日曜日, 6月 17, 2007

鳥越憲三郎著「古代中国と倭族」

中国史を勉強するようになり、その筋の著作に目を通すたびに、古代に編纂された「史記」などの通史が、ことごとく中原の漢文化、漢人中心主義になっており、史記以前の正確な歴史や文化を探る場合、この漢人中心主義のフィルターを上手に剥がしながら考察して行かなくてはならないことを意識づけられる。
 この書籍は長江文明の担い手で、その後、北からの軍事的圧力により、中国各地、それも中国の南方や朝鮮と経由して日本に稲作文化をもたらした倭族についての概説書である。ほとんどの話題は、安田環境史観の書籍で知っており、その意味では追認するような感覚で読み進むことが出来た。しかし、弥生文化の担い手となり、縄文人たちとの森の文化と共存していたはずの弥生人が、朝鮮半島を経由して日本の九州に至った説は、若干、安田環境史観との違いをみせており、その点が今後の勉強課題となる。もう少し、鳥越先生の古代日本論を読んでみなくてはならない。
 最も驚いたのは、北の圧力で南下したり、辺境へと流れて行かざるを得なかった倭族の行き先として、インドシナ半島地域、朝鮮、台湾、日本というのは理解できても、インドネシアのトラジャ族(スラウェシ島)までもが、倭族の末裔だとする説には、本当かなという疑念が浮かぶ。もっと勉強しなくてはならない。しかし、紀元前の頃からインドネシアはインドと中国方面を繋ぐ交流の中継基地だったという事実もあり、無視できない説だ。
 また、倭族が中国南方の山岳地帯に創ったてん(さんずいに眞)国では、稲作の豊穣を祈願する祭りに女性の生け贄を捧げる犠牲祭儀が執り行われており、この風習は日本へも伝わっていたとの記述があり、非常に興味を覚える。

土曜日, 6月 09, 2007

山田洋次監督作品・藤沢周平原作3部作「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」「武士の一分」

世は藤沢周平流行(ばやり)である。NHK BSHiでは、各界の名士が藤沢作品との出会いと付き合い方を15分のドキュメンタリータッチで、ご本人の朗読付きで紹介する小番組を放送している程だから、その裾野の広さは相当大きいに違いない。このような思いに駆られて、昨年年末頃から作品を読みたい気持ちが募っていた。しかし、他の領域の書籍を、大学の授業準備、研究課題との摺り合わせながら読んでいたので、なかなか愉しむ機会が無く、半年が過ぎようとしている。
 そこで先週から、原典読書はさておいて、山田洋次監督3部作を一気に体験するDVDツアーを行った。まず、昨年公開され、木村拓哉が主演を演じたことでも話題となった「武士の一分」から始めた。続いて、真田広之主演の「たそがれ清兵衛」、永瀬正敏主演の「隠し剣鬼の爪」を連続鑑賞。どの話にも似たような共通性があることを発見し、「そうなのか、なるほど、なるほど」という感じである。
 どの話も、下級武士が主人公となっている。そして、赤貧の生活を慎ましやかに、精々として励みながら生きている。ところが一端藩に事件が起きると、この者たちは、翻弄され、愚弄され、生きるか死ぬかの窮地に立たされるのだ。ある主人公は藩命にさからったかつての盟友を成敗するお役を申しつけられ、ある者は藩の役として毒味をしていたことから失明し、生活は困窮し、そのために妻を不貞へと走らせてしまう。あるいは、心優しい性格から身分の違うかつての奉公人を嫁ぎ先から連れ出してしまい、世間から白い目で見られてしまう。それぞれ、人としての最も大切すべき誠意、慈愛、慈悲の心に溢れた主人公たちが、自分に降りかかった不条理を、それぞれの努力と勇気で乗り越えていくのだ。
 その姿が感動を呼ぶ。主人公たちは、決してヒーローではない。池波正太郎作品に出てくる鬼平のような英雄譚ではないところに、多くの人々が共感を覚えるのである。それは、「勝ち組、負け組」といった不条理な二分法がまかり通っている「今」だからこそ、輝きをもって受け入れられる素地を、私たちに示してくれるのだ。
 さて、助演陣、特に女優の存在にも触れてみたいのだが、山田洋次監督3部作の初期2作品には、宮沢りえ(たそがれ清兵衛)、松たか子(隠し剣鬼の爪)という名の売れた女優を配しいている。ご両人とも、水準以上の演技を披露しているとは思うのだが、私は、木村拓哉の相手役を務めた、檀れい(武士の一分)に注目した。この女優にはいままでの女優にない、極めて特異な華がありそうだ。私は彼女の次回作に注目したいと思う。彼女には、相当に大きな、スケール感の大きな役者としての潜在力を感じている。
 雨の夜長、雪の降る寒々しい夜、これらの作品を再度愉しむことにしょう。心を浄化してくれる、そんな世界が期待できるから。さて、小松菜の煮物でも創ろう。

