズ、とくに最近のシリーズ、実に品質が高くて、ハマってしまっているからです。
これからこのブログでは、このような映画、テレビ・ドラマなど、ネットを軸とした視聴から得た話題を、少しづつ掲載していこうかと考えています。

土曜日, 6月 21, 2014

サッカー・ワールド・カップって、何なんだろう? 〜群れることを知らない若者たち〜

実は、私のなかでは、今回のブラジル大会は終わってしまった。日本代表の戦いぶりを観て、やはり、この国の若者たちが背負ってしまった世界との壁、この国の若者たちが自分自身では気がついていなくて、でも世界の若者たちとは決定的に違う負の構造を背負わされている事実を、痛感させられるのだ。
2006年のドイツ大会予選第3戦はブラジルとの戦いだった。結果的には負けたのだが、当時の中心選手中田英寿は、試合終了後ピッチに仰向けになり、顔をタオルで隠しながら、自身の現役生活への別れを表現していた。中田がチームメイトへ、そして日本のサッカー界へ唱えていた主張の核心は、自己中と罵られようと「個の力、個性、感性」を確乎なものとして貫き、その元でチームとして戦うことだったと記憶している。時には監督にピッチ上から要求して選手交代を行ったり。だが、その存在はチーム内ではあまり受け入れられず、常に浮いた存在に押し込められていた印象がある。
今回の大会前、ボランチの遠藤保仁はあるインタビューに答えて、「ヒデさんが言っていたことは、当時は理解出来なかったが、いまは全て正しかったと思えるようになった」。確かに、本田のようなキャラクターを観ていると、中田英寿の進化系に見えなくもない。キャプテンマークを自ら志願する長友佑都にも、同じ傾向が見て取れる。
しかし、なのだ。直前の強化試合で日本に負けたコスタリカが2連勝し決勝トーナメント進出を決めたというのに、日本は予選リーグで敗退が濃厚な情勢。一体、何が日本選手に足りないのだろう。いま、多くの日本人サポーターを悩ませているテーマ、何故だ!
私は素人だから、ライブ映像から伺う選手たちの表情、パフォーマンスからしか想像出来ないのだが、それでも対戦国の選手たちとの違いを嗅ぎ取っている。解説者がサッカーのテクニカルな面やメンタル面の解説をしようが、心の底では感じつつも、避けているテーマがありそうだと感じている。
それは国家戦略としての教育を誤ったまま、本当の意味での「大人」に育ててこなかった国全体としての深刻な課題があるという観点だ。
大学教員として、この16年間、いまの30代半ばから現在10代後半までの世代を観てきたが、そこでも感じてきた幾つかの傾向を思い浮かべている。その解析の中から、今回の日本代表戦を分析出来ないか。少し箇条書きに書き出してみる。

その1:群れることを知らない若者たち。年少時に、野外でチームに別れて喧嘩したり、戦争ごっこのような遊びをやっていない。スポーツクラブは各種取り揃えられていても、ライブな「群れ」の経験がない! 最近では暴走族も影を潜めてきた。
その2:深いコミュニケーションをとるという経験がない。友達付き合いも、お互いが傷つかない浅いレベルで自制気味行っている。LINEなどは、その象徴か。
その3:親子関係が縦の関係ではなく、同一平面上のお友達のような関係になっている。小中高の先生たちも、彼らの目線に降りて、彼らに合わせているような。
その4:家庭内で反抗期を経験しないでそのまま10代後半へきている若者が多い。大人の発想が持てない、大人の発想を感じられない。総じて、幼児的気質が全開となる!
その5:大人から、叱られたり、怒鳴られたりした経験がない。
その6:同年代からの陰湿なイジメやシカトは経験している。
その7:大義とか、こうあるべき正義とか、そのような観点は希薄で、出来れば素通りしたい、素通りして自分が傷つかないように願っているような、気配を感じる。
その8:学業とバイトが重なった場合、バイトを優先する傾向が強い。何故なら、お金が係っているだけでなく、バイトには社会的責任が伴うからで、この点を優先的に考えている。結果、学業には無責任でもどうにかなるという認識が行き渡っている。だったら、大学も学生の本分としての責任を問うべきだが、手緩い。
その9:問題状況、危機状況に陥った場合、自身に危険が有るにもかかわらず、行動を起こせない。思考停止状態になってしまい、結果的に、立ち向うのではなく逃げを打つ消極行動が目につく。期末試験に寝坊して試験を受けられなかった場合など、先生に頼みにくる学生は皆無!
その10:何か人生上の決断を迫られた状況下にあっても、決断に大変な時間がかかる。留年が続いた場合など、転身を決断するのに年単位の時間がかかる。
その11:子供ぽいと言われると、訳も無くムカつく!しかし、人に好かれたり、愛されたりすることへの願望が低く、自身を変えて行く行動が皆無!

