日曜日, 2月 25, 2007

ロビン西原作/湯浅政明・森本晃司監督アニメ作品「MIND GAME」


2004年度に公開された作品で、コアなファンを惹きつけたアニメ作品である。理不尽で最悪の殺され方をした青年・西が黄泉の世界入り込み、ハチャメチャな幻想世界で現実社会への復帰を目指すのだが、そのプロセスの奇想天外なストーリーにハマってしまった。こういう作品を発見してくるようになった我がゼミ生たち。なかなかセンスが成長してきたものだ。頼もしい限り。27日のセミナーミーティングでは全員で鑑賞してもらいたいものだ。
 常々、私は彼女たちに、アニメなんだから、現実的にはあり得ないことでも、アニメだったら実現できるのだから、「飛んで」いいのだ、イメージをハチャメチャに膨らませていいのだ、ということを言い続けている。しかし、これまでの生活の中で染みついてしまっている既存イメージというものは、なかなか突き崩せない。門塀が灰色だという固定観念に染まっている貧困さをどうしたら気付いてくれるのか。悩むことが多々あり。そういう場合は、こういう作品に刺激されるべきなのだ。
 この作品を観て、イメージ、あるいは表現するに当たってのバリアというものは無いのだといことを、感覚的に理解してもらいたいのだ。要は、描きたい世界に、どこまで自分の想像力を膨らませ、それを着地させるためにいかに造形に腐心するのか。そういう努力でしかなにのだ。リラックスしていなくては、イメージの世界に遊ぶことなど、出来ない。堅苦しい規制的な発想では、到底無理。どう破るか。どう捻るか。どのように遊ぶか。という、まさにマインドのあり方の問題なのだ。
 今年は、鉄コンに目覚め、マインド・ゲームに勉強ネタを発見し、千年女優に手堅い制作方法を学び、我がセミナーのアニメへの挑戦は実に充実してきた。嬉しいね!
 上のイラストはDVDの特典として付いてきた湯浅・森本両氏の「OUR MIND GAME」と題されたポストカードである。イラストとしても、凄く、イイ!

水曜日, 2月 21, 2007

ジェームズ・キング著 栗原百代訳「中国が世界をメチャクチャにする」

原題はチャイナ・シェィクス・ザ・ワールドである。中国が世界を震撼させるとでもいう意味であろう。邦題は、いささか日本のテレビのバラエティ番組風であるが、その内容は、実に論理整然とした現代中国社会分析論である。やはり、第一線のジャーナリストの話は、私には肌合いが良いようだ。
 13億人とは、全世界の人口(65億)の約1/5である。その中国人たちが改革開放政策によって資本主義的経済社会を一党独裁政権下で推し進めたのだから、中国国内には一般的な、そう、欧米日本のような市場主義社会で民主主義国では絶対に起こりえない矛盾が醸成されてしまっても、当たり前と言えば当たり前。だが、その規模、影響力が前代未聞のスケールで展開しているのだから、たまったものではない。低賃金をいいことに、製造業では世界の工場と化した中国企業が、それまで製造業の本場として地位を確立していたアメリカやイタリアの手工業都市を直撃し、ことごとく廃業に追い込んでいる様には驚いた。
 さらに、国家からの規制などなきがごとし。欲望のおもむくままに、世界の資源を食い尽くしていく勢いには、経済社会を見続けてきた専門家には脅威と映るようだ。しかし、取り上げている事例がことごとく信頼性のある事例だけに、空恐ろしくなる。
 例えば、ここ福井の地からでも実感されることとして、酸性雨の問題がある。これは中国の空位汚染の影響である。その中国国内のエネルギー消費は半端ではなく、その中には非合法的にシベリアの森林地帯から木材を切り出して、工業製品やエネルギーそのものとして使用している実例が示されていた。黄河では水量が年々減少しており、中国本土中央部から北東、北西部へかけての水不足、砂漠化の問題は、黄河流域の工場地帯からの汚染水公害問題と相まって、危機レベルに来ていることなど、その深刻さが述べられている。
 読み応えのあるテーマがここ彼処に登場するが、最大の焦点は、欲望にまかせて肥大化する中国経済が、もはやエネルギーを中心にそのほとんどを世界からの輸入に依存していることで、そのことへの対抗手段として、西欧やアジアの国々が保護主義になることだと予測している点だ。そして、モラル欠如から、世界が中国離れする事態に至りそうなことを警告している点であろう。
 経済視点の書籍はあまりなじみがないのだが、この書籍は必読だった。読み応え、150パーセントの五つ星というレベルか。

