1年に1冊ずつ出版されてきた塩野さんの「ローマ人の物語」も昨年末に出版された15巻で完結した。この機会に、最終刊まで一気に読み込んでみたいと考え、先週末から12巻、昨晩からは13巻を通して読み終わった。明日には、アマゾンから14巻と最終巻が届く。
私がこのシリーズに手を染め始めたのは、いまから4,5年前になる。大学のお休み期間中を利用して、休みごとに3,4巻づつ読み溜めてきた。その最大の理由は、もともと多神教国家だったローマ帝国が、なぜ、帝国末期にいたってキリスト教を擁護する側になったのか、その理由が知りたいからだ。そして、ローマ帝国の崩壊から15世紀のルネサンス革命までの約1000年の中世暗黒時代を迎える訳だが、その間、知識や文芸の中心が、言い換えるならば、キリスト教会のみがインテリジェンスの中心に座ってしまうのだが、どうしてそのような情報、知識の集中現象が起きてしまったのかという疑問なのである。
以上の疑問は、私の出版文化論を構成する上でも大変重要なことである。出版文化を構成する場合、ルネサンス期に起こったグーテンベルグの印刷革命へ行き着く前に、どうしても中世について触れなくては成らず、そうなると、キリスト教会の情報センターとしての性格に触れざるを得ず、必然的に、その前の時代の治世から説き起こしていく必要に迫られるのだ。
「ローマ人の物語13巻 最後の努力」を読み通して、第一の疑問、「なぜキリスト教を擁護する必要が出てきたのか」については、理解できたように思う。具体的には、混迷の3世紀を過ぎて、帝国に2名の皇帝、その後は4名の皇帝による共同統治時代を経て、コンスタンティヌス帝の時代になると、中世の絶対君主性に近い君主として存在するようになる。それまでの皇帝は、ローマ市民と元老院から信任を受けて、統治を委託された存在だったのである。ところが帝国があらゆる面で衰退し、北からの蛮族の侵入やオリエントのペルシャとの戦争などに忙殺されていく中で、皇帝はローマ防衛線(リメス)に張り付くようになり、どんどんローマの元老院との距離は遠くなっていく。その結果として、東西を2名の皇帝で守護していく体制や、4名の皇帝と副帝で統治していく体制となり、どんどんローマ的な価値観から離れて、絶対君主制へと近づいていくのだ。その最後に残ったのがコンスタンティヌスだったのである。
コンスタンティヌスは、ローマ的ではなく、つまりローマ市民、元老院の信任を得て、つまりローマ的に言うのであれば、統治を委託されてではなく、自ら皇帝になった訳で、そうなると皇帝の信任をしてくれるもう一つ上の権威を必要としたようだ。そこで、キリスト教を擁護し、神の信任を受け、現世的な世界を統治するという体裁が必要となった。神から信任を与えられる戴冠式を挙行した最初の統治者となった。その後の王侯が、ことごとく、戴冠式を挙行するようになった原点だったのである。ローマの皇帝たちは、ローマの神々に祈ることはあっても、皇帝としての信任は、市民から、その代表たる元老院から受ければ、それで事足りたのだった。そして、帝都をローマではなく、コンスタンンティノポリス(現イスタンブール)ヘ建設し、キリスト教会は創っても、ローマのお神々をまつる神殿は一切建設しなかったのだ。
しかし、世界の研究者たちの説を時折紹介しつつ塩野史観が書きつづられていくのだが、欧米の研究者の中にも、これほどまでにコンスタンティヌスがキリスト教を擁護しなかったならば、キリスト教が今日のように普及してはいなかったであろうとする認識が定着しているようだ。それほどまでに、コンスタンティヌスの行った改革は影響力を持っていたのだ。しかし、この施策の後、ローマは急激に衰退し、分裂し、暗黒の中世世界へと入っていくことになる。
多民族を受け入れ、多宗教を受け入れ、市民権を既得権ではなく血税をあがなって獲得する獲得権としていたローマは、輝いていたように思う。太陽とともにあったように思う。自由で、多少奔放な雰囲気のあるローマが、コンスタンティヌスの登場で絶対君主制となり、輝きは、薄暗い教会に光るろうそくの炎のように、闇の中の存在になってしまうのだ。読み進みながら、だんだん寂しさが募ってきてしまった。