スペインを破ったチリ、イタリアを破ったコスタリカ、引き分けに持ち込もうと一致団結して守ったギリシャ、彼らのパフォーマンスを観ていると、国家代表の誇りとプライドを掛けて、国民の願望と言うフレッシャーを力に変えて最後まで戦い抜く根性を示し、実に骨太な魂の塊を感じてしまう。でないと、彼らは本当に国に戻れないのだ。
コートジボアールのドログバ投入を切っ掛けに、2分間で2失点した直後の日本チーム。それは、あたかも日本選手全員の脳細胞が活動を停止したように観えた。あるいは、ギリシャ戦では相手が一人少なくなり、ギリシャは引き分け狙いの布陣を敷いてきたが、果敢に中を切り裂く行動がとれないという優柔不断さを見せつけた。あの「思考停止状態や優柔不断さ」、何かに似ていると思い振り返ってみたら、それは、311が発生した直後の日本全体を覆った、あの状態に極めて似ている感じがするのだ。その後の原発事故に対する無為無策も、似ているように思える。
日本は人を育てるという大義を、もう一度、根幹から洗い直し、社会を修正して行くべきだ。

土曜日, 10月 05, 2013

世界の共産主義闘争を進めていた親の子弟を一手に預かり、コスモポリタンに育てていた学校があった。

BBC NEWS MAGAZINEから。

この記事は実に面白い。旧ソビエト時代に、国際的な共産主義闘争を行っている親の子供たちを危険地帯から退避させ、国際的な感覚と身につけさせる学校がモスクワ郊外250キロのところにあり、そこにはかの毛沢東の長男も通っていたという。この学校は、戦後もその趣旨通りに生き残ったが、一時、軍人を育てる士官学校への改変を企てられたそうだ。しかし、卒業生や学生たちがハンガーストライキをして、そのまま生き残り、今日でも、設立当初の趣旨通り、紛争地帯や自然災害で教育がままならない世界のあらゆる地域から、活動家たちの子弟が留学してきているという。紛争地帯とは、リビアやシリア。あるいは、エチオピアやソマリアなど。旧ソビエト、現ロシアについて、私たちはの知識は、偏っていて、しかも、極めて乏しいのではないのか。

土曜日, 9月 07, 2013

サッカーとは、「ボールを奪い取る遊び」

昨晩は、キリンチャレンジカップ 日本代表対グアテマラ戦を観ていた。東アジア選手権で活躍した新しいタレントを積極的に配置した布陣での戦い、非常に内容があったと思う。大迫も、柿谷も、DFに入った森脇も、「代表に定着するのだ!」という意気込みを見せてくれた。後半登場の本田は、このチームの真のエースはオレなのだ、という実力を堂々と見せてくれた。ゲーム終了後、本田は柿谷の首に手を回しながら何やら話している姿が見受けられたが、柿谷のポテンシャルを充分に認識しているのが感じられるシーンだった。
ザッケローニ監督は、自分の手足となってサポートしてくれるコーチ陣を引き連れてきているらしいが、それらのメンバーから上がってくる選手の情報を、きわめて冷静に、そして客観的に活かしている雰囲気がある。Jリーグで好調であれば、代表でテストするというルーティンを、極めて忠実に体現しており、いままでの代表選考から比べると、その公平性は極めて高い感じがする。次期イタリア代表監督の候補と取りざたされているが、うなずけるものだ。
代表勝利に気分を良くして、昨晩はhuluで、映画"GOAL3部作"を立て続けに観てしまった。そして、あることに気がついた! サッカーの基本コンセプトは、「ボールを奪う遊び!」なのではないかという点だ。 
メキシコから出てきた主役のサンティアゴがリアルマドリッドに移籍し、実母と義理の弟エンリケと出会うストーリーの中で、エンリケがマドリッドの貧しい地区をサッカーボールを脇に抱えて歩いていると悪友と出会う。その悪友はエンリケからボールを奪い取って走って逃げるのだ。そして、空き地にくると、ロングボールを蹴るように向かいの古びたマンションにむかって蹴り込む! ボールはあるお宅の窓ガラスを割ってしまい、エンリケはボールを失ってしまう。このシーンは、サッカーゲームの本質を、実にシンプルに描いている。
サッカーとは、「ボールを奪い取る遊び」であり、ゴールはその遊びをリセットするための区切りだ。このようにサッカーの捉え方を考え直してみると、日本のサッカーの発想的弱点が明確にはならないか。日本での一般的な考え方は、「ゴールを奪うゲーム」という考え方が、まず最初にくるように思う。そのプロセスには、オフサイドのルールがあったり、危険行為を判別しボールを相手方へ渡すルールがあったりと、そういうルール化された規範からサッカーゲームを捉えているのが一般的であろう。しかし、世界では、そうではないようだ。
まずは、「ボールを奪い取る遊び」が大前提にあり、ゴールはその遊びのリセットの区切り。ボールをいかに奪うか、ボールをいかに奪われないかが、その遊びの核心となっているように思う。だから、ドリブルが上手い相手からいかにボールを奪い取るのか。マリーシア、時には反則すれすれのずる賢い行為も、当然、そういう遊び中に含まれたものとして考えれば、南米やヨーロッパの選手のプレイがより一層理解出来るというものだ。
映画"GOAL3部作"については、1と2は、認めますが、俳優が代わってしまった3は、付け足し的で、あまり面白くない。ベッカムの全身に彫り込まれたタトゥーが生々しい。ロナウジィーニョ、ロベルト・カルロス、ルーニーたちの実際に試合をしている映像を惜しげもなく挿入しての映画作りは、多いに興味を引くものだった。

