叔父の葬儀へ向かう車中の暇つぶしに、叔父の思い出を手繰りよせよう。この叔父は、母方の三男坊、母とは、「ねぇちゃん、まこっちゃん」の間柄だった。女三人男三人の六人兄弟。我が母は長女であり一番若い叔父を、なにかと気遣っていた。叔父も、ねぇちゃんのことを大事に考えてくれていたことは、子供ながらにもよく理解できていた。ある意味、母の助言は、叔父にとって絶対だった。時には、有無を言わせない命令だったかもしれない。昭和45年の春、私は東京教育大学農学部を受験した。合格し、高校の担任からは知らせが来たのだが、肝心の大学からの通知が遅れている事に業を煮やした母は、叔父に命じて、合格者掲示板を観に行かせた。叔父は忙しい銀行マンだったはずなのだが、間も無く電話してきて、確かに私の番号があること、記念に写真を撮影したから、焼き付けて送ってくれるとの事。ようやく母が納得したのを観て、親父もわたしも、やれやれ、これでよしこれでよし、ようやく家内平穏がやってくると、安堵したものだ。大学時代も、たぶん、我が母との示し合わせがあったかどうか、いまや確かめようがないのだが、何の前触れもなくキャンバスにあらわれて「よぉ、哲夫!どうだ調子は?」といった感じで、驚かされたものである。その都度、東京の美味いものを奢ってもらった。帰り際に、ぼろりと、「家に電話しておけよ!」の一言! 重荷にならぬようにと軽くいうのだが、ずしりと響いたものだ。このように始まった私の大学生活だが、気がつけば、叔父は東京生活のオアシスになっていた。寮食や学食に飽きた頃に食べさせてもらった江戸前の寿司や天丼の味は、格別だった。野球の長嶋選手より、たしか4歳年上の叔父は、大学が同門であり、構内で長嶋を見かけた時の話を、さも誇らしげによく話していた。実に颯爽としていて、惚れ惚れと眺めていたらしい。巨人ファンだったかは知らない。今日はそのことを、喪主の長男に聞いてみようか。
実は昨年の夏、叔父は連れ合いに先立たれている。私にとっては、いつも穏やかで優しい叔母だった。この夫婦の仏前結婚式に出た幼い頃の記憶がある。幼少の私は、昂揚した二人の恥ずかしげな表情をよく覚えている。叔父にとって生家であり、地域の中心的なお寺での仏前結婚式だった。私にとっては人生初の結婚式への出席だった。すべてが新鮮で、興味津々だった。お寺に着いてすぐに、驚かされたことを覚えている。新郎の叔父が鍬とスコップを持って、お客さんがお御堂へあがる参道の一部の泥沼化した窪地の整備をしていたのだ。あるいはお御堂でのお式の後、夫婦揃って退室する通り道だったかもしれない。でもその時は、「え、どうして新郎がそんなことをお式の当日にやっているの?」と、幼心にも不思議に思ったものだ。そしてこの日から、新婦の叔母ちゃんに会うたびに、必ず優しく声をかけてくださるようになった。会えば必ず優しく、声を掛け続けてくださったのだ。その正代おばちゃんが、昨年の7月になくなった。それ以来、叔父は寂しげに元気がなくなり、日に日に精気を無くしていったらしい。
叔父に想いを馳せる時、欠かすことができないエピソードがある。高度経済成長期の東京で銀行の営業マンとして、まさにモウレツに働き60歳で定年となった叔父は、そこから寺に育った息子としての本領を発揮しだすのだ。築地の本願寺の研修施設で得度し、浄土真宗の僧侶資格を取ったのである。爾来、叔父は地元の市川を中心に、必要とあれば市川を出て、遠くは都内23区へも駆けつけての布教活動を始めた。しかし、往往にして人生の希望的な転進の時節には、大きな試練が付きまとうものだ。布教活動を始めて1年ちょっと経った頃のことだ。多分、銀行時代のストレスが起因となっていたのであろうが、胃がんを発症し、胃の全摘手術を受けることになった。入院生活は約半年にも及び、当時就職していた私は、例のごとく母に命令され、何度か都内は赤坂の近くにあった入院先へお見舞いに行くとこになる。入院は長引いたが回復し、食事上の不便は残ったが、見事ガンからの生還を果たしたのだ。外へ出かけられるまでに回復すると、各ご家庭の法事や葬儀に、再度猛然と立ち向かい、同時に檀家をじわりじわりと増やしていった。さらに、自宅を生家の寺院の分院として、お寺にしてしまったのだ。