私がこのシリーズに手を染め始めたのは、いまから4,5年前になる。大学のお休み期間中を利用して、休みごとに3,4巻づつ読み溜めてきた。その最大の理由は、もともと多神教国家だったローマ帝国が、なぜ、帝国末期にいたってキリスト教を擁護する側になったのか、その理由が知りたいからだ。そして、ローマ帝国の崩壊から15世紀のルネサンス革命までの約1000年の中世暗黒時代を迎える訳だが、その間、知識や文芸の中心が、言い換えるならば、キリスト教会のみがインテリジェンスの中心に座ってしまうのだが、どうしてそのような情報、知識の集中現象が起きてしまったのかという疑問なのである。
以上の疑問は、私の出版文化論を構成する上でも大変重要なことである。出版文化を構成する場合、ルネサンス期に起こったグーテンベルグの印刷革命へ行き着く前に、どうしても中世について触れなくては成らず、そうなると、キリスト教会の情報センターとしての性格に触れざるを得ず、必然的に、その前の時代の治世から説き起こしていく必要に迫られるのだ。
「ローマ人の物語13巻 最後の努力」を読み通して、第一の疑問、「なぜキリスト教を擁護する必要が出てきたのか」については、理解できたように思う。具体的には、混迷の3世紀を過ぎて、帝国に2名の皇帝、その後は4名の皇帝による共同統治時代を経て、コンスタンティヌス帝の時代になると、中世の絶対君主性に近い君主として存在するようになる。それまでの皇帝は、ローマ市民と元老院から信任を受けて、統治を委託された存在だったのである。ところが帝国があらゆる面で衰退し、北からの蛮族の侵入やオリエントのペルシャとの戦争などに忙殺されていく中で、皇帝はローマ防衛線(リメス)に張り付くようになり、どんどんローマの元老院との距離は遠くなっていく。その結果として、東西を2名の皇帝で守護していく体制や、4名の皇帝と副帝で統治していく体制となり、どんどんローマ的な価値観から離れて、絶対君主制へと近づいていくのだ。その最後に残ったのがコンスタンティヌスだったのである。
コンスタンティヌスは、ローマ的ではなく、つまりローマ市民、元老院の信任を得て、つまりローマ的に言うのであれば、統治を委託されてではなく、自ら皇帝になった訳で、そうなると皇帝の信任をしてくれるもう一つ上の権威を必要としたようだ。そこで、キリスト教を擁護し、神の信任を受け、現世的な世界を統治するという体裁が必要となった。神から信任を与えられる戴冠式を挙行した最初の統治者となった。その後の王侯が、ことごとく、戴冠式を挙行するようになった原点だったのである。ローマの皇帝たちは、ローマの神々に祈ることはあっても、皇帝としての信任は、市民から、その代表たる元老院から受ければ、それで事足りたのだった。そして、帝都をローマではなく、コンスタンンティノポリス(現イスタンブール)ヘ建設し、キリスト教会は創っても、ローマのお神々をまつる神殿は一切建設しなかったのだ。
しかし、世界の研究者たちの説を時折紹介しつつ塩野史観が書きつづられていくのだが、欧米の研究者の中にも、これほどまでにコンスタンティヌスがキリスト教を擁護しなかったならば、キリスト教が今日のように普及してはいなかったであろうとする認識が定着しているようだ。それほどまでに、コンスタンティヌスの行った改革は影響力を持っていたのだ。しかし、この施策の後、ローマは急激に衰退し、分裂し、暗黒の中世世界へと入っていくことになる。
多民族を受け入れ、多宗教を受け入れ、市民権を既得権ではなく血税をあがなって獲得する獲得権としていたローマは、輝いていたように思う。太陽とともにあったように思う。自由で、多少奔放な雰囲気のあるローマが、コンスタンティヌスの登場で絶対君主制となり、輝きは、薄暗い教会に光るろうそくの炎のように、闇の中の存在になってしまうのだ。読み進みながら、だんだん寂しさが募ってきてしまった。