土曜日, 8月 31, 2013

シリア情勢〜アメリカの本音は何処に〜

昨晩は深夜過ぎになって、アメリカのケリー国務長官がシリア情勢についてのステートメントを出すということで、零時半頃からCNNにチャネルを合わせて、その時を待っていた。日本時間1時30分頃と伝わっていたが、実際に放送が開始されたのは、2時頃だった。
ケリー長官のステートメントの骨子は、シリア政府が化学兵器を使用したことは、情報機関からの分析から明らかであり、その事実は、情報機関からの分析だけでなく、現地に入り込んだ医療関係者の証言や、多くのSNSに投稿されたビデオなどからも、化学兵器の使用があったことを明らかに実証していると主張! そして、この事実はアメリカの国益および世界の平和をおかす脅威となる可能性が高く、また、世界のリーダーとして、正義を貫くべき立場として見過ごすわけにはいかないアメリカの立場を説明し、軍事行動を含む介入に踏み切る姿勢を示した。
このステートメントが放送されるや否や、アメリカの大手報道機関のWEBサイトには、以下のタイトルの情報機関の分析報告が掲載された。

http://edition.cnn.com/interactive/2013/08/world/syria-documents/index.html?hpt=hp_t2

この報告書を読みながら、報告書を構成するレソリックの中でも、反体制への言及に注目した。ちまたでは、アメリカはこれまでアサド政権に対抗する反政府勢力への武器援助を含む肩入れを継続していたことは明らかである。そして、その反政府勢力が化学兵器を使用したのだという情報も強く流れていた。この件に対する異常とも思えるべき反論を、徹底的に行っている。反体制は化学兵器は使用しなかった。使用したのはシリア政府軍であり、それを指示、命令したのも、シリア政府高官であると。
そして、ここからアメリカの矛盾に満ちた現状がみえてくる。この反政府勢力に、中東やアフリカの各地から、アルカイダを含むイスラム過激派が猛烈な勢いで参加し始めており、シリア政府に対抗している。反体制勢力に利するようにアメリカが行動を起こした場合、このようなテロ勢力をも助けてしまうジレンマが潜んでいる。
一方、オバマ大統領は、「私くらい、戦争を憎む人間はいない!」と強弁し、「アメリカ軍がシリアの地に踏み込むことはない!」と明言するのだ。テクニカルには、シリア沖合からのピンポイント爆撃による限定的な制裁としての軍事行動を意味している。
つまり、アメリカは、正義の使者、世界の警察としての「面子」を示す必要性にかられており、そのための軍事行動開始という側面が強い。
今、世界的な世論に変化のときが来ている。欧米各国とも、イギリス、カナダのように、連合軍には加わらないことや、声を大にしては叫ばないが、アメリカによる単独行動主義の危うさを恐れ、愚かだと思う世論は、確実に広がっている。各国とも、イラク戦争が愚かなロジックから始まり、後味の悪い結果になっていることを熟知している。

月曜日, 8月 19, 2013

メイン機を一から仕込み中! そして解ったこと!