火曜日, 2月 20, 2007

塩野七生著 ルネサンス歴史絵巻3部作

塩野さんのオペラ(作品)には、真面目に取り組んで読まないといけない歴史解説書とのいうべきガッチリした学術書的な作品と、実際にあった歴史上の出来事を背景とした、いわゆる時代小説と呼べる作品とがある。前者の代表作は「ローマ人の物語」やヴェネツィア共和国盛衰史を描いた「海の都の物語」であろう。これらを読み下すには、多少気合いが必要である。しかし、後者の時代小説、それもエンターテイメント性を考慮された作品は、気軽に構えて、楽しみながら読んでいける。それも、その時代の核となる学術書タイプのガッチリ作品を読んだ後であるならば、さらに楽しさも倍増して、その時代の空気感にひたりながら楽しめるというものだ。3部作を先の週末、東京との行き来の車中、テレビ鑑賞を潰して、一気に読んだ。
 「緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件」「銀色のフィレンツェ メディチ家殺人事件」「黄金のローマ 法王庁殺人事件」の3部作は、実にエンターテイメントだ。ただし、フィレンツェから入り、ローマにぬけ、ヴェネツィアへ戻った。本当は、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマへと進むべきなのだが、主役たちの最後を知りつつ、最初に戻って読むのも、おつなものである。ヴェネツィア共和国盛衰史「海の都の物語 上下」「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡」「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」を読み下した後であるならば、その時代のイタリア人になったかの錯覚を持ちながら楽しめるように出来ている。
 私の場合、残念ながら「海の国の物語 上下」だけは、いまだ手をつけていなかった。これから勉強するつもりだ。

水曜日, 2月 14, 2007

塩野七生著「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡」塩野七生ルネサンス著作集第7巻

権謀術数の代名詞となっているマキアヴェッリ。そのまがまがしいイメージから、正直言って毛嫌いしていた。何も知らないのに、だ。読んでみて、イメージが一変した。なんと生真面目で、理想主義者で、でもどこか嫌らしいく、人間的。何より、政治の基本を人間の持つ正邪両面を見据えた上で国家運営を考えたり、そして国益重視の外交だったりと、政治の技術に薄っぺらい正義感や宗教的倫理観などを介入させないクールで冷徹な観察眼に引きつけられた。
 それにしても塩野さんは、真っ正面から対象に向かっている。この姿勢がビンビン読者に伝わり、権謀術数の人も、ただの「男」として丸裸にしてしまっているのには、痛快ですらある。喜劇の脚本まで書いていたとは。塩野さんはこのテーマをローマ人の物語を書き終えるのが見えてきた頃から取り組んでいるのだが、確かにカエサルやアウグストゥスなどの権勢を知った上だと、より理解しやすい。その意味でも、私もようやくルネサンスを勉強するための入り口に近づいたようだ。次は、塩野七生ルネサンス著作集の1巻、2巻へと進みたい。