日曜日, 6月 03, 2007

井筒和幸監督作品「ゲロッパ」「パッチギ」

パッチギ関連で、井筒監督の代表作を2点、この週末鑑賞した。ゲロッパは、エンターテイメント映画として成功しており、パッチギ第1作も、先に紹介したとおり、優れた青春映画となっている。若手のタレント陣のなかには、今後のムービースターとして伸びて行くであろう事を予感させてくれる人材もいる。その若手を井筒学校で鍛え抜いている姿にも好感をもつ。
 しかし、何かが足りない気がするのだ。突き抜ける「何か」が。シネカノン・プロデュース作品としては、その突き抜ける「何か」を見事やり抜いているのが、今年の日本映画の祭典で数々の賞をを受賞している「フラガール」だ。この映画の最後に出てくる蒼井優のソロでのダンス・シーンは圧巻であり、観客は充分にカタルシスを楽しめて解放されるだけのインパクトがあるのだが、「ゲロッパ」「パッチギ」には、そこまでのパワーがないように感じている。

徳川恒孝著「江戸の遺伝子ー世にも不思議な江戸時代」

徳川宗家第18代当主が解説する江戸時代。確かに不思議な語り口の本だった。元日本郵船社員として世界の各所に駐在した見識を江戸時代を構成する社会問題、文化のあり方、自然環境感を交互に交えつつ、日本的なるモノの特質を易しく解説している。その先に見えているのは、未曾有の環境問題であり、人口爆発の後に来る食料自給問題であり、心のあり方としての社会論である。
 環境学者安田先生の主張にも通じる側面を持つ話題としては、水田の収量を確保にかけた江戸の農業政策がいかに優れており、同時期のヨーロッパには見られない高品位の政策を江戸幕府はすすめていた話である。里山を綺麗に、丹念に整備し、灌漑用水を整備させ、これにかかる費用は藩の責任によって行わせた話などが端正に綴られており、気負う間もなく読了してしまった。戦国の世から中庸で平和な国家への変身に、いかに徳川は執政を司ったかを、品良く語られており、その語り口は、あくまで上品である。文章に、品位がにじみ出ており、さすが当主様だと、感心してしまった。
 史実として驚いたことは、ペリーの浦賀来訪を、長崎に出入りするオランダ人の幕府ご用係からすでに知っており(アメリカのミッションが来航し、捕鯨船の薪炭、食料飲料の補給基地として、日本に開港を迫る目的で)、これまで歴史を語るときにあたかも「突然浦賀沖」に出現し、日本国中大騒ぎになったがごとくの言い回しになっているが、これは謝りであることが示されており、実に面白い。
 あるいは、江戸時代が進むと武士階級は経済的に疲弊していったが、農工商は逆に潤い、自由闊達な社会へと社会が安定していった話などは、なるほどと思ってしまった。さらに、江戸時代は、全国津々浦々で私塾や藩校が盛んに教育を進めており、ヨーロッパの中世から近世にかけてのように、階級による教育の遮断的な状況が無かったことが、近代日本となり、欧米列強と即座に肩を並べうるキャッチアップが可能になった素地だったことも述べられており、納得である。
 現在、江戸の教育制度についての書籍をアマゾンに発注しており、しばし、江戸物で行こうと考えている。

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...