しばらくFBをさぼり気味でしたが、この間、オフィス(情報工房伽藍)の整備や新しい編集機(iMac)を導入したことなどで、結構、忙しくしていました。で、今日は、そのiMac騒動からの知見から考えたことを少々、ご報告。
まず、機材が到着したので、オフィスでメインに使っているMacBookProから設定や最小限の書類ファイルを移行しようと、Thunderboltで繋いでいこうプロセスを進めますが、あるところでフリーズしてしまいます。両方のmacからスリーブを解除したり、丸丸1日半、数回にわたって挑戦しますが、残り4時間48分とか、6時間31分とかで、フリーズ! そこで、丸々移行するのを諦め、一から仕込むことにしました。書類などは、おいおい、適宜移行すればよいとして、一から仕込みを始めました!
結果的に、この方が善かったようです! MacBookProに引き継がれているファイル・アプリ類は、古いもので、かれこれ10年前からのものもあり、アプリのバージョンによってはレイアウトが崩れたり、あるいは、テキスト・データなども、拡張子が変更されてしまう可能性もあったようです。だから、逐次移行、その都度確認しながら移行するべきだったのですね。
で、ウェッブブラウザーのブックマークも作り直ししています。この作り直し作業をしながら、この10年の変化をしみじみ振り返ることになりました。というのも、オンラインで銀行を介した各種支払い・送金、あるいは、オンライン・ショッピングを頻繁にやるようになり、各種ID&PWの管理がずさんになっていることを痛感させられたからです。いまも仕込みは続いていますが、すべて、これらも、再設定しています。全てを再設定し始めて、気分は、すごく新鮮になりました! まさに、マンネリからの脱出ですね! えかったえかった!  もう一つ、驚いたことは、Googleに驚くほど、我がパソコン環境は侵略を受けていました! て、しゃれにならないですね!

土曜日, 7月 20, 2013

ジブリの新作「風立ちぬ」を観て

公開日、映画館に並んだ。初回9:50からの回にはさほど人は集まっていなかった。集まっている方々を観ても、子供は少なく、ジブリ作品を観て育ってきた大人がほとんどという感じである。20代、30代が多いように思った。
さて、見終わっての感想は、これが、なかなか言葉に出来ない難しさがある。でも、私の言葉で、まず端的に表現すると、「これはアニメではなく、純然たる映画」。いままでのジブリファンが離れて行きはしないかと心配になるくらい、「映画」だった。この作品は、もう一度観て考えてみようと思わせる要素が少なく、真っ正面から受け取ってみると、純粋な映画として、「そのテーマ性を熟慮しろ」と突き放している感じがするのだ。それは、ポスターのコピー「生きねば。」に通じる、何かである。それくらい、この映画は過去のジブリアニメとは、一線を画している。
だからこそ、言葉を添える必要が有るのだと思う。会場で手に入れたパンフレットを見れば、巻頭の解説には、立花隆を起用しているように、多くの言葉がこれからも添えられていくはずだ。その必要性は、制作サイドが一番感じていることかもしれない。公開日2日前に、ジブリ公式サイトでは、ジブリの機関誌「熱風」の最新号を、約1日半フリーダウンロードさせていた。良く考えて、明日の投票に出向いて欲しいという願いをも、言葉化してアピールしながら。

パンフレットに掲載された立花隆の解説文のリードを転載してみたい!

これは、明治以来西洋に追いつき追い越せで、
急ごしらえに作った富国強兵国家日本が、
富国にも強兵にも失敗し、
大破綻をきたした物語だ。

最後の方で出てきた零戦の累々たる残骸の山........!!!!
原発事故や津波災害の爪痕に重ねて観てしまうかもしれないが、そこからもう一歩も二歩も突き抜けた境地に、考えるべきことがある。