日曜日, 2月 11, 2007

塩野七生著「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」

ローマ人の物語を15巻通読出来て、なにか長いトンネルをぬけたような気分となり、いよいよ、ルネサンス期を扱った作品を集中的に読破したいと思っている。フィレンチェには伽藍のスタッフ的な人材もおり、彼女への勉強ネタにと数冊を選び、アマゾンにて国際宅急便で手配したのだが、その中には自分も読んでみたいと思っていた作品も含まれており、改めて入手している。この1冊もそういう対象の書籍である。
 チェーザレを一晩かけて読み切ったが、中世を経たキリスト教社会というものが、いかに聖職者の世俗化が、あるいは腐敗が進んでいたかを思い知らされる。ローマ法王の息子という環境からイタリア統一を野望とした男の物語である。同時期を生きたレオナルド・ダ・ビンチやフィレンチェのマキアヴェッリとの交流もでてきており、大変興味深い歴史小説だった。
 しかし、最大の勉強どころは、巻末に掲載されている沢木耕太郎さんの解説である。彼は塩野さんのあるエッセイに吐露された真情を解析して、次のような観点を披露している。引用してみたい。
ーーー 興味深いのは、塩野七生がなぜこのような政治観をもつようになったのかということである。その点について、彼女は最近「サイレント・マジョリティ」という連載エッセイの中で、珍しく素直に自己を語っている。彼女はそこで、自らを昭和12年生まれの人間の一人として規定し、その世代的な特徴を<絶対的な何ものかを持っていない>ところに求めようとする。マルキシズムとも戦後民主主義ともある距離を置いて接せざるをえなかったその世代は、イデオロギーからの自由を手に入れ、同時にエモーショナルな行動に対する冷淡さを持つようになった、というのだ。(引用終わり)ーーーー
 ここで私が注目したのは、「国家の品格」の著者藤原正彦さんの主張の中にも、この戦後民主主義やマルキシズム史観に引きずられている日本のインテリの間違いを指摘しており、さらに、長江文明の研究者で今や文明論者でもある安田喜憲さんも同じようにマルキシズム史観に引きずられた文系学問の限界を指摘しているからである。
 戦後日本の思想をリードしてきた民主主義、マルキシズムに代表される社会主義というものが、確かに現在の70代、60代の知識人には濃厚に影響されていることは、大学などという閉鎖社会にいると、嫌と言うほど感じてしまう。中でも、「自由」とか、「民主主義」の弊害を強く感じる。そのようなことを沢木解説から、改めて感じている。そして、何故、塩野さんがイタリアから発信しようとしたかも、見えてくるというものだ。

木曜日, 2月 08, 2007

森三樹三郎著「老子・荘子」講談社学術文庫:その1

最近、三つの方向から、「これは老子を勉強せざるを得ないな」と自覚していた。そこで、遅きに逸しているかもしれないが、基本から始めようと考え、この書籍と格闘している。全部読み終わった訳ではない。今回は、「勉強せざるを得ない」という思いに至ったプロセスだけを書き記しておきたい。
 昨年秋から中国関係の書籍を集中的に読んでいる。特に、長江文明関連の書籍、中でも安田喜憲さんの文明論を読んでいると、稲作漁労の文明の生命観には命の循環思想があり、それは生命が本来的にもつ力を信じて、それに忠実に生きようとする発想が潜んでいると、繰り返し主張されている。そして、その思想は中国南部から発した道教や道家思想に色濃く投影されていると主張されている。事実、長江文明の末裔たちの国家だったであろうとする魏や越などで牛を生け贄として五穀豊穣を祈る祭りが記載されている荘子注釈書などがあり、老子が理想とした農耕社会とは、長江文明のそれだったのではないかという推論を披露している。無為自然は長江文明型の生命観なのでは、という仮説である。
 一方、中国人で日本で比較文化を研究している王敏さんは自書の中で、儒家思想というのは欧米のキリスト教や中近東アラブ社会のイスラム教に性格が似ており、なにより論理的で言葉での理解がしやすく、政治との相性が良く、そういう意味では極めて宗教的だと解説されており、なるほどと思った。
 さらに、我が師である大橋力先生の近著「音と文明」においても、古代中国にあっては、言葉に重きを置くのは考え物であり、そのことへのアンチテーゼを出している老子の思想には一定の理解を示されている。
 こうなっては、私としては老子を勉強せざるを得ないのである。しかも、山城組の重臣で某教育委員会の重鎮から、年頭にメールで「天命を知る」などというキーフレーズをぶつけられては溜まったものではない。私は、「天命??」、何それ? なのであるから。
 読み出してみると、確かに勉強になる。いかに自分が儒家思想の重しに苦しんでいたことも理解できるようになる。我が父母は孔子的だったのだ。そして、気に入った逸話も幾つか出てきた。中国では、「昼は儒家で過ごし、勤めから帰って夜は道家で過ごす」というのがあると聞き及び、これだったら実践出来そうかな? などと悦に入っているのだ。柔弱の発想とか、「たりるを知るものは富む」とか。しかし、老子は一気読みするものではないな!? 少しずつ、感じながら読み進もう。

