月曜日, 4月 30, 2007

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作品「バベル」

先週の金曜日頃から、このところ途絶えていた映像体験研修を集中的に行っている。主に、DVDと映画館へ出掛けての研修である。研修対象作品は、DVDでは宮崎アニメ「魔女の宅急便」「のだめ・カンタービレ」「プラダを着た悪魔」、映画館では「バベル」「クイーン」の5作品である。
 それぞれ勉強することはたくさんあったのだが、ここは「バベル」について考えておこう。監督は、メキシコ人のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、1962年生まれの45歳。これも話題作となり役者たちがアカデミー賞にノミネートされた「21グラム」の監督でもある。この映画の底流を流れるテーマは、「境界を形成するものは、言語、文化、人種、宗教ではなく、私たちの中にある」(公式HPの監督紹介コーナーから引用)だという。確かに、このような難しいテーマを見事に描ききった手腕には驚いた。しかし、さらに驚いたことは、このテーマをアメリカの映画界がこぞって受け入れ、アカデミー賞の作品賞の対象にもなったことだ。
 人間の奥底にある「境界」を創り出してしまうもの、いわば、人間としての「業」のようなものを普遍的に描こうとしているように思う。確かに監督自身の言葉や、そしてタイトルは、旧約聖書から借用した「バベル」。しかし、私にはもっと他にメッセージがあるのではないかと思った。それは、アメリカ型のグローバリゼーションがいま世界にもたらしている「傷」についての叫びである。傲慢で身勝手なアメリカ人夫婦をおそった被弾事故から、物語は同時進行的にモロッコの砂漠地帯とモロッコ人通訳の住む貧村、メキシコからの善良な出稼ぎ家政婦と彼女の息子や従兄弟たち、そして、不法入国が恒常的に問題化しているアメリカ・メキシコの国境砂漠地帯、銃撃に使われた銃の元所有者である日本人の父親と聾唖者である娘。住んでいるのは欧米化した都市文化とは明らかに異相の発展を遂げている東京。
 人の心の中に巣くう砂漠のような、乾いた、ザラザラしたもの。その象徴としての乾いた大地、はげ山と化しているモロッコの山岳地帯。晴れやかなはずの結婚式のフェスタが開かれるメキシコの貧村にも、砂埃が立ちこめ、祝祭の行く末に不安を投げかけている。それは、華やかでコンクリート・ジャングルと化した東京の繁栄の中にある実像として砂漠にも繋がる映像。見事な構成力で観る人々に気付かせてくれる何か。見事な映画としか、言葉がない。
 全体的にドキュメンタリータッチの映像が続く中、一カ所だけ、生っぽいシーンが出てくる。それは、メキシコからの家政婦がアメリカ人夫妻の二人の子供を自分の息子の結婚式に連れ出し、帰り道で国境を監視するポリスとトラブルを起こしてしまい、不法滞在がばれて、即刻国外退去を言い渡される留置場でのシーンである。この部分だけは、定式化したアメリカ裁判映画のタッチで、そのシーンだけが、やけに「生っぽく」描かれている。そのシーンだけは、実に異質なのだ。監督の明らかなメッセージといえるのではないだろうか。
 何故なら、観客をある種のカタルシスへ誘うシーン群、例えば、警官隊に追い詰められ、兄を死なせてしまい、ついには自ら銃撃犯であることを叫び、兄を助けてくれ叫ぶシーン、あるいは、孤独の局地から父親の懐に抱かれ、絆を回復していきそうなことを予感させるマンションのベランダでのシーン(役所広司と菊池凛子)、ハイウェイ国境の出口へ強制退去を強いられた母親を息子が出迎えるシーン、これらの、いわば安堵させるシーン群ですら、ドキュメンタリー風の映像美で綴られているからだ。
「バベル」公式HPへのリンク 