土曜日, 5月 18, 2013

GoPro導入の意味


GoPro導入を決意したのは木曜日でした。その前日、基礎セミナーで、O君と話をしていて、かつてNewton時代に繰り返し、繰り返し、頭の中で反復していたフレーズを思い出し、話していました。それは、「人々がいまだかつて目にしたことのない映像を実際に撮影し、そしてそれを読者に届ける、その使命!」。そうなのです。人類は、いまだに観たことのない世界を、想像でしか、思い描けません。例えば、地中奥深くのマグマが煮えたぎっている姿とか、太陽系を遥か離れた違う恒星群の星々を地表数キロという最接近したところからの映像とか、あるいは、ミクロの世界で、細胞の中からDNAとかミトコンドリアを実写で観ることは、まだ出来ていないのです。宇宙望遠鏡でブラック・ホールを捉えたとしても、数千キロ先からの実写映像など、ないのです。このように、いまだ人類の目に触れたことのない映像というのは、数限りなくあると言えるでしょう。現実世界においても、赤ちゃんがはいはいしながら目にしている風景というのは、誰でも経験していますが、覚えていません。ハイジャンプの選手の映像は知っていても、ハイジャンプの選手が観ている助走から踏み切ってバーを飛び越す際、どのような風景を目にしているかは、解りません。このように、誰もが知らない世界を現実に映し出す。これは、映像作家にとって、永遠のテーマですよね。

セミナー生たちに、このような領域への挑戦をさせたいと考えています。GoProは、その手始めとしての意味があります。私は、マジで、サッカーボールの中に小型ビデオカメラを仕込み、ゲームの中で、ボール君の観ている世界を観てみたいです。あるいは、このサッカーボールを富士山山頂から転がして、出来れば麓までころがし続けたとき、景観はどのようなイメージなのか、知りたくて、観たくて、たまりません! セミナー生たちの遊び心に期待するわけです。

金曜日, 5月 10, 2013

歴戦の強者たち:


左からNikon F2、Nikon F3+Moter Drive、 Canon EOS650、 そして2年前まで酷使していたNikon D70。まさに、退役軍人じゃないけど、ベテラン揃い。午前中、オフィスを整理していて、彼らを一堂に集めて、そろそろショルダーストライプを外してやろうと思うようになりました。Nikon D70以外は、すべてフイルム時代のもので、F2とF3は科学雑誌Newton時代に活躍してくれました。その中でもF3には、深い思い入れがあります。京都大学霊長類研究所の先生方と、西アフリカ・カメルーンの熱帯多雨林へ出かけ、密林の中のキャンプ地で大活躍してくれました。湿度を警戒して、大量のシリカゲルを持って行った記憶があります。そうそう、フイルムを空港のX線検査から保護するシールドタイプのフイルム入れ。懐かしいなぁ〜! その後、F3はNY駐在時代も同行してくれましたが、この時代から2000年頃まで肌身離さず持ち歩いたのは、マンハッタンの45th Street Photo(だったと思うが)で手に入れたEOS650です。あるときF3が不調になり、急遽手に入れたものですが、これも相当酷使してきました。この
EOSを持つようになってから、私の写真スタイルが大きく変わってきたように思います。つまり、仕事用および個人用のメモ帳として、日常的に撮影するいまの形の原型を創ってくれた機材です。このように振り返ってみると、EOSは、EOS Kissに代表されるような、今流に言うところのカメラ女子的な文化の先駆けになった機種なのかもしれませんね。個人的な思い出としては、大学でセミナー生たちとIMARGINというセミナーのブランド・メディアを創り、タブロイド版の新聞やA4版の雑誌を創ってきましたが、その際にも、このEOSが大活躍してくれました。いま、振り返ってみて、一番長期間使用したのが、このEOSだという事実は、我ながら、驚きです。この後、2004年頃、Nikon D70を使い始めて、2年前まで使用していました。デジタル1願レフを教えてくれた機材ですが、良く海外取材に出掛けましたね、この機材とは。イタリア、中国、韓国、インドネシア。
そして、2011年、Facebookを始めたのと同時に使い始めているのが、現在のNikon D5100です。 このD5100は、まったくにもって、1台のパソコンですね! この話は、また別の機会としましょう!

水曜日, 4月 10, 2013

丸善>>ビックコミック>>村上ともかの作品:


丸善! この書店の名前に引きずられて、遥か昔の、高校3年生(1969年)の秋を思い出した。高3の秋口になり、急に思い立ったように、旧国立大の東京教育大学を受験したくなり、過去の入試問題集をどうしても手に入れたくなった。福井市内の書店を探してもなく、お隣県の金沢にある丸善ならば在庫があることを知り、思い切って金沢まで遠征した。その行きの車中、私は初めてビックコミックを購入し、当時始まったばかりの「ゴルゴ13(1968年より始まっている)」に出会った。以来、後に劇画と呼ばれる新しいジャンルの漫画に嵌まってしまった....。
そして、この春、福井から名駅までの車中、ネットにつなぐことは、車内でパソコンを観ることは披露のもとであることを意識して、以前のスタイル、つまり、週刊誌を1〜2冊用意して読むことに変えたのである。スタイルを変えてよかった! 村上ともか氏の新しいストーリーに出会えたからだ。。
彼のストーリーの中でよくロケ地になる中国東北部には、私も幼い頃の思い出がある。といっても、幼少の頃かの地にいた訳ではない。親父が青春時代をハルピンで過ごしていた性で、良く中国東北部の話を聞かされており、それで懐かしさを感じているからだ。そういえば、私は村上ともかさんと同じ年の生まれ! 同じ時代の空気を味わって来たのだと思うと、思い入れも深くなる。
その新作は、フイチン再見!(2013年 -)!!
龍-RON-(1991年 - 2006年 )終了から8年目、JIN-仁-(2000年 - 2010年)終了から3年目にして、また村上ともかの世界に浸れるのは、嬉しい限りだ。