ところがここで、生家の小松と我が母のいる福井で、大騒動が持ち上がってしまったのだ。当時、生家のお寺は、この六人兄弟の長男が住職を務めていた。その長男住職が、「ワシに詳しい相談もなく分院を建てるなど持っての他だ」と言い出したのだ。それに対して、幼少の頃から擁護し続けている我が母は、まこっちゃんの決断と行動を絶対支持して、「にいちゃん!なんてことを言うの!私はすごく良いことだ思うし、絶対に最後まで応援するから、にいちゃんも認めてやって!」と、大論争が勃発したのだ。他の兄弟たちも、微妙に立場は違えど、ほぼ我が母と同じ気持ちだったように思う。
今回、市川の地に降り立ち、その当時の叔父はどうだったのだろうと、自然とその頃の叔父の意識に、私の想念は向かっていった。北陸は小松と福井の間で繰り広げられている長男と長女の言い争いを、どのような心境で捉えていたのか、すごく気になりだしたのだ。しかし、これは感覚的な言い方しかできないのだが、これこそほぼ正解だとも直感が言っているのだが、「ねぇちゃんとにいちゃんの私についての言い争いなど、ありがたいことではあるが、どうでも良いじゃないか! 目の前に僧侶を必要としている状況がある限り、私はその方々のお世話を誠心誠意するだけだ」。空間的距離感は、時に人を客観的にしてくれるものだ。叔父にとって、長男vs長女の北陸戦争など、「我関せず!どうぞお互い好きにやりあってくれ! 私は仏縁を大事にお参りに行くだけだ」との、明鏡止水のような心境だったのではなかったかと、確信した。
この思いは、通夜会場に入り、長男である喪主に会い、通夜の読経を体感し、通夜振る舞いを他の従兄弟や縁者たちと共にして、さらに確信の度合いを深めていく。従兄弟にあたる喪主の長男は、親を見習い、また自身も信念を持って、叔父と同じように築地本願寺で31歳の時に得度している。近年は叔父を手伝ってもいた。昼は日本有数の広告代理店、それも過労死問題で話題になるくらいの超有名広告会社の社員として働き、家にあっては叔父を手伝い、分院の運営と維持に努めてきていた。この長男の葬儀当たっての立ち居振る舞いを観ていて、確信を深めていったのだ。
いくつもエピソードがあるのだが、その最たるエピソードを最後に書き留めたい。葬儀には戒名を入れた位牌がいる。その戒名を喪主である長男は、本家筋、この場合小松の生家筋になるのだが、どうしたら良いか、相談したらしい。本家筋の回答は、「あなたも僧侶なのだから、自ら決めれば良いのでは」と言うもので、何の助言もなかったという。そこで、彼は通夜の前日、様々な仏書を見たりして考えたそうだ。深夜約5時間以上、考え抜いた。そして本家の境内で営んでいる幼稚園の名称に着目し、そこから一文字いただくことにした。その文字は「智」。出来上がった戒名は、「智明院釋了實」。「智」を入れたことで、本人も得心の戒名が出来上がったそうである。本人の表現を借りれば、「スゥーと、胸の内に落ちていった」。
さて、この「智」は、六人兄弟で最初に仏様になった我が母の戒名にも使われている。我が母の戒名は、「智道院釋尼浄華」である。この戒名は私が本家の住職で、我が母の兄に頼んで考えていただいたものだ。戦後、母は祖父と一緒に、寺の境内で幼稚園を始めた。その名称が、「智光幼稚園」である。この幼稚園は、今や従兄弟の息子が園長先生を務める時代になっている。喪主の貴雄は、このような経緯で「智」が既に使われていたとは知る由もなかった。しかし図らずしも、同じような思考回路から、自らの親の戒名を本家筋から拝借し、堂々と僧侶らしく戒名を作り上げたのだ。
喪主の長男が、感覚思考と感性飛翔の末にたどり着いた叔父の戒名を観て、驚き、嬉しさが込み上げてきた。「ねぇちゃんとまこっちゃん」は、同じ「智」の文字で始まる戒名を共有した。それも、次世代の主人たちの目の見えぬ糸を手繰り寄せるような感覚思考の末に、導き出されていた。そして、何かを共に共有するシンボルの「智」となった。喪主の長男に、我が母の戒名の由来と作成の経緯を告げた時、彼は「これこそ仏縁ですね」と言った。私もそう思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