金曜日, 4月 20, 2007

リリー・フランキー著「東京タワー オカンとボクと、時々オトン」

書店の店員が推薦する書籍として、最初じわじわ、なかぱっぱ、一昨年の暮れには大ヒットとなった本である。そして「2006年本屋大賞」を受賞。なんでも、200万部を越す大ヒット本だ。私は、ずっと気に掛かっていたが、常に無視していた。しかし、あることから、ついに読んでしまった。その経緯から説明しよう。
 最初は、この冬の月9ドラマからだ。速見もこみち主演、助演が倍賞美津子の11話を全部完全に見通したのではないのだが、まだら状態で、とにかく観ていた。だいたいストーリーは掌握した。春には、日テレ系列から劇場映画となることも知っていた。そこで、テレビと映画では、どのような違いがあるのか、それを観てみたい。演出の違い、挿話の扱い方、演技人の共通性、あるいは非共通性など、観察ポイントはいろいろイメージ出来た。日テレVSフジテレビという観点もある。何より、全体を通してのトーンがどうなっているのかを、直に確かめたくなったのだ。
 先週の土曜日、暇を見つけて、劇場映画「東京タワー」を見に行った。こちらは、主演はライフカードのCMでおなじみのオダギリジョーさん。オカンは、樹木希林。オカンの若かりし頃の役は、樹木希林の実の娘である内田也哉子。内田也哉子は、樹木希林とロッカー内田裕也との間に出来た一人娘で、役者本木雅弘と結婚し、子供二人の母親でもある。そう! まず、このキャスティングが、気が利きすぎているのである。樹木希林、内田裕也……、と想像すれば、別居状態夫婦という立派すぎるイメージがあり、「リリーさんちと同じじゃないか!」と思ってしまう。これって、マーケティングなの? マジ、キャスティングなの??? という、観客にはまたとない興味を、持たせてくれるのである。
 映画を見終わり、私としては珍しく最後のクレジットロールまで付き合ってしまった。初日の昼の上演だった。土曜日と言うことで、中年の夫婦連れが多い。明らかに目を腫らした人を見てしまった。かくいう私も、自分の母親を思い出しながら、映画に没入してしまっていた。マジ、何年かぶりで、たぶん、20年ぶりくらいで、ドラマを見て、涙がポロポロ落ちていた。
 正直にいうと、この映画、出来すぎである。これは素晴らしく上質の映画になっている。何より、樹木希林さんの演技が秀逸なのだ。見事というほか、言葉がない。まさに、化け物役者。そして、その娘の演技も素晴らしいのである。その存在感は、リリーさんの恋人役を演じた松たかこを完全に食っていた。こりゃ、内田裕也オトンもメロメロになるに違いない。これがきっかけで、樹木希林との同居へと、よりを戻すのではなかろうか、とは巷の邪推である。
 こうなると、原作に当たらざるを得なくなり、読んでしまったと、いう訳である。読んでみたところ、さらに涙腺が緩くなってしまった。映画を観てから約28時間後の深夜には、涙で文字がぼろぼろになり、眼精疲労克服のためにやもをえず、就寝しなくてはならないくらいだった。書籍の帯に、ある書店員さんが書評を書いていたが、「リリーさん、これは反則だよ!」。私はこの本を、セミナー生に薦めようと思い、2冊購入。研究室に置いてある。
 さて、テレビドラマ、劇場映画、原本と確かめてきたわけだが、原書から逸脱した演出、脚色上の配慮から若干書籍のストーリーを膨らませて演出した部分など、実に面白い発見があった。特に、主人公のリリーさんと彼女、そしてオカンとの交流部分が、見事に脚色されている。こういうのって、リリーさんや元彼女の了承積み演出なのだろうか? でも、ここでテレビVS映画の勝負の軍配を決めなくちゃ成らないのだが、私は映画の方が、この書籍の持つ時代的な意味を良く汲み取って演出編集してあり、絶対的に支持したいと考えている。
 原作者リリー・フランキー:1963年生まれ。脚本松尾スズキ:1962年生まれ。監督松岡錠司1961年生まれ。素晴らしい才能が花を咲かせている。
 この作品を調べていて、もう一つ、嬉しい発見があった。私はセミナーでアニメプロジェクトのメンバーに8分間のアニメーション「岸辺の二人 Father and Daughter」を必ず参考作品として見せている。このアニメを観たあるメンバーなど、8分後には泣いてしまった子がいるくらい素晴らしい作品であるが、その絵本バージョンがくもん出版から発行されている。その翻訳が、内田也哉子さんだったのである。こういう、目に見えない「縁」を発見したとき、私は自分の感性の行方を再確認出来て、とても嬉しいのだ。信じるべき「何か」を確認できたようで、幸せである。
映画「東京タワー」オフィシャルサイト

   アマゾン・プライムのラインアップ構成、なかなか気が利いていると思います。このお盆の時期、見放題のラインアップに、「戦争と人間=3部作品」や「永遠の0」が出てきていましたが、それよりも良かったと思ったのは、「空人」です。エンターテイメント性は希薄ですが、これぞ名画といった作品...