金曜日, 7月 06, 2012

抗議行動の行方を按ずる


先週末、大飯原発前で再稼働反対の抗議デモをUstで見続けていた。そして今日も、抗議行動が始まる午後6時過ぎから、IWJ(Independent Web Journal)による数台のカメラによる中継を観ていた。今日は警察による地下鉄出口での規制のためか、人の流れが規制され、それが良かったのか、悪かったのかは解らないが、雨の中、人々の機運はじわじわと上昇しているのかもしれない。しかし、一抹の不安を覚えた。
抗議行動への思惑がちがうグループが、それぞれの主張をしたそうな機運があったり、抗議行動を利用して自己主張の場にしようとするグループが出てきそうな機運を感じてしまったからだ。有名人、例えば坂本竜一氏のような方、国会議員も演説していたが、どうなのでしょうか。一方、Facebookの上では、あきらかにこちらの投稿に対して「荒らし」的に介入したそうな方を見受けるようになった。別に、ブロックするほどでもないのだが、こちらの投稿に呼応して発言したい方の切っ先を邪魔する動きになっている。大人の対応が必要ですね。映像では、赤に白抜き文字で全学連の旗をみつけたが、なにか、場違いな感じがして、その意味で印象的だった。

日曜日, 6月 03, 2012

いいね! Like! は、使い方によってはネガティブにもなる!

今日もFacebookの話題から話そう。いいね!という肯定的スタンスから積極的にコミュニケーションの回路を創り出している訳だが、これは使いようによっては、ネガティブな意思表示にもなることを知っておくべきかもしれない。つまり、こちらは、絶えずいいね!を押してあげるのに、こちらのコンテンツには、一切いいね!を押してこなければ、これは、何か有ると考えるのが一般的なリアクションではなかろうか。一般社会的に言うなら、シカトされた状態に似ている。 だが、お互い相当な年月を生きてきた社会人だから、最終的な拒絶としてのブロックまではしないで、友達関係は維持しておいて、無視する。これは、時間が経つと結構なストレスとなりそうだ。また、一端お友達にはなっても、いいね!の交流が疎遠になると、相手がポストしていても、自分のニュース・フィードに入ってこないという現象も生じている。これは、Facebookのサーバーの持つ、アルゴリズムのなせる業なのだろう。お互いの交流の頻度・程度・時間的推移をFBアルゴリズムが計算して、交流の高い順に、ニュースフィードを個々に構成しているためと思われる。その結果、生真面目な方は、それぞれのお友達のウォールにまで出掛けて、リアクションを入れているのかもしれない。要するに意識すべきは、此方からポジティブ・リアクションを先に仕掛けていくべき仕様となっている点を、認識しておくべきなのだ。

土曜日, 5月 26, 2012

カジュアルに情報発信

Facebookに、メディココミ@四日市大学という大学の専攻のページ、開設して約1ヶ月が経過した。毎日、なんらかのコンテンツを掲載し続けている。当初、漠然としていた構造に対するイメージも、1ヶ月の試行期間中に明確になってきた。卒業生の今、在校生の様子、教授陣の紹介、イベントや学事上の出来事のフォロー、そして、大学HPへのリンクなど、振り返ってみれば、結構コンテンツがありそうなことが解ってきた。教授陣の紹介などは、1度紹介したら終わりではなく、何度も違った側面から紹介すればいいのだから、その都度のコンテンツ(記述する焦点)も手短に、印象的に伝えることが出来る。面白くできる構成なのだ。また、ビジュアルも、同じ建物の外観を、アングル違いで、その日の天候や風情が出やすい瞬間を狙って、繰り返し登場させている。これはTVCM的なある種の手法を応用している。そして、意外に、驚くべき反響がある。ある視聴者などは、「息子の大学選びの情報誌に四日市大がでていたけど、何か親しみを覚えました・・・・!」とあった。してやったり、なのだ!
今、やってよかったと思えることの一つに、卒業生の掘り起こしが進んだことだ。なんらかのSNSを独自にやじめている卒業生が多く、意外と簡単に4〜5年音信が取れていなかった卒業生たちとコンタクトが取れるようになった。これは、有り難い!
次のステップは、在校生たちのなかから、学生自ら発信する局面をプロデュースすることだ。