日曜日, 2月 04, 2007

塩野七生著「ローマ人の物語 第15巻 ローマ世界の終焉」

ついに最終巻、大演壇を迎えた。ローマ帝国が東西に分かれ、キリスト教カトリックの東ローマ帝国から分かれて蛮族支配の西ローマ帝国が滅びてしまい、ローマ的なるものが消え去ってしまった。長い物語であったが、ついに終わったのか。
 塩野さんはこの巻の始めに、そして後書きで、この著作を始めた理由を述べている。それは、あまりにも単純な動機なのだが、ローマの盛衰を知りたい、だった。そして私も同じく、世界史を習ってはいるが、古代社会から、もっと厳密に言うと、西欧社会の歴史を知るためにも、ローマ時代は欠かせなく、それで勉強することになったのだ。この時代にこの著作に巡り会えたのは幸運としか言いようがない。
 多神教、多文化、多民族を受け入れていたローマが一神教のキリスト教を国教化せざるを得なかった理由、そして、市民権は既得権ではなく獲得するものとして、名実共に「血税」を払って共同体の一員になっていく能動的な国家感など、どれも近世の政治形態、国家のあり方に考えを及ぼすとき、参考になり思考の幅を広げてくれる知識と発想に溢れていた。
 それにしても、印象に残っているのは、なんと謀殺、暗殺、自死などが多いことか。人間のむき出しの感情が行き着く先は、「殺す」という行為だった。昨日まで敵であった国家を属州として受け入れ、分断するが同じ国家の一員として遇して、共生的に全体国家を形成していた半面、当のローマ中枢指導層では、まさに謀殺が日常化していたのだ。これには、驚きを通り越して、嫌悪感さえ覚えてしまう。あのカイサル(シーザー)でさえ、殺されたのだ。
 しかし、絶対君主制へ移行していく過程で、神権を授与された皇帝という、「神のみの元で」で統治を委託されたという形を取らざるを得なかったという事実は、実に面白い。何故なら、頂点にたつ人は、言ってみれば現代でも誰からも信任されることのないという意味では同じだからだ。日本の皇室問題を考えていくとき、万世一系という観点は、ひょっとすると世界史的にも唯一の発想軸かも知れず、その意味では、確かに尊い。神々との間に立ち、メディエーターとして永遠に存在し、軍務や政務は、人民の意向によって変わって行かざるを得ないあり方を選択しているというのは、本当に貴重なあり方なのだということが、初めて理解出来たように思う。

木曜日, 2月 01, 2007

塩野七生著「ローマ人の物語 第14巻 キリストの勝利」

ついに、キリスト教が名実共にローマ帝国の国教となった時代を活写している。もはや、おおらかな言論と行動の時代は去り、他宗教を受け入れず、古代からの神々を排斥していくキリスト教の本質がむき出しになった時代が、3世紀末のローマだったのである。書き進む塩野さんの情念も、ある種の諦観に至ったような雰囲気で書き進んでいる。
 一神教とは他宗教を受け入れない排他性で出来ている。このことをストレートに表現しており、この面では、胸のすく思いだ。そして、近現代にあっては、その排他性を最も具現化しているのが、イスラム教であるとも述べている。また、排他性が具現化するにあたって、その最たる行為が殉教であるとも言っている。
 しかし、ミラノの司教に転じたローマの元高級官僚アンブロシウスにデオドシウス帝が罪の許しを請う場面などでは、「もはや皇帝も一匹の羊になった」と言い切っている。あまりの直裁的な表現に唖然としながらも、書いている塩野さんとて、こんなローマなんか「うそ」であってほしいと願いながらの執筆ではなかったかと想像してしまう。だから、ローマ的な臭いを感じさせるユリアヌスや、皇帝への手紙を通して元老院に安置された勝利の女神像撤去を撤回して貰うために懇願したシンマクスを描くくだりが、妙に印象深く迫ってくるのだ。さて明日からは、最後の1巻「ローマ世界の終焉」を読み解いていこう。

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...