土曜日, 5月 19, 2012

福井のクリエティブ・スポット FLATの SCHOOlING: 菱川勢一さん、森の木琴を語る

森の木琴というDOCOMOのCMをまとめ上げた人として、最近、超有名になっている菱川勢一さんの講演会に行ってきた。
本人の肩書き紹介では、映像作家/デザイナー/写真家となっているが、基本は、クライアントの意向に沿って、あるいは、意向にだめ出ししながら、何かの新しい価値を創り出すクリエーターと言える。手がけた作品群、いや、プロジェクトといった方が適切かもしれないのだが、事例を挙げながらプレゼンが進んでいった。事例としてあげられたのは、Long Lifeのシリーズ、NHK大河ドラマ「功名が辻」のCGのみで構成したタイトル、鹿児島の老舗デパートと地域を結びつけた再生プロジェクト「Maruya gardens」の話、ぼろぼろに崩れてしまったSonyのブランディングをどう捉えて、如何にSonyを叱りつけて、銀座のSony Bildingのイメージ映像を完成させたか、そして、トリが、DOCOMOの「森の木琴」の話だった。
約1時間半の予定を40分以上オーバーする熱の入ったレクチュアだった。久しぶりに本物の話が聞けた満足感に浸っている。いくつか、感想・印象を記録しておこう。
森の木琴がカンヌで3冠を獲得したニュースは、丁度、昨年の今頃の話だった。震災後のうつうつとした世相の中に飛び込んで来たニュース、そして、森の木琴の映像が醸し出す、静寂で、それでいて、最後まで一種のドキドキ感を抱かせながら木琴が演奏していくスリルに、心が洗われた記憶がある。しかし、映像とは裏腹に、そこに秘められたコンセプトは、放置されて久しい日本の森林が、まさに死んでいこうとする瀬戸際にあること、森林に光を入れて、共生植物を豊かにする間引き伐採ができなくなっていること、すなわち間伐材が放置されている現実など、環境問題化している「死に行く日本の森林」を見直し、木材に対する社会的な需要を呼び起こす手立ての一環として、木製の携帯電話が企画された。このような環境との関わりから、この木製携帯とCNが企画された点はあまり知られてない。
従って、ロケハンは、まず死に行く森を見つけることから始まり、そのロケ地に近い環境のもとで、木琴を製作してくれるチームを九州大学の学生さんたちに協力して貰い、約44メートルの木琴を森の中に設置する。撮影は、合計で49回に及んだが、最後に木製の球が木製携帯の横に見事に止まるまで、撮影チーム、スタッフ全員が粘りに粘って、最終ショットをものにした話は、製作現場の空気が伝わってくるような緊迫感があった。
関連URLs:
https://www.facebook.com/events/257832707647511/
http://www.drawingandmanual.jp/



金曜日, 5月 18, 2012

キュレーション/ paper.li

博物館や美術館の学芸員のことを、キュレターと呼ぶが、その意味するところは、情報を、あるいは、モノを収集し、整理し、多くの方々に展示して観てもらえるようにする役割をさしている。2001年同時多発テロを契機に、アメリカの大手メディアサイトから始まったブログ文化も成熟し、数年前からは単文投稿スタイルのTwitterや日常的な発信メディアとなったSNSがネットの主役になってきた。TwitterやFacebookをはじめとするSNSがネットの主役に成って来た今日、それまで、個々のユーザーが、主にブラウザーのブックマークとしていたお気に入りのサイトや、勉強のためにウォッチし続けるサイトが増え続け、ルーティンでいちいち訪問する事が煩雑になって来た。そこで生まれたのが、個々のニュースソースを一括して、新聞のように、まとめてくれるサービスだ。その一例が、以下のリンク。
デイリー東北大学

土曜日, 5月 12, 2012

積極的なコミュニケーションの回路創り

当面、Facebookの特性について書いていくことになりそうだ。昨年、震災の1週間後くらいにFBに参加した訳だが、その当時の感想としては、なんという玉石混淆なことよ!、と言う感想である。当方は、震災報道、特に福島原発報道の審議についてのレビュー投稿を中心にみていたので、メシネタ投稿や、個人的な家庭風景の投稿などが、時節に合わない、いや、むしろ時節を考えてひかえるべきじゃないだろうかという思いさえ持ったものだ。また、若い人の投稿と、30代、40代の投稿では、さまざまな意味で温度差が有りすぎで、その落差を自分自身のなかで消化出来ない傾向にあった。
そこで考えたのが、自分自身のスタンスを持ったルーティンを確立してみることだった。私の場合は震災復興支援のためのクリック募金を、毎朝投稿し、リアクションのある方々と、日常的な挨拶を交わすことだった。これを始めてから、大いに気がつくことが出てきた。皆さん、なんらかのアクションをしたいのだが、その切り口をみつけるのに智恵を絞っていらっしゃるということ。つまり、SNSは、黙って居ては、リアクションと繋がりが生まれないという現実だ。そして、このメディアが「積極的なコミュニケーションの回路創り」のためのメディアだという回答だった。

金曜日, 5月 11, 2012

動的なWEB、静的なWEBの二極化に進むのか

SNSを体験していると、実にフラッシュなニュースの渦に時間がいくらあっても足りないくらいの感覚に陥ってしまう。一方、いままでのような旧来型のHPやブログを拾い読みしていると、じっくり考えながら読み進もうとするので、これもまた時間を食ってします。結果、ネットに依存状態のママ終日過ぎて行くこともままある。これで、良いのか?
Facebookの中に「メディコミ@四日市大学」というページを作成した。始めてみて、今感じていることは、いいね!を貰うためのプロモーションが必然的に求められ、そのための仕込み、発信作業が実に労力のいる仕事だと言うことだ。ネタの仕込みには自信があっても、継続的に続ける気力がもつか、心配だ。
以下、気になっているメディアリテラシー上の話題のリンクを掲載しておく。
削除要請を大量に無視している2チャネルの件:

木曜日, 5月 10, 2012

約1年ぶり

Facebookをはじめて約1年が経過した。震災報道、特に福島原発事故関連のマスコミ報道に疑念を持ち、その検証のために始めた訳だが、メディアリテラシー力を試される場として、Facebookは格好のステージだった。今や、メディア大手も、必ずSNSへのショーシャルリンクを揃えるようになっているし、情報の伝搬力、波及性など、テレビに肩を並べるレベルに近づいている言っても過言ではない。では、このような旧来式のブログはどうか。約1年ぶりに投稿する訳だが、その答え探しに、しばらくこちらにも、書き込んでみようと思う。きょうはそういう意思表示の書き込みだ。

日曜日, 5月 29, 2011

雨の日に思うこと:

こんにちは黒島です。台風の影響で、各地雨模様ですね。伽藍のスタジオ玄関前を、ご覧のような感じで、雨の影響で少し肌寒く感じる日曜の昼時となりました。先週、FBである方と議論していて、言葉の使い方や取り上げる話題で、本質が外されることがあるのだという経験をしました。私はもと科学ジャーナリストですから、事実性、特に科学的に真か否かを、誰にでも理解できる形で示せなかったら、それは、無駄な取り組みになってしまう、あるいは、疑念や不必要な情緒を視聴者にあたえてしまう可能性があり、慎むべきだと考えています。
福島ケースにおける放射線被曝量の報道や、それに付随して発生する論議に、非常に心配する局面が多々あり、このFB内での論議も、有る箇所では危険な兆候もあるのではないかと感じています。しかしながら、日本国全体としては、この論議、まだまだ足りないのは事実。多くの国民が、不安を感じながら、世相の行くへを静かに注視しているというのが現状なのではないかと思います。だからといって、不安を煽り立てることが賢いやり方だとは思えません。
そのような事を考えている最中に、NPO法人セイピースプロジェクトのブログに、「放射線被ばくから子どももを守るために」を教えてもらいました。このリーフレットの中の4ページに、がんの発生率との相関で、「しきい値なしの直線モデル」という考え方が説明されています。これが、現在、国際的に、理性的で良心的な考え方だと説明しています。私は、これくら解りやすく説明できて、はじめて役に立つ資料=情報になるのだと思います。ということで、そのリンクを再録しておきたいと思います。是非、リンク先からグーグル・ドキュメントを手に入れて、読んでください。
http://blog.goo.ne.jp/saypeace/e/ef2483ae73e129febd88b39853bf6111

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...